かさねのなかをつっぱしる5

 奉天。この地名を聞いてピンとくる現代人はどれくらいいるのだろうか。少なくとも私にはさっぱりわからないが、歴史の教科書にはおそらく見ることができるはずだ。先日の旅順要塞からは直線距離で約400キロらしい。それをよく徒歩で行軍してきたものだと自分で自分を褒めてやりたい。電車が恋しい。こちらにも鉄道はあるけれど、私たちのような一兵卒が乗る機会などそう巡ってくるはずもなく、乗車できるとしたらきっと終戦後、本土へ帰るときになるだろう。
 兵卒の間では「もうすぐ戦が終わる」という噂が囁かれていた。近代日本史をざっくりとしか把握していない私には、日露戦争がいつ終わるのかもわからなかった。ただ、ひとつ言えるのは戦勝ムードとは程遠いもののたしかに終わりの気配は広がりつつあるということだ。良くも悪くも、あの旅順要塞の陥落が大きいだろう。終わる、というよりも終わらせたいという大本営の意向が強い気がしてならないけれど、少ない物資で持久戦を強いられる私たちにとっては終わるでも終わらせるでも大差なかった。
 頭上を見上げると、相変わらずくすんだ満州の空が私を包んでいた。旅順、大連、遼陽、奉天。それがこの世界で覚えた地名である。戦争が終われば二度とこの地を踏むことはないかもしれない。機会があったとしても、それは私の知るものではないだろう。
 ロシア軍を包囲するため私たち第3軍は北上し、そこで再び陣地を築く。土を袋に詰め、それを積み重ねる。原始的ともいえる気がするが、現代でも使われていることを考えれば効果はばかにできない。そんな、自分と仲間の命を守るかもしれない土嚢を作るのが本日の作業だった。

「二階堂、もっと袋を持ってこい」
「はい」

 背後で同様にせっせと土嚢作りに励んでいた洋平は、尾形さんの命令で袋を取りに走っていく。別によくある上司部下のやり取りなのだけれど、私にはつっかかってばかりの洋平がこうも大人しく従っているのはなんだか不思議な気分だ。ただし影で「クソ尾形」と言っているのを以前聞いてしまったので、内心毒づいている可能性もゼロではない。

「おい。あれはどっちの二階堂だ?」
「……さあ……たぶん、二階堂洋平じゃないですかね」

 何故私に聞くのか。怪訝な顔で返せば、尾形さんの口角が上がってちらりと歯を見せた。尾形さんは今でもちょっと苦手だ。口数が少なくてなにを考えているのかよくわからないのが原因だろうけど、二階堂から度々悪口を聞かされてきたというのもその一端な気がする。

「お前、月島軍曹とも随分親しいみたいだな?」
「……そんなことはないと思いますけど……」
「嘘をつけ。よく二人きりで話し込んでるじゃねえか。お前も悪い女だな?二階堂だけじゃなく月島軍曹まで誑かしてんのか」
「……は?」

 よからぬ勘違いをされているとすぐに気づいた。どうやら彼の中での私は2人……いや3人の男を手玉に取る悪女になっているらしい。それは鶴見中尉の命令で、私の様子を見に来てくれているだけです。と、尾形さんに言って良いものかわからず私は口を噤んだ。そうすると余計誤解されそうでもあるけど、もし彼がタイムスリップのことを知らないならいろいろと面倒になってしまう。というか、普通に考えてあの月島さんが私みたいなのに弄ばれるとかあり得ないでしょ。などと言ったところできっと尾形さんには暖簾に腕押しだろう。彼にとってそれが真実かなど些末なことなのだ。ただ二階堂だけならまだしも、月島軍曹にまで迷惑がかかるのは少し気が引ける。

「月島軍曹にはいろいろとお世話になってるんです。そんな言い方はやめてください」
「……お前が鶴見中尉や月島軍曹となにか企んでいるのは知っている」
「尾形さん、それは深読みしすぎです」
「なにもないってなら、こんな最前線に女なんか入れたりしないだろ」

 やっぱり尾形さんはなにも知らされていないのだ、と私はその発言で確信した。私がここに居るのは、タイムスリップしたからだ。一兵卒として戦争に参加しているのは、元の世界へもこの世界の内地へも帰る手段がないからだ。鶴見さんの方に思惑がないとはいえないが、その大元は私の身の保護である。……これも企みということになるのだろうか。たぶん尾形さんの考えているようなこととは違う気もするけど。

「中尉殿は芝居がお上手だからな。お前も利用されてるんじゃないのか?」
「……そうだったとしても、今は鶴見さんについていくしかありませんので」

 私自身、鶴見さんの態度を見て芝居がかっているなどと思ったことはなかった。良くも悪くも彼は本音を語っている。少なくとも、私に対しては。それにこんな戦場のど真ん中で解き放たれても困る、というのが正直なところだ。私と尾形さんは作業も忘れてしばらくにらみ合った。いや、尾形さんは面白そうにニヤニヤしていたけど、私の方は尾形さんの口車に乗らないよう虚勢を張るので精いっぱいだった。

「尾形上等兵殿」

 戻ってきた洋平が空気も読まず私たちに割り込んできた。だがこの時だけはグッジョブと言わざるを得ない。私は内心ほっとして息を吐く。いつの間にか力が入っていた体を弛緩させ、さりげなく作業に戻ると、尾形さんも何事もなかったかのように止まっていた手を動かし始めた。やっぱり私は彼にからかわれただけらしい。
 そのあとは黙々と作業に没頭していた。頭をからっぽにして手だけを動かせるというのは精神的にもかなり楽だ。この生活にも大分慣れてきたのか、余計なことに頭を悩ませる時間も減った。その代わり脳内を占めるのは戦争が終わったあとの問題である。

「鶴見中尉ッ!」

 寒空に怒声が響く。振り向くと月島軍曹が鶴見さんに殴りかかっていた。いつも冷静な月島軍曹があんなに感情を曝け出すなんて、一体なにがあったのだろう。私を含め、その場にいた大多数は唖然と二人を見守る。少し距離はあるものの、「なんであの子の骨が」「あの髪の毛は」など断片的に聞こえてくる。いつの間にか隣に並んでいた洋平に「なんのこと?」と耳打ちしてみても肩を竦めるだけだった。やがて月島軍曹を止めようとしていた周囲の男たちが揃ってこちらへ向かってきた。高く積み上げられた土嚢のそばには鶴見さんと月島軍曹の二人が残っている。谷垣さんになにがあったのかと尋ねてみても首を振るばかりだ。結局、事態を把握している者はこの場には誰もいないらしい。

「月島軍曹って、怒ると怖いんだね……」
「普段無口なやつほど、って言うしな」
「……大丈夫かなあ」
「大丈夫もなにも、俺たちになにができんだよ。お前、あの二人に割り込んで仲裁でもしてくるか?」
「……そ、それは無理だけど……」

 洋平のくせに正論だ。ぐうの音も出ない私は尻切れトンボになった。

「――おい、」

 なに?と言う前に、私の首根っこがぐいっと引っ張られ、地面に投げ飛ばされる。

「いったぁ……なにす」
「伏せろ!」

 叫ぶのとほとんど同時に洋平が私の上へ被さった。直後、大きな爆発……いや、敵の砲弾がそこかしこに降り注いだ。「塹壕に入れ!」と誰かが叫ぶ。

「立てるか?」
「う、ん」

 心臓がどくどくと激しく脈打っていた。束の間忘れていた戦争の感覚が蘇る。言葉とは裏腹に私の膝はがくがくするばかりで全然進まない。チッ、と舌を打った洋平が私を抱き上げた。

「よ、洋平!いいよ、私……大丈夫だから先に行って!」
「馬鹿言うな!お前が死んだら……」

 洋平はそこで言葉を切り、塹壕へ走る。間一髪、塹壕へ飛び込んだところで数秒前まで私たちの居た付近に砲弾が落下した。私と洋平は無意識に抱き合ったまま呆然とそれを見ていた。ひと一人を抱えて全力疾走した洋平は大きく肩で息をしている。

「……大丈夫?」
「……お前……もっと痩せろよ……重いんだよ……」
「はああああ!?洋平の鍛え方が足りないんじゃないの!?」
「お前ら、痴話げんかしてる場合か」
「してねえ!」
「してません!」

 呆れ顔の玉井さんにつっこまれ、洋平と同時に反論した。わあ、息ぴったり。……これじゃあ痴話げんかと誤解されても文句が言えないな。まあこの際痴話げんかかどうかは置いておくとして、揉めている場合じゃないことだけはたしかだ。鶴見さんと月島軍曹が大けがをしている、と塹壕の中がざわつき始めた。早く助けにいかないといけないのに、未だ砲弾は止まない。倒れこんだ二人はぴくりとも動かなくて、私を含めその場の全員息を呑むのがわかった。きっと同じように最悪の結末を想像しているのだろう。
 しばらくして敵の攻撃が止まるとみんなが一斉に塹壕から飛び出て二人のもとへ走る。どちらも重症だが意識ははっきりしているようだ。応急手当をされ、手際よく用意された担架に乗せられる様子を私はおろおろと見守っていたが、二階堂から「お前はここにいろ」と止められてしまい、遠ざかる集団を追いかけることは叶わなかった。膝の震えはまだ続いている。
リアリティをごみ箱へ::ハイネケンの顛末