斬島が人間を廃民宿から少し離れた掘っ立て小屋まで運んできたとき、その方角から微かに遠雷のような音が聞こえた。普段は戦うことの少ない木舌が大斧を振り回せばどうなるのか、特務室の獄卒たちは知っていた。のほほんとした雰囲気からは想像もできないが、肋角や災藤を除けば随一の体格である。更地にしたら……などと本人は笑っていたが、本気を出せば強ち冗談にならないことも斬島は知っていた。もちろん斬島にもあの廃民宿を滅茶苦茶にしてしまう自信はある。しかしそうしなかったのは木舌がいくつかの現象を認識したからだ。気配などという不確かなものではなく、認識できる怪異。彼にしか現れなかったのはなにか意味があるのではないか。そう考えてのことだった。たとえば、選ばれる側になにかしらの法則があるとしたら。それを満たしていたのがと木舌だったのだとしたら。どうしてだけが連れていかれたのだろう。
掘っ立て小屋の内部はあの廃民宿に引けを取らないほど荒れ果てていた。だが野ざらしよりはいくらかマシだろうと斬島は人間を床に下ろす。その衝撃のせいか、男が小さく呻いた。木舌の言った通り、普通の人間に獄卒の姿は視認できない。しかし怪異に取り込まれたせいで性質が変わってしまうこともままあることだ。面倒ごとにならないうちに退散しようと思っていた斬島だが、その前に一足早く人間が目を覚ました。
「……誰、ですか」
あえなく声を掛けられてしまい、斬島はどうしたものかと逡巡する。誰というからには、自分のことがはっきりと人型に見えているらしい。
「……ただの通りすがりだ。この先の廃民宿で倒れていたのは覚えているか?」
斬島は下手に誤魔化すのを諦めて、偶然を装うことにした。
「廃民宿……そんなはず、いや……」
「大丈夫か?家は近いのか?」
「俺、肝試しに来たんです……けど、あの民宿の中に入ったら名前を呼ばれて」
「……取り込まれたのか」
「え?」
「いや、なんでもない。混乱しているようだから、少し休んだ方がいい」
「……あの、変なことを聞きますけど……お兄さんたち、女の子と一緒にいませんでしたか?」
「……なぜそう思う?」
「どうしてだろう……なんとなく、そんな気がしたんです」
男は力なく答えて俯いてしまった。斬島が彼の肩にそっと手を置き「もう心配ない」と落ち着いた声音で語り掛ける。取り込まれた人間が戻ってきた……帰ってきた?だとしたらどうして?が、取り込まれたからか?迎える側に立つ者には定員があり、が取り込まれたことによって人間は迎える側から帰る側となった、ということだろうか。この人間は「どこから」「女の子」を「見た」?
***
木舌が大斧を振るう度、ガラクタが崩れ落ちる。建物が割れ落ちる。ここはあくまでも現世だ。あまりにも大きな音を立ててしまえば、夜中とはいえ人が集まってくる可能性もある。肋角の話では、地元の住民は気味悪がってほとんど近寄らないらしいが、もしも建物が崩壊しそうなら、誰かしら嫌でも様子を伺いに来てしまうだろう。木舌は万が一を考えて壊すのは内部だけにしようと決めていた。それに、斬島の話を聞く限りでは、おそらくそれだけでも怪異を引きずり出すことができるだろう。ぼんやりとだが木舌も段々この民宿について理解してきた。この廃民宿は生きている。今も呼吸をしている。客を迎えようとしている。そして実際に迎えているのだ。迎えているのは誰なのか?もとはこの「民宿」の意思だったのだろう。しかし何らかの原因でそれは変わってしまった。人間が内側に取り込まれ、その人間は「迎える側」……つまり、「宿」になった。これは推論であって確証ではない。だがもしそうならつじつまが合ってしまうのだ。が姿を消し、布団が増えた。布団は各部屋に必ずある。そして布団の数が元に戻ったと認識した直後、人間が現れた……。おそらくが取り込まれたことであの人間が戻ってこられたのだろう。なるほど、そういう仕組みなんだね。木舌が声に出さず呟く。
「そろそろ出てきてくれないかな。じゃないと、本当にこの宿がなくなってしまうよ?君も困るんじゃないのかい?」
2部屋目を壊しにかかったところで木舌が虚空に向かって話しかけた。傍から見れば独り言を言いながら建物を破壊している危険人物にしか見えないのだが、開かずの間ほどではないものの、微かな気配を感じる。どこかにいる、と確信して木舌はわざと大きめの声ではっきりと発音した。それは警告などという生易しいものではなく、最終通告だった。木舌はしばし手を止めて、様子を伺う。文字通り木っ端となった木材や砕け散ったガラス片がパラパラと落ちる小さなざわめきがどこかで続いていた。しかしそれ以外になんの反応もない。ゆっくりと周囲を見渡したあと、木舌が短く息を吐く。
「まだかくれんぼを続けるつもりなんだね。じゃあ、とことん付き合おうか」
再び大斧を振りかぶろうと持ち上げた時だった。一瞬空気が揺らいだかと思うと、ふすまの縁の向こうになにかが立っていることに気付く。朧げな輪郭でぼんやりと人型を取る黒い影。煙のようにゆらゆらと、炎のようにひらひらとしていてなんとも心許ない。だがそれでもようやく目に見える形で怪異が現れたのは喜ばしいことでもあった。
「君が、この『宿』かい?」
黒い影は答えない。
「出てきてくれたってことは、おれの勝ちでいいのかな」
やはり答えないが、どことなく苛立っているように見えた。自分の箱庭を荒らされたせいかと木舌は考える。
「ああそうだ、女の子を知らないかい?おれたちの仲間なんだけど……小さくて、あ、小さいっていうのは子供っていうことじゃなくて……おれから見ると小さいってだけで」
喋らない影に対して木舌は普段通りのほがらかな笑みを崩さず、このくらいの、との身長くらいの高さに右手を添えて彼女の特徴を上げていった。もしかして、言葉を出せないのだろうか。だとしてもこうして自分の目の前に現れたこの機会を逃すわけにはいかない。この黒い影はきっとのことを知っている。なにも答えないが、の話題を出した途端、影の頭と思われる部分から黒い煙が絶え間なく上っていた。明らかに反応している。
「もしかして、あの人間を戻したのはを取り込んだからなのかな?」
煙はもうもうと上り続ける。一言も発しない代わりに煙を出すことで木舌への答えを物語っていた。
「……なるほど、それが君の理なんだね。でも相手が悪かったみたいだ。も、おれたちも、人間じゃない。今までのようにはいかないよ」
木舌がすうっと目を細め、大斧を持ち上げる。このまま説得を試みてもいいのだけれど。あまり時間をかけてしまうとそれこそ人間に見つかるリスクが高くなる。
「まあ、君たちの理なんてどうでもいいことさ。おれは獄卒だからね。地獄のルールに従うだけだよ」
***
なにかがをなでているような感覚があった。ふと気づくとはまた正座の状態に戻っていて、足がしびれたからと体勢を崩す。なにもないがらんどうの部屋の中ではやることもなく、どうやったらここから出られるのかと、とりあえずこの廃旅館へ入ってからのことをひとつずつ思い出してみた。そうしているうちにまた「家族」の映像が浮かんできて瞼が重くなり、やがて思考が途切れる。何度繰り返したのかはわからない。或いは、は認識すらしていないかもしれない。なにかが撫でるようなむず痒さにも似た感覚がその繰り返しを終わらせた。身を捩ってみるが、自身になにかが纏わりついているわけでも虫が飛び回っているわけでもない。ただ空気みたいな柔らかい物が不規則に動き回っているような気持ち悪さがあった。時折、ピリッとした電流が走る。が、やはりなにもない。段々腹の立ってきたはついに立ち上がって部屋の隅へと避難した。部屋の角に身を潜めてじっと目を凝らしてみても、肉眼ではなにもわからない。は腕を摩って感覚を逃そうとするが、それは一向になくならなかった。――おかしい。はこの廃民宿へ足を踏み入れてから初めてそう思った。随分と静かだ。いや、静かすぎる。ここへ来て、奥へ進んだとき確かに潮騒を聞いた。廊下が軋むのを聞いた。なのに今は完全な無音に包まれている。そうだ、斬島さんと木舌さんは……ふと、兄貴分の彼らを思い出す。どうして今まで気づかなかったのかと呆れるほど、の頭からは二人の存在が消えていた。
『』
また誰かが彼女を呼んでいる。それはすぐそばで聞こえたようにも、正面からのようにも、後ろからのようにも思える。囁くようでいてはっきりと力強い声だった。建物に入ったときにも同じことがあった。だがその時と明らかに違うところがある。
「……帰らなきゃ」
口に出してぽつりと呟いた途端、の体は後ろへと吸い込まれていった。
どっちつかずな君へ: :ハイネケンの顛末
亡者の見た目どうすればいいんだ…と悩んで黒い影に逃げた結果、シャ●ーハウスになってしまった件(管理人はエミリコちゃんが好きです)