※なにも始まらないうえにたぶん続かない
土曜日の午前中、いつもの喫茶店。窓際奥の席。私は空席を物色するふりをしてさりげなくそちらに目をやる。彼が居ることを確認して、自分はその対角線上にあたる壁際手前の席へ腰を下ろした。アンティーク調でまとめられたこのレトロな喫茶店はひと月ほど前に偶然発見した。店のホームページも、今流行のSNSさえもない。まさに知る人ぞ知るといった穴場である。開店後間もない時間帯は人もほとんどおらず、大抵は貸し切り状態だ。美味しいコーヒーを飲みながらゆっくり読書を楽しむには最高の空間だった。私は毎週土曜日、少しだけ早起きしてここへ通うのが習慣になっている。
彼が現れるようになったのはいつからだっただろう。明確には覚えていないし、もしかしたら私より前に常連になった人かもしれない。ある時ふと顔を上げると、窓際奥の席に彼の姿があった。ただそれだけで会話どころか視線を合わせたこともない。彼は私と同じように土曜日の午前中この喫茶店へやってきて、読書をしていた。コーヒーカップを持ち上げて口へ近づけながら、その姿を時折盗み見る。なんだか悪いことをしているみたいだ。自覚はあるものの、悪い癖ほどそう簡単には直らない。一度意識してしまった「彼」は、いつしか私がこの喫茶店へ足を運ぶ理由となってしまった。今日も居るかな、なんて本来の目的そっちのけで彼の真剣な眼差しを思い出しては首を振る。
その日、私が店を訪れると彼の姿は見当たらなかった。まあ、もともと毎週必ず居るというわけでもないのだけれど。私は少し残念に思いながらいつもの席へ腰を下ろす。なんとなく気まぐれでいつもとは違う種類のコーヒーと注文し、バッグから文庫本を取り出した。カラン、とベルが鳴って店のドアが開いたので思わず顔を上げると「彼」が立っていて、私たちはこのとき初めて目を合わせた。少しだけ気まずさを感じながら会釈して読書に戻る。
「いらっしゃい、杉元さん。今日は来ないのかと思ったよ」
「ああ、うん……今日はちょっと遠回りしてきたから」
店主のおじさんとの会話ばかり気になって本の内容が頭に入ってこない。「杉元さん」は本日の紅茶を注文して店の奥へ進んでいった。杉元さんは紅茶派なのだろうか。……だめだ、読書に集中できない。一度目を閉じて深呼吸する。
「はい、おまたせしました」
再び目を開けたとき、丁度淹れたてのコーヒーがテーブルに運ばれてきた。おじさんと二言三言交わしてからコーヒーカップを手に取る。おじさんの蘊蓄は私の耳から耳へと流れていった。コーヒーは好きだけれど、産地がどうの、種類がどうのといったたぐいの話は未だに覚えられずにいる。今では当たり前のように注文しているコーヒーも、当初はメニュー表にずらりと並ぶ名前に戸惑って「一番人気のやつお願いします」などと丸投げしたものだ。私がコーヒーに疎いのを感じ取ったのか、おじさんは一番癖がなくて飲みやすいらしいものを選んでくれた。私はその初来店の日から飽きもせず毎週ずっと同じコーヒーを飲んでいる。今日気紛れに頼んだのは酸味が控えめで苦味とコクがしっかり伝わってくるものだった。微かにスパイスのような香りが鼻腔を抜けていく。美味しいです、と呟くとおじさんは満足そうににこりと笑った。
店内に流れるジャズ、年代物の調度品から漂ってくる柔らかな木の香り、カウンターの奥から感じる店主のおじさんの気配。それらが混ざり合った、この店ならではの雰囲気が好きだった。映画なんかに出てくるおしゃれな喫茶店には及ばないけれど、それでもこの店は私を非日常世界へ連れて行ってくれる。ここで読書をすると私は物語の住人になれる。そうやって文字の世界に浸っていると時間はあっという間に過ぎてしまうのだった。持参した文庫本を読み終えてしまい、私は息を吐く。残ったコーヒーを飲み干しながら斜め前をちらりと見ると、窓に陽が差してステンドグラスの色が杉元さんの肌に移っていた。頬杖をつく杉元さんはテーブルに広げた雑誌へと真剣に目を通している。このままじろじろと観察しているわけにもいかないので、私はコーヒーカップを静かに戻して帰る支度を始めた。
店主のおじさんに見送られながらドアを開けると、さわやかな風が吹き込んできた。長居しすぎたかなと思ったときでも案外時間は進んでいない。腕時計は11時すぎをさしている。今日はちょっと遠回りして帰ろうかな、なんてまたしても気まぐれな思い付きで家とは反対方向へと足を向けた。
「あの!」
後ろからの声に振り返ると、杉元さんが太陽を背に立っていた。逆光が眩しくて私は目を細める。
「……あの、、さんですよね」
「……そうですけど……」
「あ、いや俺、怪しい者じゃなくて」
「はい、知ってますよ。さっきの喫茶店に居た、杉元さんですよね?」
ほっとした表情を見せた杉元さんが、一冊の本を差し出した。見慣れたブックカバーに驚いて目を見開く。慌ててバッグの中を確認したが、あるはずの本がなかった。もしかしなくても、彼の持っているのは私の本だ。
「わざわざ届けてくれたんですね。ありがとうございます」
「いや、帰り道だから……」
それじゃあ、とあっさり別れてしまっていいものか、私は迷いながら本を受け取る。もっとお話をしてみたいという願望はあるものの、杉元さんの方も困ったように視線を泳がせていた。ほぼ初対面だからな。仕方ないことだ。私だって会話が得意な方でもないし。きっとまたあの喫茶店で会えるだろうから、今日はお礼だけでさっさと退散しよう。私は口を開いて「では」と言いかけた。
「さんっ……このあと、時間ありますか!」
耳を紅く染めた杉元さんが目を潤ませながら言った。真剣に本を読む姿しか知らない私はうっかり見惚れてほとんど無意識に頷く。
「……ほんとはもっと前から声を掛けようと思ってたんだけど、なかなかタイミングがつかめなくて……」
杉元さんが恥ずかしそうに頭をかきながら零したので、なんだ、同じだったのかなんて嬉しく思いながら「実は私もなんです」と笑った。
太陽の中の君