だいせんじがけだらなよさ

22

 無間地獄とは、仏教における八大地獄の最下層だ。阿鼻地獄とも呼ばれ、他の7つの地獄よりも大きいとされている。この地獄に到達するには、真っ逆さまに落ち続けて二千年かかるといわれているが、果たして到達した者は一体どれくらいいるのだろうか。この地獄に落ちた者は、気が遠くなるほどの長い期間、およそ人間の想像を絶する最大の苦しみを休みなく受け続けることを強制されるのだ。獄卒ですら理解の及ばないそれは、正に地獄の中の地獄と言えるだろう。
 はもちろんこの地獄を経験したことがないので想像にすぎないが、今の状況はそれに似ていると思った。の吸い込まれた闇には底がなかった。真っ逆さまにどんどん下へ落ちていく。時々、ぼんやりとした光の中で「家族」が談笑しているのが見えた。自分を呼んでいた。

『こちらにいらっしゃい。アップルパイを焼いたから。焼きたては美味しいわよ』

 「母」がきれいな焦げ茶色になった丸いアップルパイを見せる。

『別にいらないならいいよ、私が全部食べちゃうから』

 「姉」は意地悪そうに笑った。

『こらこら、喧嘩はするなよ』

 優しい「父」が「姉」を窘める。
 すべてが完璧だった。まるでのために作られたような優しい家族。失くして、壊れて、自ら手放したもの。あの日の続きを見せようとしているのだ、とは直感する。理由なんて簡単に想像がつく。ここに留めるためだ。きっと彼女が手を伸ばせば届いてしまうだろう。そして、とこしえに幸せだろう。それでもは選ばなかった。なんだか憐れになり、は一瞬目を伏せた。

「惨めだね」

 自分でも驚くほど冷めた声が出る。だが心の底からそう思っていた。が零すと「家族」が笑うのをやめた。さきほどまで不気味なほどきれいな半月を描いていた口元は閉じられ、全員の顔が真っ黒に塗りつぶされる。あんなに笑い声の絶えなかった「家族」は嘘みたいにしんと静まり返った。

「もう二度と元に戻らないことくらい、バカな私でもわかってるよ」

 自身を撫でていた空気のような感触。あれは木舌だ。見えてはいないが、そうだとわかった。ピリリと走る電流は木舌が「宿」を破壊している証。器が崩壊しようとしていたから自我を取り戻せたのだろうとは冷静に考えた。不思議だった。最初は怖くて悲しくてたまらなかったのに、今は頭が冴えていて幻を幻だと断じることができた。

「結局、認めたくなかっただけなんだよ。現実を受け入れられなかっただけ。あのなんてことない世界が死ぬまでずっと続くと思ってたから。まさか自分が選ばれるだなんて、思ってもみなかったから。あなたもそうなんでしょう?」

 瞬間、「家族」が煙のように、炎のように揺らめいてひとつの影となった。

「私はもうそちら側には戻らない。私は……生まれ変わったから」




***




「まだ終わらないのか、木舌」
「あ、おかえり、斬島」

 黒い影と対峙する木舌を見て、戻ってきた斬島が息を吐く。廃民宿は静寂に包まれていたので、てっきり片付いているかと思っていたが、それは彼らが膠着状態にあるためだった。黒い影は頭上から煙のようなものを吐き出し続けたまま動かない。木舌はいつでも応戦できるよう大斧を肩に担いでその影を見据えていた。

「人間はどうなったんだい?」
「安全な場所へ移した。今は眠っている」
「それは良かった」
「ところで、あれはなんだ」
「さあ?でもたぶん、この『宿』なんじゃないかなって、おれは思うんだ」
「……は、まだ戻らないか」
「そうなんだよ。だから話を聞こうと思ったんだけど……どうやら喋れないらしい」
「あれがという可能性は?」

 斬島に言われ、木舌はきょとんとして影を観察する。たしかに、の名前に反応していた。それは宿が彼女を取り込んだせいだとばかり思っていたが……。なるほど、そういう考え方もあるなと木舌は妙に納得して頷いた。

「取り込まれたが宿と同化していると仮定したら、十分あり得る話だね」
「ああ、だが確証もないな」
「……もしあれがなら、攻撃するのはまずいと思うかい?」
「いや、案外その衝撃でと分離するかもしれないぞ」
「そんなギャグ漫画みたいなこと起こるかな?」

 試してみるか、と斬島がカナキリを抜いた。これで彼が案外過激派なことは木舌も知っている。やれやれと苦笑しながら結局は木舌も大斧を担ぎ直して賛同の意を示した。誰よりも早く動いた斬島は迷うことなく影の首と胴体を切断しにかかる。ヒュッと空気を切り裂く音がして影が真っ二つになった。――かに思えたが、影はすばやく移動して天井へと張り付いていた。

「意外にすばしっこいやつだな」
「まあ、影だからねえ」
「感心してないでお前も手伝え」
「わかっているよ」

 果たしてあれに知性や理性というものは備わっているのだろうか。だとしたら少々厄介だが、怨霊となってしまったと考えた場合もはや理性は残っていないと思われる。の名前には反応を見せた。だがそれだけだ。まるでおもちゃを取られてぐずる子供のようにさえ感じた。一体なにに対して腹を立てているのだろうか、と木舌は影を視界に捉えたまま思案する。自分の箱庭を荒らされたから?せっかく手に入れた獲物を奪われそうになっているから?おれたちが理の外にいるから?

「木舌、俺があれを落とす」
「了解」

 木舌の返事とほぼ同時に斬島が畳を蹴った。そのまま壁を2、3歩走って天井に留まっている黒い影を薙ぎ払う。少し引っかけた感触はあったが、やはり避けられてしまった。それを予測していた木舌が右手を伸ばして影を捕まえようとする。影に実体はあるのか、それを確かめるためだ。

「捕まえた」

 ゆらゆらとふわふわと輪郭の揺れているその影は木舌によって首を掴まれていた。まさか本当に素手で捕まえることができるとは思っていなかった木舌は少し拍子抜けだったが、とにかく影は今、彼の手の中にある。

「そのまま捕まえていろ、木舌」
「どうするつもりだい?」
「斬る」
「ははは、おっかないなあ」
「お前に言われたくはないが」
「もしこれが本当にだったら怖がって泣いてしまうかもしれないよ」
「まだ確定はしていない」
「うん、そうだね。じゃあ……確かめてみようか」

 普段の柔和な表情を保ったまま、木舌は影を斬島に向ける。斬島は再びカナキリを両手で構えた。

『やめて』

 おそらく影から発せられたその声は不気味にハウリングしていて不明瞭だったが、紛れもなくの声だった。斬島もその声に反応して、ぴたりと動きを止める。この黒い影はと同化している、若しくはそのもの――さきほどまではただの仮説に過ぎなかったことが現実味を帯びる。

「斬島」
『お願い、やめて……』

 木舌も思わず困惑して影を見下ろした。まさか本当に?と答えを求めるように斬島へと視線を移す。斬島は切っ先を影に向けたまましばらく固まっていたが、突如なんの予告もなく影を切り裂いた。影のようなそれは不思議と質量を持って、ちょうど半分くらいで真っ二つになりその下半分が音もなく床に落ちた。

は俺たちにそんな喋り方はしない。お前はの声を借りているだけだろう。お前はなんだ?この宿なのか?あいつはどこにいる?」

 いまだに木舌の手の内にある影、床に落ちた方の影の両方が粘度を持った液体のようにどろりと垂れて、そのまま畳へと吸い込まれて消えていった。

「……ごめん、逃がしちゃったよ」
「いや……」

 と、どこかでガラスの割れる音が響いた。二度あることは三度ある。二人は一瞬顔を見合わせてからその音を探しに部屋を飛び出した。


どうか、うまれたことへの祝福を: :ハイネケンの顛末