障子はこちら側からは開かない。
けれど見える。
最初から、見えるように作られている。
外は夜だった。
正確には、夜の形をしているだけ。
廊下が一本まっすぐ伸びている。さっきまで自分が歩いていたはずの廊下だ。……なのに、距離感がおかしい。遠くにあるのに、手を伸ばせば触れそうで、近いのに声は届かない。
外に人がいる。
さっきまで一緒に来ていた人。
同じ靴、同じ呼吸。
ただ、少しだけ軽い。
まだ泊まっていない重さ。
こちらを見ることはない。見えないからだ。
9室目はまだ数えられていない。
外の世界は静かすぎる。波の音がしない。風もない。音は全部、こちら側にあった。
床の下で海が動く。どん、と鈍い音。宿が息をしている。
私は座っていた。正座だ。いつからか、「そうするもの」だと知っていた。立とうと思えば立てるが、立つ理由がないのだ。
外の人が、部屋番号を見上げる。数えようとしている。
だめだ。
声を出す。口を動かさなくてもいい。名前だけでいい。――呼ぶ。
一人分。
肩がぴくりと揺れるのを見た。振り返りそうになる。――ああ、惜しい。
振り返らなければ帰れる。けれど多くの人は、確認しないと進めない。確認せずにはいられない。外の人が、ほんの少し首を動かす。廊下が伸びる。そして伸びた分だけ、こちら側が広くなる。
布団が一組、増える。……湿っている。なぜなら、さっきまで「外」だったものの温度が残っているから。
靴が玄関に揃う。左右が合わないのは、……後で直せばいい。
外の世界が遠ざかり、代わりに宿が近づく。
私は頭を下げる。迎えるために。
外は、客。
内は、宿。
――境目は、もう誰も覚えていない。
***
「はどこへ行ったんだ」
「う~ん、ついさっきまで後ろにいたよねえ」
斬島と木舌は、を見失っていた。開かずの間の話をしていた直後のことだ。なんの音もせず、はまるで煙のように消えてしまった。どのみち怪異の正体も探さなくてはならないので、手間としてはほぼ変わらない。二人はが変なところに入り込んでしまって迷子になっている可能性を考えてすべての部屋をひとつずつ確かめることにした。
「俺たちを分断するのが目的だろうか」
「どうかなあ……一応手でもつないでおくかい?」
「いや、遠慮しておく」
冗談のつもりで言ってみたものの、真に受けた斬島が頷いてしまったらどうしようかと心配していた木舌は内心安堵していた。もし二人が手を繋いでいる姿をに目撃されてしまったら……いろいろと誤解されそうだ。だがもし、斬島の予想通り分断が目的だったら?――いや、もしかしたら犯人は分断などというつもりではなく単純に攻撃することだけが目的の可能性もある。そうならばは今頃なにかしら酷い目に遭っているかもしれない。彼女のよく言う「死なないから大丈夫」の台詞を、木舌は否定するつもりはなかった。けれど死なない獄卒でも痛みは感じるし、回復にも時間がかかる。そして木舌はできればそんなを見たくないと思っていた。四肢をもがれながら、はたまた腹部を抉られながらもニコニコして平気平気と強がる様はある種で悲哀すら感じさせる。それが彼女なりの「鍛錬」だったとしても、木舌は認めたくはなかった。
「も平腹みたいに騒がしくしてくれれば見つけやすいのだが……」
「あはは、あれではひとりだと案外大人しいからね。それは期待できなさそうだ」
「今度からは鈴をつけておくのはどうだろうか」
「良い考えだね、帰ったら肋角さんに頼んでみよう」
建物内を一周したが、も怪異も現れなかった。なにか見落としているのだろうか。木舌は任務の前に用意していた民宿の図面を取り出した。この図面に描かれている部屋はすべて回った。あとは、庭と……開かずの間だ。
「なにかあるとしたら、やっぱり開かずの間かな」
「可能性は高いな。それらしい入り口は見当たらなかったが……」
「……もしかしたら、怪異に出会ったやつしか入れない、とか」
木舌はそう仮定してみるが、だとすればが遭った怪異とは一体なんなのか。
「斬島、が消えたのはどこだったか覚えているかい?」
「場所か。まだ建物に入ってすぐだったと思うが」
「とりあえず、そこに戻ってみようよ。もしが怪異に遭っていたなら、まだそこにいるかもしれない」
「わかった」
***
――あれ?私、なにをしていたんだっけ?
は畳の上で正座したままぼんやりと意識を取り戻した。ついさっきまで誰かと一緒だったような気もするし、ずっと一人きりだったような気もする。
「」
そうだ、名前を呼ばれて……それから……。は声のする方に目を向ける。
「」
そこにあったのは、幸せそうな家族の姿だった。母親が、父親が、姉が、自分に笑いかけている。おかえりなさい。早く手を洗ってらっしゃい、ごはんが冷めちゃうでしょ。今日はあなたの大好きなハンバーグよ。早くしないとお姉ちゃんに食べられちゃうわよ。またおやつを食べすぎたんじゃないのか?相変わらず食いしん坊なんだから、まったく。あんまりおやつばかり食べていたら太るぞ、父さんみたいに。いやだもう、お父さんってば。あんたも気をつけなさいよ。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。ははははは。
耳の奥で笑い声がこだまする。は耳を塞いだがそれはまるで内側から発生しているようにいつまでも止まることがなかった。
それは在りし日のの「家族」だったかもしれないモノだった。今は失ってしまった、が「幸せだった」頃の記憶だった。
きっとそれは終わってしまった話: :ハイネケンの顛末