「何か手伝おうか?」
杉元さんが耳元で囁くので、私はくすぐったくて身をよじる。手伝おうかなどと言っておきながら彼は背後から私を抱きしめていてその手を離す様子は見せなかった。さきほどからずっとこの調子だ。「危ないから座って待っててください」と言っても「寂しいからやだ」なんて子供みたいにむくれてしまうのだけど私も私でそれを嬉しいと思ってしまうのが本音である。この単身用の1LDKで寂しいもなにもないだろうにと思わないわけではないが、とても恥ずかしそうに小声で我儘を言う杉元さんは筆舌に尽し難い可愛さなのだ。それにしても今日はいつもに増して甘えてくるように思う。
「なにかあったんですか?」
「え、どうして?」
「いやなんとなくですけど……」
「んー……あるといえば、ある……かな」
背中から重みと温もりが消えていき、私は漸く自由の身となった。煮え切らない様子の杉元さんが気になって後ろを振り返ると言おうか言うまいか迷っているのだろうか、気まずそうに目を泳がせている。落ち込んでいるというよりは何か打ち明けたいけど迷っているように感じたので促そうと思って口を開けたら、私が喋るより早く杉元さんが突然「ちゃん!鍋ッ!!」と叫んだので慌てて吹きこぼれそうだった鍋を火から下ろした。なんとなく会話が途切れたまま、出来上がった料理を盛りつけ、テーブルまで運ぶ。まあ、さっきのはあとで聞けばいいか。などとのんきに考えながら席に着くと、杉元さんが改まって私の名前を呼んだ。
「お願いがあるんだ」
「なんですか?」
「……その……」
「遠慮しなくていいですよ」
「……名前、呼んでほしいんだ」
「……杉元さん?」
「あっ、そうじゃなくて!名前で!名前で呼んでほしい」
「……」
「……嫌だった?」
「いや……えっと、さ、さ……」
「それじゃ聞こえないよ」
「さ、いち……さん」
「はい」
「……こ、れでいいですか?」
「もう一回、言ってくれる?」
さきほどまで赤くなっていたのは杉元さんの方なのに、今は私がりんご状態だ。名前を呼ぶのって結構勇気がいるんだよなあ。可愛い可愛いと思っていた杉元さんはいつの間にかかっこいい杉元さんに変わっていて真剣な眼差しで私をじっと見つめていたので羞恥心から逃れようと目を固く閉じる。やっとの思いで「佐一さん」と小声で呟いたけど何の反応もなくて、杉元さんまで聞こえているんじゃないかと思うくらい激しい心臓の音をなんとか鎮めようと深呼吸を繰り返した。まあ、確かにお付き合いし始めて随分経つのに未だに苗字呼びでは流石に他人行儀すぎたのかもしれないな。苗字から名前に変えるタイミングを見事に逃したお陰で今こんな状態になっているわけだが、まさかこれほどの辱めを受けることになるとは思っていなかった。
あまりにも無反応なのでもしかして杉元さんが期待していたのとはちょっと違ったのだろうかと不安になり、恐る恐る目を開けた。向かいに座る杉元さんは両手で顔を覆っていて、私は思わず「え」と小さく呟いたけど隠しきれていない彼の耳が赤く染まっていることに気付く。やっぱり可愛い人だ、と私は口元を緩めた。
「じ、自分から言い出したくせに、そんなに恥ずかしがらないでくださいよ」
「……だって……思った以上に……良かったから」
「その言い方はちょっといやらしい」
「やらしいって言う方がやらしいんだよ?」
「あ~~もう、気が済んだならごはん食べましょうよ。冷めちゃいますよ」
「ちゃん」
「……なんですか」
「これからは名前で呼んでね」
「…………はい、佐一さん」
精一杯の笑顔でそう答えると杉元さん……佐一さんは満足したのか両手を合わせていただきますをしたあとで今日の夕食に手を付けた。
あたしはきっと運命を告げられた::ハイネケンの顛末