調査兵団分隊長副官の仕事は案外暇だった。……なんて言ったらモブリットにうなじを削がれるかもしれないので口には出さないでおくが、実際ミケ分隊の副官はそこそこ暇な役職だった。分隊長であるミケさんは寡黙な分、こちらがいろいろと察して動く必要はあるが、誰かさんみたいに死に急いだりしないので全力で叫んだり羽交い絞めしたりして体力を無駄に消耗することはない。そんな(ハンジ分隊と比較して)心労のあまりないミケ分隊だが、ひとつだけ困りごとがあった。
なにかって、それはミケ分隊長のあの癖だ。調査兵団ではハンジさんの奇行と同様に有名な、初対面の人の匂いを確かめては鼻で笑うという癖。実はミケ分隊のメンバーは初対面の1回限りではないのである。なんならほぼ毎日だ。それも副官となれば分隊長と行動を共にする機会もほかの兵士より多くて、つまり臭いを嗅がれる回数も増えるのだった。たとえば、朝会った時、訓練が終わった後、お風呂上り、街へ出て帰った時……思い返せば日に何度もやられている。そしてどこに行っていたか、なにを食べていたのかをピンポイントで当ててくるから恐ろしい。過保護な母親か。
現在進行形で私の背後には匂いを確かめようとしているミケ分隊長が少し上体を屈めている。調査兵団でも一二を争う大柄なミケさんに傍に立たれると、ぶっちゃけ巨人が居るようで落ち着かなかった。というか、陰になって仕事が進まない。
「……あの、分隊長……」
「……」
「ちょ、聞いてます!?」
「…………血の、臭いがするな」
「えっ」
たしかに今私が着ているブラウスは前回の壁外調査の際にも着用していてたくさん血が付いた。思い出したくもないが、巨人にぱっくんされて腕の骨が折れて危うく噛み千切られそうになった時の血が。ほんとに死ぬかと思った。助けてくれたのは他でもない、ミケ分隊長だ。普段はこんな感じだがいざ戦闘になればリヴァイ兵士長に次ぐナンバー2の戦力である。普段からは想像できないけど。ペキンと、嫌な音がした瞬間に巨人の顎がだらしなく開いて、私は九死に一生を得た。痛みと恐怖で涙が止まらないぐしゃぐしゃな状態の私を担いで帰ってくれたのも彼だった。今まで何度かそんな風に助けられた。だから、こうして毎日のように匂いを嗅がれることも甘んじて受け入れる程度にはこの人に頭が上がらないのだった。
血は帰ってからきれいさっぱり洗濯して落とし切った。はずだ。いやまあ、たしかに染みついた臭いはそう簡単に取れないのかもしれない。自分では気にならないというかほぼ無臭だが、ミケ分隊長にはわかってしまうらしい。
「たぶん、前回の壁外調査で巨人にかじられた時のやつですね」
「……怪我はもういいのか」
「いつの話だと思ってるんですか。もう半年も前ですよ」
「は細すぎる……」
「分隊長が逞しすぎるんですー!」
明らかに私の2倍はありそうな分隊長の腕が私の手を取る。このまま分隊長が私の腕へし折ったらめっちゃうけるな、とか縁起でもないことを考えていたらミケさんは私の手の匂いを嗅ぎ始めた。今日はやけに念入りな気がする。どこかへ出かけたりなどもしていないので、その理由は私にはさっぱり見当もつかないが。それにしても、一体何を食べたらこんなに大きくなれるのか。団長もハンジさんも、悔しいけどモブリットにだって、大きさでは敵わない。女性としては平均的な身長と体格の私だがやっぱりこうやって普段からでかい人間に囲まれてると(いや巨人のことじゃなくて)遺伝子というものの存在を恨まずにはいられない。
私の片腕は相変わらず分隊長に拘束されているので、仕方なく片腕で資料の整理をする。今取り掛かっているのは要るいらないを仕分けるだけの簡単なお仕事なのでさほど影響はなかった。とはいえ、まったく気にならないといえば嘘になるだろう。分隊長のさらさらの金髪が私の頬あたりで揺れるたび、ふわりと分隊長の匂いが漂ってくる。なんの匂いかはわからない。わかるようなわからないような……頭の引き出しから似たような匂いの記憶を出そうとつい無意識に嗅いでいると、至近距離で目が合ってしまった。
「す、みません、つい……」
離れようとして身を引いたが、ミケさんに掴まれた腕はそのままだったので距離を取ることは叶わなかった。いつもは下から見上げるアングルが多いので、こうして同じくらいの高さで目を合わせるのは変な感じだ。切れ長の目がこちらを遠慮なしにじっと見つめてくるのはなんとも居心地が悪くてソワソワしてしまう。
「俺はどんな匂いだった?」
「あ、それが、思い出せそうで思い出せなくて……」
「はいつも、良い匂いがする」
「えっ……血の匂いじゃなくて?」
「それは服の方だ。お前はなにか、甘い花のような匂いがする」
甘い匂い?まったく心当たりがない。というか今まで言われたこともないので本当かと疑った私はミケさんに掴まれているのとは反対の腕を自分で嗅いでたしかめてみる。……うーん、全然わからん。甘い匂いとは体臭のことだろうか。人に言われるとめちゃくちゃ恥ずかしいはずの体臭の話も、ミケ分隊長から言われるのにはもう慣れ切ってしまった。副官に任命された当初はまだ若かったし、羞恥心もそれなりにあったが……一々気にしているのが馬鹿らしくなって今ではもう犬かなにかだと思ってやり過ごすことにしている。
「分隊長って、いつも人の匂い嗅いでますけど……なにが目的なんです?」
「……これは、まあ、マーキングみたいなものだ」
「は、はあ……?」
やっべ、意味がわからない。ハンジさんより奇行が少なくて助かると思っていたけれど、この人も十分変人には違いなかった。自分で聞いておきながら私は「あ、そっすか……」と早々に話題を切り上げた。ようやく満足したのかミケさんが離れていったので、私も何事もなかったかのように仕事の続きに取り掛かる。そういえば今日の分隊長はやけに饒舌だな。なにか良いことでもあったのかな?なんて余計なことを考えながらでも、期日には余裕をもって終わらせられたのでやっぱりミケ分隊の副官は楽な部類なのだろう。外からかすかに聞こえてくるモブリットらしき男性の叫び声を聞きつつ、私をミケさんの副官に任命した団長へ感謝するのだった。
世界は破滅へ向かいたがっている::行き場のない言葉
ミケさんに東京テイスティングさせたら優勝できそう
2025/09/15