かさねのなかをつっぱしる4
地獄のような旅順から生還できたと安堵したのは束の間で、今度は遼陽まで北上しろとの命令が下った。とんでもなく重たい背嚢に小銃を抱え、私は重い足取りで隊列に加わる。ちょっとでも遅れると後ろから小言が飛んでくるので、冗談でも足が痛いなどと愚痴を言える空気ではなかった。学生のときもこんなことがあったような。林間学校だかなんだかで、登山をさせられた記憶が蘇る。もちろんたかが学校行事なのでここまで辛かったわけではないのだけれど、当時の私は肩に食い込むリュックの肩紐と急な坂道に泣きそうになっていた。
そうやって元の時代を思い出していると少しは気が紛れ、気づけば休憩の時間である。私は重たい重たい小銃と背嚢をよっこらせと降ろした。肩が痛いを通り越してもう感覚がない。痺れたようにじくじくと痛む両肩の血流を戻すようにやんわりと揉む。できれば靴も脱ぎ捨ててしまいたい気分だが、おそらく短時間ですぐ出発になるだろうと見越して我慢した。
「、大丈夫か」
「月島さん」
「……軍曹と呼べ」
「失礼しました、月島軍曹殿」
立ち上がってぴっと敬礼してみたが肘の角度にダメ出しをされてしまった。月島さんとまともに話すのは旅順攻撃の前以来だ。なにか困りごとがあれば遠慮なく言えと言われてはいたものの、実際には月島さんが多忙すぎて話どころか姿も見当たらない有様で機会を逃していたのだ。それに私の方も教練やらなんやらで忙しかったし……一夜漬けでなんとか形にした敬礼も、プロの目から見ればまだまだらしい。
「少し話をしてもいいか」
もちろん!と満面の笑みで頷けば、月島さんは僅かに苦笑した。おや?と思っているうちに月島さんは「ついてこい」と後ろを向いて歩き出した。真顔意外の表情を初めて見た気がする。……いや、2回目だったかな?と記憶を探ってみたが、残念ながら思い出せなかった。首を傾げているうちに月島さんはどんどん離れていく。私は隣に居た兵卒に荷物を預け、あわてて月島さんの後を追った。月島さんは小柄な方だが、歩くのは速い。気づけば彼はもう休憩を取る兵卒たちの群れから外れた場所を歩いていた。それを小走りで追いかけると待っていた月島さんに岩の椅子を勧められる。
「これは鶴見中尉からだ」
月島さんから渡された小さな包みを開けると、氷砂糖がたんまりと詰まっていた。
「良いんですか?」
「ああ。もらっておけ」
「では、ありがたく」
包みを大仰に拝んでから懐に入れる。甘いものは久しぶりだった。旅順参加前に偉い人から配られた金平糖が、私が食べた最後の甘味である。ちなみに誰かが隊長殿と言っていただけで名前まではわからない。鶴見さんって優しいんだなあ、なんて思っていたら月島さんが「その代わり」と続けた。……あ、やっぱり交換条件を出してくるか。
「教えてほしいことがある」
「なんでしょう」
「……」
「そ、そんなに言いにくいことですか?」
「……俺たちはこの戦争に勝つのか」
「……それは、鶴見さんからの質問ということでよろしいですか」
「いや……俺個人のものだ」
このやり取りも何度かした記憶があった。そりゃあ、気になるだろう。これまでの戦闘では日本軍が勝ちを得ているとはいえ、そのほとんどが辛勝だった。さらに私たちのような現場の一兵卒には勝利の実感も薄い。寝食を共にした仲間が日ごとに減っていくのだ。第七師団の兵も目に見えてごっそりと数を減らしている。代償が大きすぎて素直に喜べないといのが正直なところである。私みたいなモグリの部外者ですらそう思うのだから正規の兵隊さんなんか猶更だろう。月島さんも親しい人を亡くしたんですか。なんてことは当然聞けなくて、私は俯いた。この質問の答えは毎回決まっている。
「勝ちますよ、日本は」
もちろんこれは史実だが、未来を告げるというよりも士気を下げたくないという意味合いの方が大きいかもしれない。自軍の負けを望む人間などいないはずだ。そんなある種の固定観念を持って答えるが、月島さんの表情は晴れない。もとより彼は表情豊かな方ではないからこれが平常運転なのだろうけど、一段階暗い影を落としたように感じられた。なんとなくそう思っただけで確証はない。
「そうか。ありがとう」
「私が知っていることはこれくらいですし。それに私の方こそ鶴見さんと月島さんにはお世話になってますからね」
「……手がかりはまだ見つかっていないらしい」
「そう……ですよね、そりゃ。仕方ないですよ。私だってどうやってここに来たのかわからないんですから」
「すまん」
やたらと申し訳なさそうに頭を下げられ、月島さんが悪いわけじゃないのにと私は困惑した。私が未来の質問に答える代わりに、鶴見さんには元の時代へ帰る方法を探ってもらうという契約を交わしている。もしも未来を変えてしまうようなことになったらと心配していた私に、鶴見さんは「そのつもりはない」とはっきり言った。彼の言葉をどの程度信用していいのか、実はまだ判断できずにいる。ただ約束してしまった手前嘘も吐けないのでかなりぼかしたことばかり答えていた。戦時中の今はそれでなんとか誤魔化せているけれど、終わったあとはどうなるだろう。ここしばらくはそこまで頭が回らずにいた。――果たしてそんな未来が自分に訪れるのか。投げやりな疑念が浮かんでは消え、そしてまた元の場所へと戻ってくるのだ。
「その包みを開けるのは一人だけの時にしておけ」
「どうしてですか?」
「……誰かに盗られても知らんぞ」
嗜好品は貴重だから、ということで合ってるのかあまり自信はなかった。なにせ私の居た時代では考えもつかないのだから。一つのお菓子を巡って暴動が起きる……なーんてことはないと思うけれど、余計な諍いになりそうなことはしないに限る。ごくりと唾を飲み込んで頷けば、月島さんも同様にゆっくりと頷いた。
「なにかあれば俺に言え。いいな」
「そんなこと言って……月島さん、じゃなくて軍曹殿、いつもお忙しそうではありませんか。お顔を見たのも数日ぶりですよ」
「そうだったか?いや、そうかもしれんな……」
月島さんは口に手を当てて思い出すように空を見た。糖分が本当に必要なのは月島さんではないだろうか。なんとなく哀れみを感じてその包み紙を開き、そっと目の前に差し出す。「頂く」と呟いて一口サイズの氷砂糖をつまんだ月島さんがそれを口に入れるのを見届けてから、自分も一つ手に取って口の中へ放り込む。甘い。いや砂糖だからな、当たり前なんだけど。
「……月島さん。私が元の世界に帰りたくないって言ったらどうします?」
「約束を反故にしたい……のか?」
「いや、そうじゃなくて!違うんです……」
「理由を聞いてもいいか」
「……やりたいことがあって……それを成し遂げないと、私帰れないんです」
「成し遂げたら、お前は帰れるようになるんだな?」
「……わかりません」
「。俺の意見を言う」
「は、はい」
「故郷というのはそう簡単に捨てられるものじゃない。もう帰らないと決心しても、過ごしてきた景色は自分の中に残り続ける。こびりついて離れないんだ。それにお前の居た『未来』は平和だったんだろう?だったら猶更、慎重になった方が良い。戦争が終わっても混乱は続くだろうからな。内地へ戻っても平穏に過ごせるかはわからん。お前は本当に今までの暮らしを手放す覚悟があるのか?」
月島さんにも同じような経験があるのだろうか。いくら頑張ってもその瞳の底は読み取れなかった。彼の双眸に落ちる陰りは、もしかしたら二度と帰ることの叶わない故郷を想って後悔しているのかもしれない。もちろん私だって帰りたくないわけじゃない。でも、帰れないのだ。私は堂々巡りを繰り返す。ぐるぐると回ってまた戻ってくる。ただしそこはもう別の場所だった。
「……すまない、少し喋りすぎたな。どちらにせよまだ時間はある。帰る方法が見つかるまで、結論は出さない方がいい」
私の肩に優しく手を置いた月島さんは帽子を被り直して元来た方へ戻っていった。次にここへ戻ってきたとき、私は同じ気持ちを抱くだろうか。
奇跡みたいな灰色の午後::ハイネケンの顛末