「ッ!」
バツン、と聞いたことのない音がして、次の瞬間世界が逆転した。雲一つない青空だけが視界いっぱいに広がり、ああ今日はいい天気だな、こんな日に訓練とかこの世界は残酷だなんて思っているうちに体が地面へと叩きつけられる。痛いとかそれ以前に、息ができなかった。肺に空気を取り込もうと大きく息を吸い込んだつもりだったが、入ってきたのはほんの僅かだった気がする。モブリットらしき男性が私の名前を呼ぶのが聞こえたのを最後に私の意識は沈んでいった。
自慢じゃないが立体機動装置の扱いは同期の中でもトップクラスの実力を持っていたと自負している。訓練兵時代には、実習初日でベテラン調査兵士並みに自由自在に宙を飛び回って、教官に「誰がそこまでやれと言った!」などと叱られてしまった。なんでだ。使いこなせているんだからいいじゃん。ちっぽけな自尊心と思春期特有の反抗心のちゃんぽんにより、当時の私は教官のいうことをほとんどきかないじゃじゃ馬だった。私には立体機動装置を身に着けてトリガーを握った時になにをどうすればいいのかなんとなくわかっていたのだ。あの感覚は今でもよくわからない。そんな慢心が災いしたとは思えないが、訓練中に立体機動装置が突如として故障してしまい、私は地面に真っ逆さまに墜落した。
「骨折で済んで良かったな」
「だよね、訓練中に事故死するくらいなら巨人と戦って食われる方がマシだよ」
「滅多なことを言うなって……俺はどっちも嫌だ」
「あっズルい!私だってどっちも嫌だけどさ!」
「自分で言い出したんだろ……」
同期であるモブリットはため息交じりに呟きながらシャリシャリとお見舞いの定番・リンゴの皮を剥いていた。「うさぎさんにして」と恥ずかしげもなく注文を付けたら「俺はそんなに器用じゃない」などど言って結局全部剥いてしまった。嘘つき。ほんとはめっちゃ器用なくせに。ハンジさんの副官を立派にこなしているこの男が器用でないはずがない。モブリットが不器用なら人類の8割は不器用だと思うのだけどそれは……?反論しようとしていたところでずいっと丸裸にされたりんごが差し出される。それを見てうさぎさんが良かったなあなんて大人げなく少ししょんぼりしていたら今度は無理やりフォークを握らされた。
「食べさせてくれないの?」
「なんで」
「うわ、冷た……私、怪我してるのに」
「腕は平気だろ」
にべもない。これ以上やっても彼が折れないのは目に見えていたし、別に深い意味もなかったので早々に諦めてりんごの皿を受け取った。りんごはすごく酸っぱくて、もしかしていつの間にかモブリットにレモンでもぶっ掛けられたんじゃないかと疑うほどだったが、なんとなく文句を言うなと視線で訴えられているような気がしたので我慢して完食する。それを見計らってモブリットが腕を伸ばし、お皿を回収していった。
「モブリットってさあ、良いお母さんになれそうだよね」
「…………はぁ?」
「ほら、りんごの皮むき上手だし、ハンジ分隊で鍛えられてるせいか気もきくし。これってお母さんじゃん」
「なんでだよ!リンゴの皮むきくらい誰でもできるだろ!ていうか、せめて父親にしてくれよ」
「いや絶対お母さんの方がしっくりくるって。ハンジさんに聞いてみ」
「い・や・だ」
ハンジさんにこんな話をしたら抱腹絶倒間違いなしなのを想像してか、モブリットは巨人を見るような憎しみに満ちた目をしていた。きっとハンジさんなら面白がってからかい倒すに違いない。あの人は私よりも遠慮がないので擦り切れるまで擦り倒すタイプだ。まあ私からハンジさんへ言ってしまうという手もあるのだけど、僅かに残る良心がそれを咎めた。さすがに同期が仕事以外で胃を痛めているのを見るのは忍びない。残念ながら私はハンジ分隊の人間ではないので苦労を分かち合うことはできないが、ハンジ分隊長に振り回される彼は時々笑えないくらい疲れている。「まあ飲みにでも行こうや」とか言ってスマートに愚痴でも聞けたら良いのだけれど、生憎私は下戸だし、モブリットはまあまあイケるものの深酒になると泣き上戸になって正直めんどくさかった。なのでこういう役割はハンジ分隊の他のメンツに任せることにしていた。
「そういえばモブリット、訓練は?」
ハンジさんで思い出した。私が意識を失っていたのはほんの数分だったはず。なのになぜモブリットがここにいるのだろうか。
「まだやってると思うけど。俺はの付き添いで抜けただけ」
「えーそんなの別に良いのに!ほんと世話焼きだね」
「……お前な……人がどれだけ心配したと思ってんだ」
「逆にたかが墜落程度でなんでそんなに心配するのか理解に苦しむんだけど」
「それはっ……ど、同期なんだから当たり前だろ」
ガタッと大きな音を立てて椅子から立ち上がりかけたモブリットだったが、すぐに勢いをなくしてまた着席した。その様子をきょとんと眺めているとモブリットの耳はみるみるうちに赤くなっていく。照れるくらいなら言わなきゃいいのに。ていうか、この人も照れることあるんだあなんて思って凝視していたら居たたまれなくなったのか両手で顔を覆ってしまった。
「今のは、忘れてくれ。頼むから」
「そ、っかあ……心配してくれるんだ」
「同期としてだぞ!同期として!」
「わかったわかった」
思い返せば初めての壁外調査の日も巨人との戦闘で震えが止まらずにいた私の背中をずっとさすってくれていたのはこの人だった。記念すべきデビュー戦で同期の半分近くを失ったわたしたちは、生きている奇跡をかみしめるように半べそで夕飯を平らげた。あの時の掌の温かさをどうして忘れていたんだろう。きっと当たり前になりすぎていたんだ。壁外デビューからすでに数年が経っている。その間に同期はゴリゴリと減っていって、今ではわたしたちを含め片手で足りるほどの人数しか残っていない。
「ねえ、モブリット」
「……なんだよ」
「ありがとね」
「…………素直すぎて気持ち悪い」
「人がせっかく反省してるというのにこの仕打ち」
「は少し煩いくらいの方が丁度いいよ。じゃないと俺も全力でつっこめないし。だから早く治せ」
「……え、なにそれ怖い」
さよならメタモルフォーゼ: :家出
2025/09/16