「面白い獄卒がいるんだけれど」
閻魔庁の廊下を進みながら、災藤が笑った。肋角と災藤がこうして閻魔庁を並んで歩くことはほとんどない。大抵は一人きりか、特務室の他の獄卒と一緒に訪れることが多かった。今日はそれぞれ別の用事で来ていたところ、帰り際に偶然出くわしたのだ。災藤は記録課の作業所手前で突然肋角に話題を振った。
「……面白い獄卒?」
「ええ、とても貴重な存在でね」
「随分もったいぶるな」
「ふふ、それはもう、とっておきですから」
記録課の作業部屋で災藤が足を止めたので、肋角もそれにならって立ち止まる。室内では記録課の獄卒たちがいつもと変わらず机に向かって黙々と筆を走らせていた。
「ここにその面白い獄卒とやらがいるのか?」
「そう。どれだと思う?」
さっさと教えてほしい肋角だったが、クイズを出すようなノリで人差し指を立てる災藤は簡単に教えてくれそうもない。一体なにが面白いのかすらわからない状態で全くやる気は起きなかったが、もう用事は済ませて帰るだけだと仕方なく付き合うことにした。改めて室内を見渡しても、これといって変わっている様子はない。
「ヒント1、女の獄卒である」
相変わらずにこにこしながら災藤が言った。それだけでは対象を絞るには情報が少なすぎるだろうと苦言を呈したい気持ちを押し込めて女の獄卒を一人一人観察してみる。肋角はその中でふと、一人の女に目を止めた。ここでは特務室のような洋装ではなく、大半が着物姿だ。もちろん洋装の獄卒も存在するが、古くから務めているベテランの獄卒や鬼というイメージを大切にするような者は着物を選ぶらしい。若い女獄卒の場合は着物と洋装半々のようだが、着物の場合は今流行りの装飾なんかを着けて古臭くならないようにしているとか。肋角にはなにやらさっぱりわからない世界だが。彼が目にとめた女獄卒は地味な着物ではなく、華やかな振袖を着ていた。職場には似つかわしくない服装だ。
「……あの振袖の獄卒か?」
「正解。さすが肋角」
「……で、一体なにが面白いんだ?」
「それはね」
「あれ、肋角さんに災藤さん。どうされましたか?」
記録課主任の登場によって答え合わせは中断された。今日は来る予定などなかったはず……と慌てた様子の主任に災藤が事情を説明する。肋角にも紹介したくて、と振袖の獄卒を示すと主任はすぐに得心した。
「もしよろしければ連れてきましょうか」
「それは有難い。ぜひお願いできますか」
仕事の邪魔になるのではないかと肋角は微妙な顔をしていたが案外そうでもないのかそれとも災藤が普段からこんなことをしているのか、記録課主任は軽い調子で安請け合いしてしまった。しばらくして連れてこられた振袖の女獄卒は子供といって差し支えないほど、まだ幼さを残した少女だった。
「、と言います」
「……こんにちは」
ぺこりと頭を下げる姿は、肋角や災藤から見るとあまりにも小さい。伏し目がちにしているせいもあるのか、どこか儚い印象を受けた。晴れ着には似合わない、生気のない曇った顔だ。いや、ここは地獄なのだから生気のないのは当然といえば当然だが。作業が止まってしまっては困るだろうと、肋角は挨拶を済ませるとすぐに机へ戻るよう彼女を促した。はもう一度頭を下げると俯いたまま自身の机へと戻っていく。
「調子はどうです?」
「相変わらずですね。まあ、まだ罰を終えて間もないですから、気持ちの整理もこれからつくだろうとは思いますが」
閻魔様のところへ行ってまいりますので、と言って主任はそそくさと消えていった。肋角と災藤もそれに合わせて閻魔庁から出ていく。せっかく来たのだから、と災藤は獄都名物の有名和菓子を買って帰ろうと言い始めた。災藤の寄り道は長い。普段なら一人で先に帰ってしまうところなのだが、くやしいことに肋角はあの少女に少しだけ興味が湧いてしまった。
「……彼女は亡者だったのか」
「元人間なんです。面白いでしょう?」
人間が自ら獄卒になることを希望するケースはほとんどない。現世で歴史に残るような功績を残した者を閻魔庁側がスカウトしたり、警察官などの職についていた正義感の強い者が志望することはあるが、適性の部分ではじかれることも多かった。しかし彼女の場合、あの暗い表情からでは自ら希望したとは考えにくいように思える。誰かに強制されたのか、なにか弱みでも握られているのではないか……。
「どうやら、憧れている獄卒がいるらしいですよ」
肋角の心を読んだかのように災藤が理由を説明した。
「憧れ?獄卒にか」
「ええ、死後に自分を迎えに来た、ある獄卒に大層感謝しているみたいで。彼のように人間に寄り添うことができる獄卒になりたいと」
「なるほど、人間臭い理由だが……たしかに面白い」
「でしょう?それで、気になって時々様子を見に来てしまうんです」
「……しかし、迎えに来た獄卒に憧れているのに配属が記録課では、その夢も叶いそうにないな。可哀想に」
「だからこうやって貴方に紹介したんですよ、管理長」
特務室の子たちに、とできたてのどら焼きが入った紙袋を抱え、災藤は悪戯を企むような笑顔を見せた。
***
廃旅館の任務から帰還したが肋角の執務室を訪ねてきたのは任務の報告から数時間後のことだった。なにやら神妙な面持ちでしずしずと入ってくる様子はいつもの彼女らしくない。なにか任務で失敗でもしたのだろうか?「どうした?」と声をかけると、机の前に立ったは俯いたままちらっと肋角を見上げた。
「肋角さん……」
「なんだ?」
「…………記憶、戻ったんです」
「……そうか」
「もう一回、消してもらえませんか……?」
「まだ、無理か」
「……はい」
「わかった。すぐに抹本に手配させよう」
「……ごめんなさい」
「気にしなくていい。ゆっくりで構わない」
泣きそうな顔でこくりと頷いてはまた執務室を後にした。ぱたん、と静かに扉が閉まる。人間だった頃の記憶は、いまだに彼女を苦しめているのか。だがそれも仕方のないことだと肋角もよくわかっていた。特務室へ異動するときにの経歴は一通り調査してある。生前のことや死亡した経緯。彼女を迎えに行った獄卒が誰なのかもわかっている。……どうやらお互い覚えていないようだが。が獄卒になってからまだ3年とちょっと。そんな短い期間で癒えるほどの浅い傷ではない。――生前の記憶は、特務室ではきっと邪魔になるでしょう。災藤はそう言っていた。肋角も同意見だった。自身もそれを理解していた。……だから消した。抹本の薬によって。残念ながら生前の記憶だけを消すということはできなかったため、は特務室へ来る以前の記憶を全て失くしている。その後、肋角が与えた記憶は「」という元からあった名前と「閻魔庁から異動した獄卒」という事実だけ。同情はするが、それはが自ら選んだ道だった。だから肋角は見守る。助けはしなくとも、手は差し伸べる。そうしていつか人間の記憶を持った獄卒になることができたなら――
の頭の中に自分のものではない音たちがこだまする。父の叫び、ガラスの割れる耳障りな音、昼夜を問わず鳴り続けるインターホン、知らない男たちが呼ぶ声。忘れていたはずの恐怖がの思考を奪っていった。
「うるさい……うるさい……!」
耐えかねて廊下で蹲り耳を塞いでもそれは止まない。自分は一体なんのために死んだのだろう。苦しみから逃れるために、母と姉のもとへ行くためだったのではないのか。……それなのに、苦痛は終わらないというのだろうか。
「……?」
ぎくりとしての肩が跳ねる。気づくといつの間にか木舌が自分の目の前にしゃがんでいた。一瞬、記憶が揺らいで名前を思い出せず、は木舌を見つめる。この人は……肋角と同じように大事な人のはずなのに、なにも出てこない。それがまた悲しくて鼻がツンとする感覚に襲われたが、直後、ぼんやりとした影が重なって濃くなるように徐々に名前が頭に浮かんでくる。
「どうしたんだい?どこか具合でも悪いのかい?」
「い、え……ちょっとおなかがすいちゃったみたいで……あはは」
「、おれたちってそんなに頼りにならないかな」
「え……」
「辛いなら辛いって、言ってほしいなあ」
言葉を失っているを、木舌の大きな腕が包み込んだ。よしよし、とあやすように優しく背中をさする。
「ち、がうんです……大丈夫です、私……」
「うん、わかったよ。もういいから。とりあえず部屋まで戻ろうか?」
涙腺が決壊したがぼろぼろと涙を零し、木舌のシャツを濡らしていった。このままだと人目に付くと思い、木舌は無理やりを立たせて支えながら彼女の部屋へ連れ戻す。一度流れ出した涙は壊れた蛇口みたいに止まらず、は木舌にしがみつき震えたまま泣き止め泣き止め、と唱えた。
「私、獄卒なのにっ……」
「別に獄卒でも泣いたっていいさ。ほら、平腹もよく田噛にお仕置きされて泣いてるだろ?」
「音が……止まらないんです、怖い」
「音?」
「ずっと頭の中で……止まらなくて……」
「……。音なんかじゃなくて、おれの声を聞いて。東京タワーに行きたいって言ってただろ?さっき佐疫にも話しだんだ。そしたら、みんなで行こうかって言ってたよ」
木舌はとりとめもないやり取りを独り言のようにだらだらと話し続ける。今日の昼食で斬島が白米を3杯おかわりしたこと、今日は佐疫から酒を禁止されなかったこと……いつもの特務室の日常だった。にとってもそれは同じはずなのに、今はどこか違う場所の出来事に聞こえる。頭の中の騒音と木舌の穏やかな声がぐにゃぐにゃとマーブル模様を描くように混ざり合う。はぎゅっと目を閉じて、彼の言うように声を聞こうと努力した。そうしているとやがて音よりも声の方が輪郭を持ち始め、体の震えも収まってくる。木舌の少し冷たい手の感覚が伝わって、恐怖が薄れていくのがわかった。
「落ち着てきたかい?」
「……はい」
「よかった」
「木舌さん……ありがとうございます」
「どういたしまして。さあ、少し横になった方が良いよ」
ね?と優しく促されてはこくりと頷いた。ふと木舌の胸元を見るとかなり濡れている。間違いなくの涙によるものだった。やば……と思っただが自分の部屋に替えの服などあるはずもなく、謝らないとと思った次の瞬間ひょいっと体が持ち上げられてあっという間にベッドへ運ばれていった。
「……自分で歩けたのに」
「まあ、今日くらい甘えてくれてもいいだろ?」
ベッドに座らされたの頭をわしゃわしゃと木舌が撫でまわした。普段は押さえるように優しくなでられる記憶しかなかったので珍しいなと不思議に思う。
「私ね、木舌さんのこと大好きですよ」
そう言うと木舌が驚いたように目を見開いてからすぐにこりと笑った。
「おれものことが好きだよ。斬島も、佐疫たちも……きっとみんな同じだよ」
が寂しそうに笑ってから布団に潜り込んだ。きっと彼の好きと自分の好きは違うのだろうと思うと少し胸がちくりと痛くなる気がしたが、少なくとも家族のように大切に思ってくれていることはたしかだ。まあいいかとすぐに諦観してはそっと目を閉じた。「おやすみ、」と木舌の優しい声が聞こえると、は眠りに落ちてしまった。
が眠るのを見届けてからも木舌はしばらくの間その穏やかな寝顔を眺めていた。目元がすっかり赤くなってしまっている。腫れなければいいのだけどと少し心配していると、扉が小さくノックされた。
「……入るよ?」
静かに扉が開き、抹本が恐る恐る入ってくる。そこで木舌と目が合って、びくりと肩が揺れた。まさかの部屋に木舌がいるとは思わなかったのだろう。え?なんで?と困惑している。
「やあ、抹本。ならたった今寝たところだよ」
「あ、そ、そうなんだ……。それで、どうして木舌がいるの?」
「うーん、話すと長くなるんだけど……抹本はどうしたんだい?」
「お、俺は肋角さんに頼まれて……その、く、薬を」
「……抹本も、全部知っているのかい?」
「いや、俺も詳しく知っているわけじゃなくて……ただ、が特務室で働くためには余計な記憶があるってことくらいしか」
「じゃあ、それはの記憶を消すための薬?」
「うん………………あの、木舌……本当はなにも知らないんでしょ?」
「おや、ばれてしまったかな」
「木舌って時々ズルいよね」
「ごめんごめん。けど抹本、これが佐疫や谷裂だったらもっと追及されていたと思うよ」
涙目の抹本がじとっと木舌を睨む。たしかに木舌の言う通り、相手が佐疫や谷裂だったら知っていることは洗いざらい全部話せと責め立てられていたかもしれない。そう考えるとこの程度で済んだのは幸運だったと言えなくもなかった。はあ、と諦めのため息を吐いたあとで抹本は懐から薬の瓶を取り出す。それは透明で、木舌には水のようにしか見えない。
「……その薬で、おれたちのことまで忘れてしまうのかい?」
「ううん、俺たちのことは覚えているはずだよ。これはの一番痛い記憶を取り除くものだから……」
そう言いながら抹本は枕元にそっと薬瓶を置いた。飲み薬だという説明を半ば聞き流しながら、木舌はの一番痛い記憶とはなんだろうかと考える。彼女のいう「音」に関係しているのだろうか。――それを忘れてしまったら、また笑顔が戻ってくるのだろうか。
2026/02/01
心の在り処なんて分からないけれど、たった今、痛んだことだけは分かるよ。: :ハイネケンの顛末
災藤さんはたぶん普通に面白がってただけで夢主さんが喜ぶとかそんなのは考えてなかったと思う。