だいせんじがけだらなよさ

19

 真新しい制服に身を包み、全身鏡に自身の姿を映してみる。正面から気を付けをしてみたあと、左右と後ろ姿も念入りにチェックした。今日からはこれが新しい制服だ。皺ひとつない制服姿が見慣れなくて、何度も何度も確認していく。やがて満足すると、彼女は部屋を飛び出した。

『いってきまーす!』

 靴を履いていると奥から「いってらっしゃーい」と柔らかな女性の声が返ってきた。それは進学して2日目の朝だった。地元からの進学組ばかりで、ほとんどが見知った顔。人見知りはあまりしない質の彼女は地元の友人以外ともすでにクラスで交友関係を広げつつあった。今日は初日の授業、そしてクラブ活動の見学がある。さてどうしようか。運動部もいいけれど、演劇にも挑戦してみたい。あ、茶道部もあったな……たしか、茶道部はお菓子が食べられるはずだ。その点でいえば料理研究会も捨てがたい選択肢だったが、あいにく自分は食べる専門だし。そんなどうでもいいことで悩みながらも学校へ到着すると友人たちと挨拶を交わす。やがて授業が始まり―――――――

「やめて」

 初日の授業なんてオリエンテーションがほとんどだ。教師の自己紹介や、教科書・使うものの説明。彼女は勉強が嫌いではなかった。新しい知識を吸収するのは楽しい。自分の世界がどんどん広がっていくわくわく感。もちろん難しいことはたくさんあるけれど、理解できた瞬間の爽快感がたまらない。休憩時間には友達数人とおしゃべりに花を咲かせた。帰りに駅前のゲーセンに行かない?いいねー。みんなでプリクラ撮ろっか。全種類制覇でもする?あ、私ゲーセンの隣のチュロス食べたいんだけど。新しくできたお店でしょー?私も気になってた。行―――――――

「お願い、やめて……」

 昼休みは友達数人で机を合わせてお弁当を広げる。ずっと給食だったからなんだか不思議な感じだ。友達の弁当箱が可愛くて、目が釘付けになる。片や自分は姉のお下がり。これはこれで気に入っているけれど……帰ったらおねだりしてみよう。そう考えて、自分の弁当箱を開いた。好きなものばっかり入ってる。唐揚げに、オムライスに……あ、プチトマトはちょっと苦手。嫌いなものは先に片づける派の少女は微妙な顔でプチトマトを口に放り込んだ。そこへ担任の教師が血相を変えて教室へ入ってくる。呼ばれたのは自分。まだプチトマトしか食べていないにも関わらず、強制的に職員室へ連れ出された。落ち着いて聞いてくれ。お前―――――――

「やめろ!」

 が力いっぱい叫ぶと、金縛りにかかったように強張っていた体が弛緩していった。詰まっていた息が戻ってくる。脳内に直接流れ込んできた記憶の波も、テレビの電源を消したようにぷつりと途絶えた。のはあはあと荒い息だけが残っている。忘れたはずなのに、どうして今更。体の震えが止まらず、は自分の腕をぎゅっと掴んだ。
 呼吸を整えて周りを見ると、どこかの和室だった。相変わらず正座をしたままだったは足の痺れを感じて体勢を崩す。足先に血流が戻ってじーんと熱くなり、痒みにも似たピリピリ感が駆け巡った。ここはどこだろう。なにをしに来たんだったっけ。考えがまとまらない。とりあえず落ち着こうと、は大きく深呼吸をした。深呼吸にはあながちバカにできない効果がある。そんなもんで落ち着くわけがないと思うなかれ、何度か吸って吐くを繰り返せば、スーッと憑き物が落ちていくような感覚があった。そうだ、斬島さんと木舌さんとはぐれてしまったんだとはようやく事態を思い出す。

「斬島さんと木舌さん、大丈夫かな……」

 自分が怪異に取り込まれているのは間違いない。けれどそれはいまだに姿を見せていなかった。どうやら精神攻撃に長けているらしい「怪異」は、どこかに隠れて今の状況を嘲笑っているような気がしておもしろくない。絶対に脱出してやる、と拳を握りしめるだったが、部屋には出入口も窓も何一つなかった。がらんとした畳の部屋だ。広さは6畳ほどだろうか。明かりはないのに、ぼんやりと光っている。不思議な空間だった。誰かが廊下を歩いている気配を感じる。ふすまを開けて、部屋に入っていった。なにかを探している?どうしてわかるのだろう。音もなにも、聞こえないのに。




***




 廃民宿の入り口まで戻った斬島と木舌は、周辺を再度重点的に捜索することにした。その場に残るタイプの怪異なら、見つけることができるかもしれない。ターゲットをその場に留めておくタイプなのだとしたら、を救出する手がかりがあるかもしれない。ガラクタを押しのけながらの捜索には骨が折れたが、それでもなにも手掛かりになりそうなものは見つからなかった。

「一度館へ帰って肋角さんに報告が必要だろうか」
「いや……だって特務室の獄卒だ。こんなところでやられるほどヤワじゃないさ。とりあえず、任務を優先しながらも探そう」
「わかった。を信じよう」

 ひとまずを探すことを断念した二人は、怪異の方を先に片づけることに全力を注ぐ。最初からひっかかっていた「開かずの間」。それはどこにあるのか、そこになにがあるのか。玄関付近にはないと結論付けて、二人は客室を確認する。最初に通った時から気づいてはいた。客室と客室の間になぜだかぽっかりとなにもない壁だけの空間がある。

「一番怪しいのはここだな」
「うん、ずいぶんと自己主張が激しいよね」
「だが、どうやって入る?」
「おれが壊してみるかい?」

 木舌が大斧を肩に掛けた。余計な戦闘を好まない木舌にとっては滅多に活躍しない武器だったが、大柄な体躯に規格外の大斧を持つ姿には言い様のない迫力がある。本人が笑顔なのがまた恐怖を醸していた。斬島がこくりと頷くと、木舌がそれを肯定と取って大斧を振りかぶり躊躇なく壁にぶち当てた。メキメキと木の割れる音が響く。古い木造建築だけあって、その一撃で壁にはみごとな穴が開いた。「よいしょっと」などと緊張感のまるでない掛け声とともに再度大斧を当てると、更に穴は大きくなる。人一人が通れるほどの穴が開通し、ようやく木舌は斧を下ろした。それを見届けると今度は斬島がカナキリに手を掛けながら中の様子を伺う。

「……どうだい?なにかあった?」
「いや、……怪異も、も……それどころか、本当になにもない」
「なにもない?」

 どういうことなのかわからず、木舌も後ろから中を覗き込む。たしかになにもない。開かずの間の名の通り入り口や窓がないのはもちろん、棚や押し入れは愚か装飾品や電気の類も設置されていなかった。ただ畳が敷かれているだけの部屋。

「少し調べてみよう」
「うん、そうだね」

 斬島と木舌が見ている「なにもない部屋」とが存在している和室は、同じ空間ではなかった。正確には、重なっているだけだ。はその時壁の向こうに確かな気配を感じていた。探している。……自分を。その認識だけが、なぜかはっきりと分かる。胸の奥がひやりと冷えるのを感じた。ここは「隠れる場所」ではない。――迎える場所だ。 さっきまでの記憶が、またじわじわと輪郭を取り戻そうとしている。

制服。
 友達。
  弁当。
   姉の声。
    母の声。
     ――帰りたい、という気持ち。

「……だめだ」

 小さく呟いたの声は畳へと吸い込まれた。代わりに部屋の空気がほんの少しだけ和らぐ。その時、正座をしていた唐突に理由が分かってしまった。この部屋では客は立たない。立つのは迎える側だけだ。壁の向こう側で、誰かが立ち止まった。足音はしない。けれどそこにいるのはたしかにわかる。数えているのだ。なにを?――部屋番号を。存在を。……境界を。の喉が、ひくりと鳴った。

「……数えちゃだめ、です」

 声は思っていたよりもはっきりと出た。はっきりと出たはずなのに、それはまたしても畳へ吸い込まれるようになんの響きもなく消えていく。聞こえないのだ、と直感した。

『今、なにか聞こえた?』
『……いや、聞こえてはいないが……気配は感じる』

 壁の向こうの気配が揺れる。一瞬だけ、迷いが生じたのが分かった。振り返らせてはいけない。確認させてはいけない。それは怪異の本能であり、同時に自身の直感でもあった。このままなら、斬島と木舌は「なにもない部屋」から引き返すだろう。壁を壊してもそこにはなにもなかった。も、怪異も、境目も。それでいい。そう思った瞬間、胸の奥に別の感情が芽生えた。……本当に?帰らなくていいのか?このまま、迎える側になってしまっても。畳の縁にぽたりと影が落ちて、はゆっくりと顔を上げた。部屋は閉じたままだ。だが、その向こうにいる「なにか」はもうを見ている。

「――おかえり」

 声は誰のものではなかった。それでも、懐かしいと錯覚してしまうほど優しい響きだった。はたまらず奥歯を噛みしめる。

「……私は、帰る側です」

 自分に言い聞かせるように。祈るように。その瞬間、ふすまの向こうで誰かが一歩踏み出した。廊下が伸びる。宿が、息をする。そして――
 の影だけが畳に深く沈んだ。


それでも僕らは海を目指す: :ハイネケンの顛末