かさねのなかをつっぱしる6

 なにかが顔を優しく撫でる感触に目を覚ます。相変わらず怪我を負った部位は悲鳴を上げているが、痛み止めのおかげでさほど辛くはない。ただその薬のせいなのか少しだけ頭がぼんやりしていて、枕元の男が誰なのか認識するのに時間を要した。頬を撫でるものの正体は洋平だった。咄嗟に洋平、と呟こうとしたが急に自信がなくなり、結局私は「二階堂」と呼びかける。

「……どっち?」
「いい加減覚えろよ。洋平だ」
「洋平こそ……自分たち以外の双子の見分け、つくの?」
「見たことないから知らねえ」
「あてにならないなあ……」
「なんだとてめぇ、やんのかコラ」
「……そうやってすぐつっかかるの、やめなよ」

 そういえば今回は浩平が怪我をしたんだっけ。急速に記憶が蘇った私は、目の前の二階堂が確実に洋平であることを悟る。布団の中にしまっていた手を出して枕元に座る洋平へと伸ばしたらすぐに彼の手に捕まって、かさついた指同士が絡まりあう。

「……浩平は?」
「俺で我慢しろ」
「なにそれ嫉妬?」
「ちげーよ馬鹿自惚れんな」
「けが人なんだから、もうちょっと……優しくしてよ」
「だからこうやって看病してやってるじゃねえか。お前こそもっと俺に感謝しろよ。早く治して俺に恩返ししろ」
「そういうの、恩着せがましいって言うんだよ」

 まあたしかに、以前の二階堂と比べたら1%くらいは優しさを感じるような……。他人の看病とか絶対しなさそうだもんな。彼なりに精一杯優しくしているつもりなのかもしれない。欲を言えば口調も優しめでお願いしたいところなのだけど、そこまで求めるのは贅沢だろうか。早く治せと言われてしまった私は僅かに苦笑を浮かべる。お医者様の見立てではあと数か月は入院が必要だとか。それは二階堂も知っているはずだ。繋がれた指先に少し力を入れると、それに気づいた洋平は私の手を包み込むように握り直した。

「私が死んだら、洋平のお墓に入れてくれる?」
「……お前がこんなところで死ぬようなタマかよ」
「別に今すぐ死ぬとか、誰も言ってないし」
「じゃあ墓の話とかするんじゃねえよ。縁起でもない」
「ごめん……」
「入れてやってもいいけど、浩平もいるし、狭いからな」
「……いいの?」
「二階堂の墓だぞ」
「いや、わかってるけど……」

 イマイチ洋平がなにを言いたいのかはかりかねて、頭にはてなマークを浮かべたまま相槌を打つ。とにかくこれでお墓の心配はなくなった。身寄りのないこちら側でもし命を落とすことがあれば、自分の体はどうなってしまうのだろうと常々考えていた。戦争は生き延びた。だがこの先の保証はない。帰る手立ても未だ見つからない。私はどうしようもなく独りだった。いつかの月島軍曹が言っていたように故郷を思い出す。それはもう遥か彼方に霞むようであり、それでいて私の脳裏に焼き付いて離れなかった。ありがとね、と呟いたら洋平は空いてる方の手で私の髪を撫でた。顔はいつも通りの不愛想なのに手つきだけはやけに優しい。なんだかそれがおかしくて私は吹き出してしまったが、洋平は少し口をへの字に曲げただけでなにも言ってこない。

「早くその怪我治せ」
「わかってるよ……」
「そんなんじゃ俺の好きにできねえだろ」
「いや……元気なときでも普通に嫌なんだけど」
「うるせえ」

 口答えするなとばかり、唇を重ねられる。ただし深いものではなく触れたと思った瞬間、すぐに離れていった。結局自分の好き勝手してるじゃん。まあ向こうはもっとあんなことやこんなことをしたいのかもしれないけど、私自身はこういう、軽いスキンシップで十分だ。……とか言ったらまた舌打ちされそうだな。顔を離した洋平がこちらをじっと見つめていて、ただそれだけなのに顔に熱が集まっていく。こういう恋人みたいな雰囲気は少し苦手だ。気恥ずかしくなって目を逸らすと洋平が笑った気配を感じて視線を戻す。彼の顔には微笑が浮かんでいた。よく見る薄笑いではなくて、私は呆気にとられる。そんな顔できたんだ、などと失礼なことを口走りそうになり私は慌てて口を噤んだ。

「なんだよ、見惚れてんのか?」
「そんなわけないでしょ……自惚れんな」
「そんなわけないってなんだよ。見惚れろよ」
「無茶言わないでよ」

 と、直後に足音が病室へ近づいてくる。チッと舌を打った洋平が繋いでいた手を離して前方にあるドアを見つめた。軽やかな足音がドアの前で一瞬止まってコンコン、とノックされたあと、白衣の看護婦さんがなにかいろいろな器具を手に入ってきた。……点滴か。私は点滴が苦手だ。外部から異物を注入されている感がなんとも気持ち悪い。わかりやすく顔を顰めた私に看護婦さんも苦笑している。

「すぐ終わるから、少し我慢してね」
「……はーい」

 テキパキと慣れた手つきでささっと準備された注射針で腕をちくりと刺された。いざ刺されればどうってことないのだけれど、この瞬間の恐怖は計り知れない。私の憂鬱など知りもせず、白衣の天使は薬剤の入ったバックを吊るして洋平の方をくるっと振り向く。

「じゃあ、なにかあったら呼んでくださいね」

 洋平は大人しく「はい」と呟いた。どうして私じゃなくて洋平に言うのだろう……。颯爽と病室を出て行く看護婦さんの背中を見送りながら、そんなささやかな疑問が浮かぶ。洋平も洋平でなにも言わずに頭を下げていた。それでいいのか、洋平。その時ふと、ひとつの答えが頭に浮かんだ。

「もしかして……ずっとここに居てくれてたの?」
「他のやつに任せられるかよ」
「やっぱり、嫉妬してるじゃん」
「……そうさせるお前が悪い」
「とんでもない責任転嫁……」

 でもそうか、寝ている間もずっと付き添ってくれていたのかと嬉しくなって、私は小さく笑った。知らないうちに病院内では当たり前の光景になっているのかもしれない。ちょっと恥ずかしい気もするけど。洋平の手が私の手に重ねられ、再び体温が交わった。この手はいつも私を助けてくれる。戦場では私の命を、平時には心を。彼をこんなに頼もしく思ったのはいつ頃からだっただろう。洋平の喉元に視線を固定させながらぼんやり考えていたがまとまらないうちに再び眠気に襲われる。なんだか最近寝てばかりいる気がする。なんとなくこの時間が惜しくて瞼が下りるたびに抵抗を試みるが、洋平からの「寝てろよ。ここにいてやるから」という台詞でふと力が抜けて、私は返事をする前に夢の中へと落ちてしまった。

 心地よい微睡みの中、私は自身の体がどこかへ飛んで行ってしまうのを感じた。洋平の手が遠ざかる。……いや、遠ざかっているのは私かもしれない。さきほどまで感じていた体温を探して両手を彷徨わせても、虚しく空を切るだけだった。この恐ろしくも懐かしい浮遊感に逆らえないことを私は理解している。だから無駄な抵抗をやめて、なにも見えない暗晦で洋平を思い浮かべた。

「大丈夫、私は必ずここに戻ってくるから。待ってて」
今日もまた星がおちる::ハイネケンの顛末