「おはよう、」
ツンとした薬品の臭いが鼻孔を通って寝起きのぼやけた脳を直撃する。一気に覚醒したは自分を覗き込んでいるのが抹本であるとすぐに認識した。内装を見るにここは病院らしい、と思っていると抹本が「ここはリコリス総合病院だよ」と答え合わせをしてくれた。そうだ、内臓をぐちゃぐちゃにされて病院に来たのだったと事の顛末を思い出したは傷をまさぐる。塞がってはいるようだが、少し痛い。
「さ、さっき治療が終わったところだよ。随分手ひどくやられたみたいだね。どうしたらあんなことになるのさ」
「あ~、ちょっとよく覚えてなくて……」
「あ、あんまり無茶したらだめだよ……キリカさんたちも心配してたよ」
「はあーい」
「あ、一応この薬飲んでおく?治癒力を高める薬なんだけど、試作品だから良かったら感想を教えてほしいな」
「いや、だ、大丈夫です!もう治ってますから!!」
「そう……」
しょんぼりする抹本を見て少しだけ心が痛んだがあまり良い予感はしなかったので全力でお断りしておいた。また寝込むことになったら洒落にならない。は包帯の上から体を擦って問題ないことを確認してから血まみれの上着を手に取った。我ながら一体なにがあったんだと引くほど大きな穴が腹部に開いている。暫く広げた制服を見つめているとすでに立ち直っていた抹本が「血液を落とすならセスキ炭酸ソーダを使うといいよ」などとにこにこしながら言うのでなるほど良いこと聞いたと思いつつも今手にしている制服は血がどーのこーのとかそういう次元じゃない気がした。
「館へ戻るの?」
「はい。肋角さんに報告しないとだし……あとおなかすいたし」
「それなら、これあげるよ」
「……これは?」
「一瞬で満腹になる薬だよ。実際に満腹になるわけじゃないんだけど、簡単に言えば満腹中枢を刺激する薬なんだ。要するに、身体、というよりは脳かな――を騙して疑似的に満腹状態を作り上げるってことだね。血糖値の上昇によって満腹中枢が刺激されるって言われているけど、重要な任務中で満足に食事も取れないような状況でもこれなら咀嚼する必要もないし効率よく空腹を満たせると思って」
「……今は非常時じゃないから固形物が食べたいなあ」
抹本が再びシュンとしてしまったので可哀想になったは今度実験に付き合う約束をした。なんだかんだで抹本の薬には助けられることも多いし、ギブアンドテイクというやつだ。すぐに嬉しそうな表情に変わった抹本を見てつい可愛いと言いそうになり、ははっと口を押えた。以前可愛いと言ったら涙目で抗議されたことを思い出す。そういうところもまた可愛いのだがあまりやりすぎるとサプライズで実験台にされてしまうので余計なことは言わないのが吉だ。抹本の方はが何を言おうとしたのか察したらしく少しだけむっとして彼女を見つめた。深く突っ込まれないうちに退散しようと、は早口で誤魔化すように抹本に別れを告げ、病室を出る。
出口へ向かう途中、出会った長身の看護婦長に「もうよろしいんですの?」と尋ねられた。怪我が多いことを指摘されたのでお茶を濁すと、より平腹の方が怪我が多いとため息を吐かれてしまったので謝るしかなかった。水銀によると、平腹は日に二度も三度もこの病院へ訪れることがあるらしい。平腹は平腹で感情の起伏が激しく任務外でも軽率に喧嘩を始めてしまうので怪我が絶えない。回復するとはいってもかかる時間は怪我の程度によって様々で、酷い時には任務直前に鍛錬だ!とか言って暴れた挙句大けがをして病院へ駆け込むということもあるので肋角にもきつく言いつけられているはずだが。
「わ、私からも言っておきますので……」
「そうしてくださるかしら。では、私はこれで失礼しますわ」
身長のせいだろうか、圧がすごい。病院を出るとどっと疲れた気がして緊張を緩めた。自分が注意したところで改善するとは到底思えないが、と平腹の顔を思い浮かべる。そもそも肋角や災藤でだめならもう誰にも止められない気がするのだけれど。帰ったらまず肋角のところへ行かなくてはとは空を見上げた。任務の報告はおそらく田噛がしてくれているはずなので心配ないとして、帰還の報告はしなければならない。制服も新調してもらわないと。特務室にあるストックの中に女物の制服はないのでなにかあれば発注する必要があった。だから十分気を付けるようにと肋角から言い含められていたのだが、実は今月3回目だったので心なしか重い足取りで館へ戻る。
***
生まれつき体の弱かった少年は入退院を繰り返したのち、10歳を過ぎたあたりから病状悪化のため寝たきりの生活となった。両親は献身的な看病を続けたが回復の見込みはなく、少年は日ごとに衰弱していった。少年は両親に恵まれていた。すでに余命宣告を受けた我が子が幸せな人生だったと思えるよう全力を尽くしていた。両親は莫大な治療費のため家を売り借金をして苦しい生活に耐えていたがそれを知らないまま少年は11歳でこの世を去る。その人生は短いながらもたしかに幸せだったが同じくらい少年は孤独だった。病院のベッドの上でできることといえば窓の外を眺めること、本を読むこと、音楽を聴くこと、テレビを観ること。それが少年の世界の全てだった。四角く切り取られた窓の中では自分と同じくらいの年の子供たちが自由に駆け回っている。すぐそこにあるのに触れることのできない世界は少年にとって絵と同じだ。両親の愛は感じることができても、ついに友愛を知ることはできなかった。「友達」とは少年にとってほしくてほしくてたまらないもののひとつだったのだ。
事の顛末を聞きながらは黒く塗りつぶされた少年の顔を思い出した。あの時流れ込んできた記憶はやっぱり少年自身のものだったのだと納得する。結局顔はわからなかったけれど、最後は穏やかな表情をしていた気がする。少年は裁きを受ける前にもう一度との面会を希望していたと聞き、一体なにが彼の心の琴線に触れたのだろうと首を傾げた。それが叶わなかったのは言うまでもないが、彼が自分の人生に折り合いをつけられたということはにとっても喜ばしいことである。
「ご苦労だった。報告書は田噛から出ている。あとで礼を言っておけ」
「はい。あの、肋角さん……」
「なんだ」
目を泳がせながらずたずたになった制服を肋角の前に差し出すと数秒無言の時間があった後に肋角が口に含んでいた煙草の煙を吐き出した。恐る恐る顔を上げると肋角が苦笑いしていたので、は土下座する勢いで頭を下げる。「次は気を付けるように」と釘を刺されたが、この台詞はもう何度目だったろうか。数えるのも億劫だ。制服ができるまで2週間ほどかかるので、その間は館内でできる事務処理や雑用を手伝うように言いつけられたは元気よく返事をして退室した。返事だけは良いのである。
最大の懸念事項は片付いたが、もう一つ大事な用件を終わらせなければならない。はつい先日も同じような理由で訪れた田噛の部屋の扉を前にして隠すことなくため息を吐いた。彼とは最近なにかと縁があるが、できればもっと良い方の縁であってほしいと願わずにいられない。毎度毎度こんな憂鬱な気分でこの扉をノックしていたら、そのうちトラウマが刻まれそうだ。いつまでも廊下でうだうだしているわけにもいかず、はようやく覚悟を決めて扉を2回ノックした。中から「開いてる」と確かに田噛の声がして、は忍び込むようにそろりと扉を開ける。今更だが彼は鍵を掛けない主義なのだろうか。田噛の部屋に入るときはいつもセルフサービスだったことを思い出し、ふとそんなことを考える。外出時はもちろん、在室時も施錠を欠かさないには不用心すぎてなんだか落ち着かない。まあこの館に奇襲をかけるような命知らずな輩は恐らく存在しないだろうから杞憂と言ってしまえばそれまでだが。田噛はに見向きもせずギターをいじっていた。まるで誰が訪ねてくるのかわかっていたようだ。さてなにから話そうかと考えながら、は田噛の向かいにしずしずと腰を下ろして弦を弾く彼の指先をじっと観察した。
「なんだよ」
「あ、えっと……報告書、ありがとうございました」
「それだけか?」
「え……」
「……なんでもねえよ」
「ギター教えてください」
「あぁ?」
「そんな怒らなくても……」
「怒ってねえ」
「うそだーー!眉間の皺すっごいですよ」
「…………元からで悪かったな」
「じゃあなにか弾いてください」
「……見物料取るぞ」
「カルパスでいいですか?」
「その駄菓子屋のカルパス1つで喜ぶやつは平腹くらいだろ」
田噛の求めているのはこんな答えじゃない、流石のでもそんなことは痛いほどよくわかっていた。彼なりに心配しているのだ。非常にわかりづらいが。だからと言ってすぐに改善できることでもなく、今のには捨て身の戦い方しかできなかった。特務室のお荷物にはなりたくないと思っていたはずなのに、結果的に自分は周りに負担ばかりかけていたのかもしれないと、罪悪感に襲われる。だとしたら今までやってきたことは全部無駄だったのだろうか。偶然ポケットに入っていた小さなカルパスを掌に載せたまま、は金縛りに遭ったみたいな感覚に陥った。急に大人しくなったを訝しんだ田噛もギターの手を止めると、たちまち部屋の中は静まり返る。
「……おい」
田噛の声ではっと我に返ったのおでこに強烈なデコピンが飛んでくる。
「いっっっっ!」
「鬱陶しいから落ち込むんなら自分の部屋で一人でやれよ」
「びょ、病院帰りの同僚にそんな仕打ちあります!?」
「すぐ治るだろ」
「そういう問題じゃない……あ、ほら、お詫びにカルパス持ってきたんですよ」
「さっきのやつじゃねーか」
「……私、最近田噛さんのお世話になってばっかりですね」
「はあ?最近じゃねえよ、前からずっとだろ」
「えっ」
「お前は体力ゴミだしすぐ感情的になって後先考えねえでつっこんでくから後処理もめんどくせえしできればサシでは組みたくねえけど」
「お、おおう……」
「ま、特務室のやつらは大概どっかネジがぶっとんでるしな。手がかかるのはお前だけじゃねえよ」
「……田噛さんが私を励ましてくれるだなんて、今日は血の雨でも降るんじゃ……」
「望み通りにしてやろうか?」
「冗談ですよ、じょーだん!」
傍らのツルハシを手に立ち上がった田噛がじりじりとへ迫ってきた。任務でもあまり見せないような冷たい光を宿す橙の瞳に見下ろされれば亡者でなくとも恐怖は感じる。当然田噛の方も冗談での脅しだったので、すぐにツルハシを下ろして元の位置に座り直した。がほっと息を吐くのを一瞥し、手元にある楽譜の束を見つめる。数秒考えた後、それを手に取っての頭に叩きつけた。
「うわっ!こ、今度はなんですか!?」
「来週までにこれを覚えてこい」
「……これ……楽譜、ですか」
「教えてやるよ、ギター」
「えっ!!!???」
「……なんだよ、お前が言ったんだろ」
「いやそうですけど……まさか本当に教えてくれるとは」
「やるのかやらねえのか、はっきりしろよ」
「やります!……けど」
「あ?」
「ちょっとスパルタすぎません?」
「俺は鬼だからな」
「……ね、根に持ってる……」
は渡されたコード表に目を通す。実は時々佐疫と一緒に災藤からピアノを習っているだが、ピアノとはまた違う譜面には慣れるのに時間が掛かりそうだ。コード表とにらめっこしていると上から田噛の手が伸びてきた。「とりあえずこれだけ覚えろ」と言いながら数か所に鉛筆で印が付けられる。これも田噛がずっと使ってきたものなのだろうか。少し黄ばんで折り目の付いたコード表に歴史を感じていると、無音だった部屋にまた弦を弾く小さな音が聞こえ始めた。
無邪気な夢の殺し方::ハイネケンの顛末
満腹になる薬のところの抹本くん、めっちゃ早口で言っててほしい。