『風邪ひいた』
『死ぬかも』

 私の手の中にあるケータイの画面にはそんな不穏な文字が並んでいた。風邪で死ぬだなんて……大げさな。と思いつつ絶対にありえないとはいえない。私は平静を装って『病院には行きましたか?』とだけ送って、返事を待たず菊田さんの家へ行く支度を整えた。菊田さんは働きすぎなのだ。そりゃ、責任ある立場だから忙しいっていうのは仕方ないことなのだけど、風邪引いて死にそうになる前に少しは自分を省みてほしい。……なんかだんだん腹が立ってきた。心配と怒りが交互にぐるぐるした状態で家を出て近くのドラッグストアへ向かい、冷えピタやらスポーツドリンクやらの定番アイテムを買い込む。買い物の途中でケータイを確認すると返事が届いていた。

『行ってない』

 文面が素っ気ないのは体調不良のせいだろうか。いや、普段からこんな感じだったような。私も私で割と誰にでも塩対応なきらいがあるせいか、一応恋人同士である菊田さんとも「好きです」「俺も」なーんて甘いやり取りは一切なく、「明日12時に集合で」「了解」などといった素っ気ない業務連絡ばかりである。ここにきてその弊害に気付くとは。さきほどのあっさりしすぎなやり取りでは冗談なのか本気なのかがわからない。菊田さんは割と冗談を言う方ではあるけれど……本当に死にそうなほど辛くて必死に打ち込んだのがさきほどのような短文、という可能性だってあるかもしれない。巷には昨日まで元気だった働き盛りの青年が急死……なんていう事例もあるくらいだし。これは極端な話ではあるけれど、人間一度最悪の事態を想像してしまうと段々不安になってくるものである。私は菊田さんがそうでないことを祈りながら彼のマンションへ急いだ。

「お、おじゃましまーす……」

 合鍵を持っているとはいえ人の家に勝手に立ち入るというのは未だに慣れない。できる限りそっと鍵を回し、音を立てないように玄関のドアを開けた。金属の軋む音がいつもよりうるさく感じるほど室内はしんとしている。大きな革靴の隣に自身のパンプスを並べリビングに向かったが人の気配はない。耳をすませてみても物音ひとつないことから、恐らく寝室で寝ているのだろうと予想した。リビングの先には寝室とつながる扉がある。今は閉ざされているその扉をノックしようと拳を作ったところで、起こしてしまったら悪いなという考えが浮かんで手をそっと下した。なんだか泥棒しているみたいで変な気分だが、一応小声で「失礼しまーす」と言いながらなるべくゆっくり扉を開ける。窓際に鎮座するベッドは大きく膨らんでいた。布団が規則的に上下している様子から、やはり寝ているようだ。私はしばらくその布団をじっと見守っていたが、ふと手荷物を思い出して忍び足で部屋から脱出する。
 冷蔵庫の中はほとんど空っぽに近い状態だった。右端に栄養ドリンクが箱ごと置かれているほか、卵、ペットボトル、いくつかの調味料……一体いつから買い物に行っていないのだろう。ちゃんと栄養のあるものを食べているのだろうか?仕事にかまけて毎日コンビニ弁当やらカップ麺やらで済ませていたのでは?だから風邪なんて引いてしまうのだ、まったくあの人は。いつの間にか頭の中で菊田さんにお説教しつつ、持参したスポーツドリンクやフルーツゼリーを冷蔵庫の一角に追加する。
 再びリビングへ戻ると、こちらは冷蔵庫と違って荒れていた。さきほどはあまり気にしていなかったが、脱ぎっぱなしの上着やネクタイ、取り込んだままの洗濯物がソファからでろりと垂れ下がり、飲みかけの水が入ったコップやら財布なんかがテーブルに置き去りになっている。普段からきっちり整理整頓されているので荒れているといっても足の踏み場もないというような惨状ではないものの、あの菊田さんにしては珍しいことだ。よっぽど具合が悪かったんだなとリビングをなんとなく片付けながらその様を想像して少し気分が沈む。

「……、か」

 と、寝室の扉が開いて顔を真っ赤にした菊田さんが姿を見せた。しかも着替えもせずに眠っていたようでしわくちゃのスーツ姿である。部屋の様子から予想はしていたけれど、仕事から帰ってそのままだったらしい。

「……大丈夫ですか?」

 とても大丈夫そうには見えないが、一応お決まりの台詞を投げてみる。

「全然大丈夫じゃない」
「……ですよね。すみません、もしかして起こしちゃいました?」
「いや、ちょっと喉が渇いてな……」
「それなら私が持っていきますから、寝ててください。あ、あと着替えた方がいいですよ」
「……すまん」

 本人はああ言っているけれど、やっぱり私のせいで起こしてしまったような気がする。片付けは余計なおせっかいだっただろうか。申し訳なく思いながらコップに水を用意し、寝室へ戻ると菊田さんに手渡した。そして水を飲んでいる菊田さんのおでこに有無を言わさず冷えピタを貼り付ける。

「ごはん、ちゃんと食べました?」
「食べてない」
「ゼリー買ってきたんですけど食べます?」
「……その前にの手料理が食いたいな」
「冷蔵庫空っぽでしたけど」
「…………米ならあるぞ」
「じゃあ、おかゆ作りますから大人しく寝ててくださいね」

 キッチンへ行こうと腰を上げた私の手首が弱弱しく掴まれる。たいして驚きもせず振り返ると熱のせいか潤んだ瞳の菊田さんが私を見上げていた。

「やっぱり、もう少しここに居てくれないか」
「……おかゆは」
「あとででいい……」

 そんな顔でお願いなんかされたらこちらも強く出られない。恐らくまともな食事も取っていないのだろうから、私としては食べて休んで早く治してもらいたいところなのだけど。すぐに折れた私が枕元に腰を下ろすと、菊田さんは起こしていた上半身をベッドに預ける。ほっと息を吐いた菊田さんは私の手を握り直した。

「……ありがとな、

 そう言われるとなんだかやるせなくて返事の代わりにぎゅっと手を握り返す。瞼を下ろした菊田さんからはすぐに穏やかな寝息が聞こえ始めた。寝るのが早い。額にかかっている髪を払い、私は遠慮なくその寝顔を眺める。普段では考えらえないほど隙だらけだ。それがなんだか無性に嬉しくて私は自分の頬が緩むのを感じた。起きたらすぐ食べられるように食事の支度をしないと……と思いつつなかなか腰が上がらないのは菊田さんのせいだ。私は自分で自分にそう言い訳して思う存分菊田さんの寝顔を眺め倒すことにした。

どんなにがんばってもしょせん二つの個体::変身