少女は死に続けていた。悲しみと絶望の中で死んでいった記憶も、そのたびに繰り返された。制御できない涙がとめどなく溢れ、首筋を伝っていく。死にたくない。でも死ななきゃ。もうだめだ。そんな強迫観念が彼女を支配し、震える手で包丁を首へ運ぶ。ぎゅっと目を瞑って、ひと思いに包丁を刺した。きっとこれで楽になれるんだ、みんなのところへ行けるんだと、そんな淡い喜びに包まれながら、少女は音もなく血だまりに倒れる。今から死ぬというのに、動悸が激しかった。よく見慣れたキッチンの天井を視界に映しながらゴボゴボと血を吹き出す。家族の顔が暗い脳裏に浮かんで消える。そしてまた死を続けるのだ。ふと気がつくと包丁を握ってキッチンに立っている。家族の笑顔を思い出す。涙が溢れてとまらない。どこかで、叩きつけられたガラスが割れていた。
「――さん、もう死ぬのはやめて、一緒に行こう」
長身の男に話しかけれられた少女はぼんやりと彼を見つめる。誰だろう?まあいいやそんなことより死ななきゃ。少女は差し伸べられた手をスルーして再び自身の喉元に包丁を突き付ける。これで首を切って、そしたら血が出て私は死ぬ……何度も何度も繰り返したその動作を無心で反復しようとしたが、男の手に腕を掴まれたことで未遂に終わってしまった。腕はびくともしない。少女は少し腹立たしい気持ちで男をじろりと見上げた。男は掴むだけで、包丁を取り上げるでもなく、捻り上げるでもなく、ただ穏やかな笑顔で少女を見つめていた。どうしてこの人は邪魔をするんだろう。私は死ななきゃいけないのに。どうして?
「あの、私これから死なないといけないので、放してもらえますか」
「もうそんなことしなくていいんだ。さあ、その包丁を置いて」
「だめです、私、死ななきゃいけないので」
「君には生まれ変わるという選択肢があるんだよ」
「生まれ変わる?」
「君は死んだ。おれと一緒に行こう。生まれ変わるために」
「そんなの……いりません。大丈夫です。私、死なないといけないんです」
「生まれ変わるのが嫌なのかい?」
「生まれ変わったら、私は私じゃなくなるんですよね?家族のことも忘れてしまうんですよね?それなら、このままがいいです。ずっと死に続けます」
「……生まれ変わるのって、そんなに悪いことじゃないと思うけどなあ。まあおれは獄卒だから、そういうのよくわからないけど……」
「わからないのに、どうして言い切れるんですか?」
「たくさん見てきたからね」
「…………お兄さんは、誰なんですか?」
「おれは――」
男がふんわりと微笑んだ。獄卒、とは一体なんなのか、少女にはわからない。が、悪いものではないように感じた。少なくとも目の前の男は。死に続けてどれくらいの時間が過ぎただろう。彼女は死んでから初めて死ぬ以外のことに思考を巡らせた。生まれ変わるなんて考えてもみなかった。もう、死ななくてもいいの?雁字搦めにされていた体が解けたみたいに弛緩する。包丁が少女の手からぽろっと落ちたところでは目を覚ました。激しく揺さぶられている感覚に思わず「う~ん……」と唸る。
「、起きろ」
「大丈夫かい?」
「……きりしまさん、きのしたさん」
「ああよかった、目を覚まして」
「……私、もしかして寝てました?」
「寝ていたというか、気を失っていた」
「怪異に取り込まれたんだ。覚えていないのかい?」
「あ……そうだ、私、名前を呼ばれて……」
「それだな」
「名前を呼ばれる怪異……か」
「やっぱり振り返ったらダメ系の怪異だったんですね」
「そのあとは?」
名前を呼ばれてからの一連の出来事を説明するが、二人とも首を傾げた。が姿を消した数十分後、彼らも開かずの間に入っている。しかしそこは文字通りのがらんどうだったのだ。どうにも話がかみ合わない。
「おれたちの空間は重なっていたけど、別だったってことかな」
「なにが言いたい?」
「いや、おれにも良くわからないけど」
うまく説明できないなあ……と木舌は苦笑して頭をかいた。意味がわからないわけではないが、誰もその理屈を説明できる者はいない。結局3人とも「そういうもの」ということで一旦決着をつけることにした。
「ところで、木舌さん……」
「ん?なんだい?」
「その黒い汚れ?どうしたんですか?墨でもぶちまけたみたいになってるじゃないですか」
「ああ、これはねえ」
二人はに黒い影が現れたことを伝える。それを斬った瞬間、流れていってしまったことも。吸い込まれていった畳にはなんの痕跡も残らなかったのに、それを掴んでいた木舌の上衣にはべっとりとどす黒いシミがこびりついていた。
「……それで、切ったらが出てくるかなと思って試してみたんだ」
「えぇ……斬島さん、私になにか恨みでもあるんですか」
「いや、特に心当たりはないが……勘違いさせたならすまない」
「マジレスしないでください」
「まあ、結果オーライってやつだよ。の声でしゃべったときはさすがに驚いたけど」
「えっなにそれ怖い」
休憩がてら状況の整理をしようということになり、三人は廃旅館から外に出る。敷地外に出てしまえばその影響は受けないだろうと判断し、玄関から少し離れた芝生へと腰を下ろした。現世ではすでに深夜0時を回っていた。夜明けまであと数時間ある。日が昇ってしまえば、人間たちが異変に気付く確率も高くなってしまうため、3人はタイムリミットを午前4時までとした。
「お腹すきましたね」
「ああ、このままだと任務に支障をきたすかもしれん」
「そこまで……!?」
「腹が減っては戦もできないからな」
「相変わらず成長期の人間みたいな食欲だねえ」
「木舌さんだって、館にいるときは大抵お酒飲んでるんだから人のこと言えませんよ?」
「ははは、そうだね、早く終わらせて美味しい酒が飲みたいなあ」
「木舌が酒不足で動けなくなる前に終わらせよう」
「おれはそこまでアル中じゃないよ~」
獄卒ならもしアル中になったとしても怪我と同じように治ってしまうのだろうか?などとくだらない疑問が頭を過ったが、は黙っておくことにした。木舌なら「試してみようか」とかノリノリで実験に協力するのは火を見るよりも明らかだし、酒を飲む口実を与えたとして自分自身も佐疫から説教を受けそうだったからだ。
「それじゃあ二人とも、気づいたことを言ってみてくれるかい?」
「俺がさっき連れて行った人間だが、どうやらの姿を見ていたらしい。……というよりも、気配を感じていたようだ」
「やっぱり、あの人間も宿に取り込まれていて内側からおれたちを見ていた、もしくは感知していたってことかな」
「あ、それなら私もありましたよ。取り込まれているときに、誰かが入ってきたなとか、木舌さんが暴れてる気がするとか」
「意識はあったのかい?」
「いや……それが、途切れ途切れにしか覚えてなくて……でも、あれは取り込んだ獲物に幸せな映像を見せて閉じ込めておくのが手口のようです」
「お前も見せられたのか」
「はい。おそらく人間なら我慢できずに縋ってしまうと思います」
自分も危なかった、とはもさすがに言わなかった。しかし油断すれば頭の片隅にさきほどの光景が浮かんできてしまう。幸せだった自分。もしも……もしも手を伸ばしていたら……いや、違う。自分は今や獄卒だ。そんなことしてはいけない。あってはならない。
「そういばあの人間……が取り込まれたから代わりに押し出されて戻ってきたのかと思ったんだけど、は代わりがいないのに戻ってきたよね?」
「それはきっと、木舌さんたちが手に負えないと思って早く帰ってほしかったんじゃないですか?」
「……なるほど。筋は通っているな」
「これ以上荒らされるのはごめんだって言いたかったのかもしれないね」
だからといってはい、さようならと帰るわけにもいかない。生憎こちらも仕事で来ているのだ。
「内側にあと何人くらい残っているんだろう?」
「そういえば、布団が増えているといっていたな。あの数が取り込まれている人間の数ということはないだろうか」
「布団って?」
「ああ、が消えてしまったあとに、客室を見て回ったんだ。そのときに、どの部屋にもきちんと布団が置いてあったんだけど……それが増えていたって話だよ」
「わあ~怪談ぽいですね!」
「どうしてちょっと嬉しそうなんだい?」
「いやなんか古典的すぎて逆に新しい的な感動を覚えました」
相変わらず独特な感性を持つが謎の感動を覚えているが、生憎斬島も木舌もそれを理解することができず適当な反応しかすることができなかった。その後、さきほどの黒い影と同様、廃旅館にある布団を片っ端から切っていくという案や、内部を完全に破壊してしまう案が出たものの、ほとんどが過激な解決策ばかりでどうにもは気が乗らない。自分がそうではなかったからといって、他の人間たちも同様とは限らないのだ。……もしかしたら、すでにあの廃旅館の布団ないし、家具や置物などと同化してしまっている可能性がある。だとしたら……それを破壊してしまうのは人間を見捨てることにならないだろうか。怪異に取り込まれてしまった影響なのか、には2人分の記憶が混濁していた。一人は現世の女子高生だった自分。もう一人は獄卒の自分。女子高生の自分は斬島も木舌も知らない。しかし『』は彼らを知っている。どちらが本物なのか……考えれば考えるほどわからなくなる。目の前でああでもないこうでもないと議論する男たちの声をどこか遠くで聞きながらは人間を救う方法に考えを巡らせた。
「……あの宿は、客を迎えたいのだと思います」
「え?」
「いきなりなんだ」
「そうですよ!あそこは民宿なんですから、お客さんを迎えたいと思うのは当然です!」
思わず立ち上がって力説するが、次の瞬間斬島と木舌が頭にはてなマークを浮かべて自分を見上げていることに気付いて我に返る。
「す、すみません、なんか急に閃いてしまって」
「……いや、たしかにの言う通りかもしれない」
「あれには廃民宿だという自覚がないということか?」
「うーん、どうかな。自覚しているけど、認めたくないのかも」
「だとしたら、どうする」
問題はそこだ。理由がわかったところで解決策が思い浮かばなければ意味がない。全員、一斉に廃民宿へ視線を向けた。暗闇に浮かび上がる崩れた入り口。その輪郭が、夜霧の中でわずかに歪む。風もないのに屋根がきしり、わずかに覗く障子の向こうでなにかが動いた気配がした。
「……客を迎えたい、か」
「だが、それは『まだ生きている』という意味じゃないだろう」
「わかってます」
が即座に答える。
「生きてはいない。ただ……終わっていないだけです」
「役割を果たせずに朽ちてしまった場所、ってことだね」
その瞬間、廃民宿の奥からぴしりと何かが割れる音がした。まるでこちらの会話を聞いているかのように。終わらせまいとするように。どうすればいいのか、はわかってしまった。あのなにもない空間で正座をしていたときのように、誰に言われなくてもわかっていたのだ。取り込まれていたときの感覚が、まだ指先に残っている。
「……あの宿はたぶん、人を苦しめたいわけじゃないんです。閉じ込めて、壊して、喰らっているのは結果でしかなくて……本当は泊まってほしい。居てほしい。誰かに『選ばれたい』だけなんだと思います」
幸せな幻想を見せたのも、きっと客として楽しいひと時を過ごしてほしいから。怪異は残酷なほど欲望に忠実だ。あれは蜘蛛の巣のようであり、同時に純粋なもてなしでもあった。
「なるほどねえ……それなら、力ずくで壊すのは最悪手かもしれない」
「なら、どうするんだ。なにか考えでもあるのか?」
「あります」
が二人に向けてはっきりと頷いた。
「ちゃんと客を迎えさせてあげるんです」
斬島と木舌の視線が痛い。二人ともこいつ正気か?という顔でを見ていた。
「一晩だけでいいんです。誰も死なない、誰も取り込まれない、本当の宿としての役割を果たさせる。その上で……終わらせます」
「人間を使うのか」
「いえ、人間は使いません。……私が泊まります」
「泊まるって……ええと、本当に泊まるってことかい?」
「私は一度、あそこに迎え入れられた。名前を呼ばれて、部屋を与えられて、幸せな夢を見せられた。……だから、もう一度行けば向こうもわかるはずです」
「何をだ?」
「終わりの時間だってことを」
が噛みしめるようにつぶやくと、廃民宿の入り口がすうっと開いた。木舌によって見る影もなく破壊されていたにも関わらず、扉が滑らかにスライドしていく。呼ばれていると、は直感した。立ち上がって、一歩一歩ゆっくりと向かっていく。
「……」
木舌に呼ばれては振り返る。彼の顔からいつもの微笑が消えているのを見て、も真剣にこくりと頷いた。大丈夫です、ここで待っていてくださいと声に出さずに二人へ目で訴えた。玄関の奥は常闇だ。が入っていくと、たちまち全身が闇で包まれる。だがその瞬間空気が変わった。廊下は以前よりも明るく、灯りが点いている。客室の襖はすべて閉じられ、良く手入れされた庭が広がっていた。これが、以前の姿だったのだろうか。はそう思いながら一つ一つの風景を目に焼き付けるようにしながら進んだ。どこからともなく軋む音がして、空間がざわりと揺れた。現れたのは、あの黒い影だった。だが、幻想の中で見たよりも輪郭が曖昧だ。
「私を迎えてくれて、ありがとう」
がそう言うと、影は微かに揺れた。
「……もう、客は来ない。ここは廃れてしまった場所です。……でもね」
は、客室の襖を開けた。そこには整えられた布団が用意されていて、その傍に焦げ茶色のテーブルと臙脂の座布団が置いてある。は躊躇いなくその座布団に腰を下ろした。襖の反対側には大きな窓があり、海が見えていた。波は穏やかだ。
「それでも、あなたは一度も宿であることをやめなかった」
影の表面がひび割れるように揺らいだのを見た。一言も発しないのにどこか戸惑っているような、思案しているような……を見定めているかに思える。
「だから今日は、ちゃんと泊まります。怖がらないし、逃げないし……夢にも縋らない」
がはっきりとそう言った。
「私が、この宿の最後の客です」
沈黙。潮騒だけが小さく聞こえた。やがて影が小さく、小さく縮んでいく。と、壁に掛かっているガラスの割れた時計がかちりと動いた。止まっていた時間が、進み始める。客室の気配が消えていく。そして最後に、誰かの声が聞こえた気がした。
次の瞬間、の足元から畳が崩れ、視界が白に染まった。
***
次にが目を覚ました時、そこは元通りの廃墟だった。朝になってしまったらしく、室内は相変わらず薄暗いものの窓の外はすでに白んでいた。むくりと起き上がる。室内はガラクタで雑然としてほこりっぽいのに、布団だけは嫌に清潔だった。あれは……夢だったのか、はたまた幻覚だったのかとはしばらく布団の上でぼんやりと考えた。どちらだったにせよ、あの纏わりつくような気配はすっかり消えていて、なにも感じない。どうやら満足してくれたらしい。ほっと息を吐いて、はようやく布団から抜け出した。廊下に出るとやはり最初に入ってきた時のように白い埃に覆われていて、そこには大小様々な靴跡が残っている。ギシギシと床を鳴らしながら庭に目を遣ると桜が咲いていた。季節外れの桜だ。はそれをきれいだ、と思う。この宿がまだ現実に客をとっていた時はきっと喜ばれたことだろう。これは「人間」の感情。獄卒には不要な感情だった。きれいだと感じること自体はなにもおかしことではない。しかしは怖かった。このまま人間に侵食されていけば「獄卒」ではなくなってしまう。特務室という居場所を失ってしまうかもしれない。怖くてたまらなくて、それでもは桜が不規則に風で踊る光景から目が離せなかった。
「おかえり、」
「無事のようだな」
「はい、おかげさまで……」
斬島と木舌は玄関のすぐ目の前でを待っていた。なんだか妙に照れくさくて、はふにゃりと笑う。宿と一体化していた亡者は夜明け前には二人の前に現れて、大人しく地獄へ連れていかれたらしい。取り込まれていた人間も戻ってきたが、元の生活に戻ることに支障がでないよう、少しばかり記憶を操作することになる、と木舌が説明した。また自分が知らないうちに色々と終わってしまっている……は釈然としない気持ちでそれを聞いた。なにもしていないわけではないのだけれど、どこか置いてけぼりなような。最近の任務ではこんなことばかりだ。とにかく終わったのだからここに用はない。3人はすぐさま獄都へ帰還した。
「思ったより手間取ってしまったな」
「ああ、もう朝食の時間だねえ」
「酒はやめておけよ、木舌」
「うーん、そうだねえ。おれも久々に動き回って疲れてしまったから、少し休むよ」
斬島と木舌ののんきな会話を聞きながら、は彼らの後ろをとぼとぼとついていく。頭に浮かぶのは人間の記憶。死んだときの衝撃、死ぬまでの恐怖、死に至る絶望……心臓がどくどくと煩くなるのを感じてぎゅっと目を瞑った。考えてはいけない、自分は獄卒だ。人間じゃない。
「……?」
その声に顔を上げると、前を歩いていた二人が振り返って心配そうにを見降ろしていた。
「どこか怪我でもしたのかい?」
「いえ……あ、ちょっとおなかすきすぎちゃったみたいで……」
「そうだな、早く館へ帰ってキリカさんの飯を頂こう」
キリカ、という名前を聞いては少し考える。キリカとはどんな人だったか。目の前の彼らは……私は、……?疑問に思うこと自体がばかげているような気がした。それはアイデンティティが溶けてなくなってしまうような、漠然とした恐怖だった。
たとえばどんな夢をみても: :ハイネケンの顛末
自殺した人間って、死んでから何度も何度も繰り返すっていうのありますよね?
それです(雑)。