信じられないほど長閑に日々は過ぎてゆく。目を閉じれば聞こえてくるのは砲撃音でも誰とも知らぬ男のうめき声でもない。鳥の囁く声や木々のざわめき、そして時折楽し気な子供たちの声が混じる。それは退屈と紙一重の平穏だった。
 毎週休日ともなればこの狭苦しい兵舎にも多少のゆとりが生まれる。男たちは抑圧された軍隊生活からの解放を求め、その多くが街へと消えていった。檻から放たれた猛獣のように、とまではいかなくとも昼夜問わず緊張状態の続く厳しい兵営から一歩外に出た解放感は計り知れない。
 そうやって週番勤務以外の大多数が兵営を不在にしてしまえば下種な会話が耳に飛び込んでくることもないし、面倒くさい奴らに絡まれる心配もない。立場上休日でも雑務が舞い込んでくることも少なくないが、この日の尾形は長椅子に一人腰かけてなにもしないという贅沢な時間を過ごしていた。日当たりの良い特等席で日光を浴びているとふと思い出す。『もう少しお日様に当たらないと、不健康ですよ』などと笑いながら自分の頬をつつく女の顔。――あいつに言われたからそうしているわけじゃない。時にはただそこに在るだけというのも悪くないと思っただけのことだ。心の中で無意味な言い訳をして打ち消そうとする。その度尾形を嘲笑うかのように女の幻影が追いかけてきた。やめろ。出てくるな。拒絶すればするほどそれは大きくなっていく。

「尾形上等兵殿」

 部下のものとは違うやや高く軽やかな声音が鼓膜を振動させ、瞑っていた目をゆっくりと開ける。静寂をぶち破った女の声が脳内に染み渡る頃、尾形はようやくその声の主に視線を向けた。

「……その呼び方はやめろと言ったはずだが」

 また鶴見中尉か月島軍曹の小間使いで走り回っているのだろう。腕に書類らしき紙束を抱えたがきょとん、と擬音の付きそうな顔をして尾形を見下ろしている。
 一応軍属という扱いであるに対して「部下ではない」というのは不適切かもしれない。書類上では名前も出身地も記された正式な帝国陸軍兵士である。ただしそれは架空のものだった。の身分はすべて偽りでできている。だから尾形は鶴見中尉たちのように彼女と「軍隊ごっこ」に興じるつもりはなかった。

「でも、他にどうやって」
「名前で呼べばいい」
「え、それはちょっと……」
「なら鶴見中尉はなんと呼ぶ?」
「…………鶴見、さん」
「同じだろ」
「お、同じじゃないですっ……!」

 さっぱり理屈の通らない回答に嘆息し、尾形は窓の外へ視線を移した。表の門には歩哨がひとり、退屈そうに立っている。
 は不思議な女だった。
 ふわふわと、危機感の欠片もないような、正に平和ボケしたなにも知らない間抜け面は無性に尾形を苛つかせる。
 面白くない。が自分を尾形「上等兵」と呼ぶことも、休日まで誰かの使い走りを引き受けていることも、その状況を疑問にすら思っていないのだろうことも。はバカが付くくらいのお人よしだ。そして、自身の振る舞いが周囲に与える影響などまるで考えていない。場違いなほどふわふわで、真っ白なものしか知らないような温室育ちの如き微笑みを誰彼構わず振りまく。……面白くない。が、この感情が大人気ない自分勝手なものであることもまた尾形自身わかっている。
 覚えがあった。近くて遠い或る日の記憶。もう二度とまみえることのないはずの温かさ。自分の力の及ばないところを踏み荒らされ、苛立ち、消えてほしいと願いながらも心の奥底では拒絶できずにいる。尾形は歩哨が大あくびするのをじっと見つめながら、その矛盾について考えを巡らせた。

「なにか用事か」
「あ、はい」

 はっと思い出したようにが抱えていた紙束を差し出す。顔は窓辺に向けたまま、横目でその手元を一瞥した。

「次回の実施要綱だそうです」

 打って変わって事務的な口調になったがお決まりの台詞を吐いた。実際のところ、彼女はこれが何の「実施要綱」なのかわかっていないだろう。
 書類は受け取らず、書類を持つの手首をぐ、と掴んだ。が咄嗟に身を引いたが、逃すまいと更に力を込める。

「お、尾形上と……さん?」

 戸惑っているような、怯えているような、そんな顔をしていた。時々この表情が見たくてたまらなくなる。腹の底からぞくりとしたなにかが生まれて、溢れそうになる。歪んでいる自覚があってもそれは抑えられない。がこんな顔を見せるのは、尾形の知る限り自分一人だけだ。その事実が更に欲を掻き立てる。

「もう一回、だ」
「えっ、なにがです」
「『尾形上等兵』はやめろと言っただろう?やり直せ」

 が目を剥いた。さきほどのやり取りですっかり諦めたと思っていたのだろう。言い淀んだとはいえ、貴方の要求を叶えたというのに。そんなぼやきが表情から見て取れる。ややあっては目を泳がせたあとで小さく「……お、尾形、さん」と控えめに呟いた。求めていた結果ではなかったが、その従順な態度は尾形を満足させるには十分すぎるものだった。そこでようやく手首を解放し、書類を受け取る。からほっとした息遣いが聞こえるような気がした。

「平気だったろ?」
「…………」

 が不満を訴えるように口をへの字に曲げたが、残念ながら尾形にはなんの効果もない。

「ごくろうさん」
「……あ、の……」

 ひとしきり反応を愉しんだ尾形が今度こそ真面目に書類へと目を通していると、用事が済んだはずのが軍服の裾をぎゅっと握りしめた。

「なんだよ」
「……その、私、午後は休んでいいと言われているんです」
「そりゃ良かったな」
「尾形さん、の、午後の予定を聞いてもいいですか」

 随分遠回しな誘い方だな、と揶揄ってやりたいのを堪えて考えるふりをする。顎に手を当てて天井を見上げれば室内には再び静けさが戻ってきた。今日は珍しくなにもない日だった。だからこそこの場所で自ら退屈に時間を奪われていたわけで、それを手放してしまうのは少し惜しいようにも感じる。だが、の耳が燃えるように赤く染まるのを見ると今日くらいは素直に乗ってやってもいいか、などと優越感にも似たムズムズとしたなにかが尾形の胸の中を支配していった。

もしもの切れはし::ハイネケンの顛末