それに気づいたのは仕事中にふとカレンダーを見上げたときだった。……やばい、バレンタインの存在かんっっぜんに忘れてた。なにがやばいのかと言われればそれは浩平からの圧力である。チョコなんて大して好きでもない癖に、こういうイベント事にはやたら拘っているもんだから厄介だ。今日の夜家に呼ばれたのはこのことか……と私は遅まきながらその意図に気付いた。いやまあ今更気付く私も私なんだけども。とりあえず帰りがけにデパ地下に寄ってなんとかするしかない。時計の針はすでに定時数十分前を指していて、その奇跡ともいうべきタイミングには思わず神様に感謝してしまったほどだ。気付かず手ぶらで行っていたらどうなっていたことか……考えたくもない。
定時のチャイムと同時にダッシュで会社を出た私は、駅直結のデパ地下で女子の大群にもみくちゃにされながらも無事ゲットしたなんか海外製のおしゃれなチョコを手に浩平の家へ向かった。当初予定していた時間から1時間オーバー。メッセ―ジは既読状態なものの、返信はない。うわあ、絶対怒ってるだろうなあ。玄関ドアの前で一度深呼吸して覚悟を決めてからチャイムを鳴らす。と、玄関の前で待ち構えていたかのような早さで扉が開いた。そこには案の定というかなんというか、どう見ても不機嫌そうなむすっとした顔の浩平が私を見下ろしていた。
「遅い」
第一声がこれである。いや、そりゃ悪かったけどさ……ちゃんと連絡したじゃん。「残業でちょっと遅れそう」って。嘘だけど。
「仕方ないでしょ、仕事なんだから」
「この前聞いたときは定時で上がれそうだって言ってただろ」
「だって至急で対応入ったんだもん。私じゃなくてお客さんに言ってよ」
「よし、そいつの番号教えろ」
「よし、じゃないよ。バカなの?」
「マジで電話するわけねえだろ。バカなのか?」
「……」
なんだろう、この敗北感は。正直浩平ならやりかねないよねとか余計な事を口走りそうなのをぐっと堪えて、険悪ムードを変えようと鞄の中からさきほど買ったばかりのチョコを取り出す。
「はいこれ。有名なお店みたいだから、たぶん美味しいと思うよ」
まさかこのおしゃれチョコがデパ地下のバレンタイン特設会場入ってすぐにあったからなどという死ぬほどしょうもない理由で選ばれたとは思うまい。本命に対するプレゼントがそれでいいのかというごもっともなつっこみはこの際考えないことにしよう。店頭には「日本初出店!」「◯◯王室御用達!」といった御大層なのぼりが出ていたので、少なくとも外れではないはずだ。むしろチョコで不味い方が難しいのでは?普段スーパーで売っている板チョコやらチ◯ルチョコやらくらいしか食べない私にはあまり想像がつかない。こげ茶色の高級感溢れるチョコレートの箱はすぐに私の手を離れ浩平のもとへ渡る。浩平は外装に印字されたカリグラフィーをじっと見ていた。読めないのかもしれない。ちなみに私も読めないうえに既に店名も忘却の彼方である。だがどうせ私も浩平も高級チョコレートにはこういったイベント時くらいしか縁がないので大した問題ではない。
浩平は数秒ほど箱を凝視してから顔を上げた。どことなく怪訝そうだったので、私は頭に疑問符を浮かべる。もしかして食べたことあったのだろうか。
「……2つある」
「あ、片方は洋平の分。悪いんだけど、渡しておいてくれる?」
「はぁ?」
浩平が一瞬にして不機嫌そうに目を細めたのを見てぎょっとした。バレンタインを忘れていたのとは比べ物にならない。ポンコツな私はまたしても忘れていたのである。浩平の嫉妬心が無駄に強いという重要事項を……。だからって、洋平にチョコ渡そうとしただけで怒ったりする?私は全身で怒りを表す浩平からじりじりと距離を取りながらもなんだか納得いかなくて、怒気に圧倒されながらも反撃を試みた。
「な、なんで怒ってるの?去年も二人に渡したんだから今更じゃ……」
「去年はまだ付き合ってなかった」
「そうだけど……これはほら、あの~、あれだよ。友チョコってやつ」
「じゃあ別のやつにしろよ。なんでよりにもよって全く同じなんだよ。お前と付き合ってるのは洋平じゃなくて俺だろ。俺の方にもっと気合入れろ」
「……」
そう言われるとぐうの音も出ない。すごい人混みだったし時間がなかったのもあって横着してしまい全く同じものを買ったのが運のつきだ。無事チョコを用意できてほっと一安心だ、などと油断していた数十分前の私に「洋平の分はコンビニのにしておけ」と伝えたい。洋平にはとんだとばっちりではあるけど。必死に言い訳を考えていたら「黙ってないでなんとか言えよ」と手首を捕まえられてしまった。痛、と顔をしかめる私なんてお構いなしの浩平が眼前に迫る。その目だけで人が殺せそうなほど鋭い視線が真っすぐ飛んできて、私は敢え無く白旗を揚げた。
「……ごめん、白状するとほんとはバレンタインとか綺麗さっぱり忘れてて」
「は?」
「ごめんてば!怒んないでよ!だから急いで用意したんだけどそこまで頭回らなかったの」
がっちり掴まれた手首が痛いわめちゃくちゃでかい舌打ちが聞こえるわで気が気じゃなかったけど、洗いざらい白状してしまうといくらか心の重荷が下りてもうどうにでもしてくれという諦めという名の解放感に包まれる。私の懺悔が済むと部屋は静まり返り、ただエアコンの稼働音だけが大きかった。なんか言ってよ、なんて軽口も叩けず、私は目を固く閉じたまま身を縮こまらせる。あまりにも静かすぎて、それが逆に不気味で不安になってしまい、浩平からどんな報復がくるかとドキドキしていた私の肩にずしりとなにかが乗っかった。目を開けると浩平の頭が預けられていて私が「えっ」と声を上げるのと同時に痛いくらい抱きしめられる。
「このチョコ二つとも俺が食っていいなら許してやる」
「……や、それくらい……構わないけど。洋平には別のチョコ買ってくるから」
「おい違うだろ」
「えっ」
「許してくれてありがとうございます、だろ」
「……ぜ、絶対言わないからね!?」
バレンタインなんてお菓子メーカーの陰謀だから!
2023/02/15
バレンタインをすっかりさっぱり忘れていた管理人がさっき頑張って書いたお話です。お納めください。このあと浩平くんからのありがたーいお仕置きが待ってると思うと控えめに言って胸熱です(ゲス顔)。