※ちょっとだけいかがわしいけど致してはいないです注意






 がっちりと掴まれた手首が次第にじんわりとした痛みを訴えだした。しかし私はどうすることもできず、人気のない場所へとただ強引に連れていかれるのみ。またいつものやつか……と小さく吐いたため息は、幸い前を歩く男の耳には入らなかったらしい。二階堂さんは日に何度か目の前に現れては拉致同然に私を連れ去る。といっても兵営の敷地外のどこか遠い場所へ、というわけではなく兵営の端っこにある普段は人の出入りがほぼゼロの物置に、である。曰はく、入口や兵舎の窓からも丁度死角になっていて、移動の導線からも外れているその場所は絶好のサボりスポットらしい。要するに、なにか非常事態でも起きない限りここに用事がある人間は二階堂さんしかいないということである。
 今日も二階堂さんは草むしりに精を出す私の邪魔をしてきた。土だらけの両手を拭う暇も止める暇もないまま「ちょっと面貸せ」とだけ呟いて私を拉致していくのだった。もうちょっと言い方なんとかならないのか。想いを通じ合わせた相手のはずなのに、気分は不良から校舎裏に呼び出されたカツアゲ前のいじめられっ子だ。

「もう、今日何回目ですか……」
「2回目だろ」
「まだお昼休憩終わって1時間しか経ってないんですけど」
「今日は暇だからいいんだよ」

 たしかに、他の兵隊さんたちも今日はゆっくり歩きながら談笑したりと長閑な空気が漂っていたな……などと納得しかけた私だがすぐに我に返る。いや昨日も一昨日も同じこと言ってましたよね?と抗議する前に、現在は二階堂さんがほぼ占拠状態である物置に到着した。南京錠が壊れていることには私たち以外まだ誰も気が付いていないらしい。役目を果たさない錠を外して扉を開けると、忽ちカビ臭さと埃っぽさが鼻を突いた。頭よりも高い位置にある窓からはうっすらと光が差し込んでいる。ここはいつから使われていないのだろう。重ねられた木箱に薄汚れた毛布、なにかの農具のようなもの……それらがまとまりなく乱雑に配置されていた。というよりも放り込まれたといったほうが的確かもしれない。長期間人の手が入っていないことは、上に降り積もった埃の分厚さが証明している。ここ最近二階堂さんが根城にしているのは一番奥の、小窓の下だった。
 薄暗い物置へ引きずり込まれると、すぐさま二階堂さんによって扉がぴっちりと閉められる。私は淀んだ空気を吸い込んでけほ、と咳き込んだ。定位置まで進むと手首は解放され、晴れて自由の身になったと思ったのも束の間、次の瞬間には彼の腕の中に閉じ込められる。はあーと吐き出した彼の息が首筋に当たってくすぐったい。身を捩ると背中に回された手の力が一層強くなった。

「……堂々とサボりはよくないと思います」
「うるせえ。休憩だ休憩」
「休憩時間なら、ちゃんと決まってるじゃないですか」
「あんな短いので足りるかよ」
「他の人はちゃんと真面目に働いてるのに……」
「ああ?じゃあお前死ねって言われたら死ぬのかよ」
「いや、話が飛躍しすぎ……」

 やはり今回も説得はできなかった。ここに一緒に居る時点で私も共犯なのだけれど、もちろん嬉々として付き合っているわけではない。さきほどのように説得したり咎めたりと、私なりに努力はしてきたつもりだ。だがこの27聯隊の問題児・二階堂浩平を変えることはできなかった。もし誰かに見つかって罰を受けることになったときは、包み隠さず事情を説明して「二階堂さんに無理やり連れてこられました」と言うことに決めていた。恋人といえども下手にかばったりなんかして甘やかしてはいけないのである。……という私の決意は未だに実行されたことはないのだけれど、それは奇跡、なのだろうか?何度もこうやって二階堂さんのサボりに付き合わされてきたが、これまで一度も他の兵隊さんに見つかったことはない。それならそれで、誰にもバレないうちに彼を改心させられたら万々歳だ。そう思って一応毎回説得してみるわけだが、彼の心に響いている様子は一向に見えない。

「明日は休日じゃないですか。もう少し頑張りましょうよ」
「……休みがすぐそこに見えてんのに働かなきゃならねえ俺の気持ち考えろ」
「サボろうだなんて微塵も思ってないのに強制連行させられて無理やり共犯者に仕立て上げられた私の気持ちも考えてくださいよ」

 私の肩に顎を載せた二階堂さんが喋ると、声帯の振動がそのまま伝わってくる。それは首を伝って脳まで響くようで、普通に面と向かって会話しているときとは少しだけ違う声色に聞こえた。普段ぼぞぼぞと小さく不明瞭な二階堂さんの声が、こうしているとはっきりと聞き取れるのだ。だから私はこんな風に抱きしめられながら話すことは嫌いではない。短時間なら、の話だけれど。

「……俺が軍を辞めたら」

 信じられない台詞に私は思わず「えっ」と声を上げた。

「安心しろ。脱走はしねえよ、たぶん」
「たぶんて」

 当の本人はなんでもないことのように淡々と補足する。脱走するだなんて、心臓に悪い発言はしないでほしい。急にどうしたのだろう。

「もし辞めたら、お前、一緒にきてくれるか」

 ……本当にどうしたんだろう。二階堂さんがこんな弱気な発言をするのは初めてではないだろうか?答えはひとつに決まっているというのに。

「嫌です」
「……」
「……って、言うと思いました?」
「…………思ってねえ」

 そう言いつつも口調は少し不貞腐れたようだったから、つい笑ってしまった。自分でもからかいすぎた自覚があったのですぐに「ごめんなさい」と謝る。

「私は他に行くところもないし……もし二階堂さんがそう言ってくれたら、きっとついていきますよ」

 痩せた頬をそっと手で包んで覗き込んでみると、少しだけばつの悪そうな二階堂さんと視線が合う。一瞬目を泳がせたかと思えば私の手の上に彼の掌が重なった。相変わらず体温は低く、ガサガサで肌触りも悪い。ハンドクリームでもあれば塗ってあげられるのに。なんて自分のことは棚上げで思っていると、への字に曲がっていた二階堂さんの薄い唇が弛緩して私の方へどんどん近づいてきた。黒い双眸に熱が宿っているのがわかりごくりと喉を鳴らす。私はまだこの空気に慣れることができずにいる。鼻先が触れ合う瞬間、思わず目を固く閉じて、歯を噛みしめて次に来る感触に備えた。直後、私たちの唇同士がくっついてまたすぐに離れていく。

「いい加減慣れろよ」
「……む、無理っ……」

 私が首を振るとすぐ近くで舌打ちが聞こえた。無理なもんは無理なんです。と言う暇もなく二階堂さんが私の鼻をぎゅっとつまむ。当然息苦しくなるわけで、大きく息を吸い込んだタイミングを見計らって再び唇を塞がれた。今度は触れるだけのような生易しいものじゃない。お互いの舌が絡まって、背筋になにかぞわぞわしたものが這い上がってくる。ふと首元の違和感に薄く目を開くと、二階堂さんが私の上衣のボタンを片手で外しているところだった。

「なっ、にしてるんですか……!」

 私は渾身の力を振り絞って二階堂さんの胸を押しのける。それが気に入らなかったのか、むっとした表情の二階堂さんが懲りずに上衣の中へ手を突っ込んで鎖骨のあたりをするりと撫でた。無骨な指先が首筋を通って肩口をなぞる。本人には自覚がないのかそれとも狙ってやっているのかはわからないけれど、普段はがさつな癖にこういう時だけ焦らすような触り方をするのはズルいと思う。不覚にもその先を想像してしまい、私の体がぴくりと反応してしまった。これでは相手の思うつぼだ。

「この手、どけてほしいんですけど……」
「でも、お前もちょっとその気になっただろ?」
「いや仕事中になにをするつもりですか。やめてください早く仕事に戻ってください」
「……」
「……二階堂さん?」

 やっと心を入れ替えたのかと思った矢先、私をじっと見つめていた二階堂さんの口端がわずかに上がった。こ、これは……良からぬことを考えている顔だ。

「休みの日ならいいんだな?」
「え、いやそういう意味じゃ……」
「おい、覚えとけよ」
「なんですかその悪役みたいな捨て台詞は」

 一人でさっさと出ていく二階堂さんの背中を少々呆れながら見送っていたが、すぐに明日が休日だということを思い出して私は身震いするのだった。

桃色の毒でおやすみなさい::変身