かさねのなかをつっぱしる2

 旅順の冬は想像以上に厳しい。朝も昼も夜も、その寒さが和らぐ瞬間は一秒たりともない。ましてやこんな野外で、防寒具や暖房器具も満足に使えないような場所で何時間もじっとしていなければならないというのは精神的にもくるものがある。戦況は膠着していた。敵にほど近い防御陣地の中で待機を余儀なくされた私たちは寒風に耐えながら次の命令を待つ。ただ待つだけというのはどうにも落ち着かなくて、余計なことばかり考えてしまう。そのせいで気持ちばかりが逸るのだ。「そんなに落ち着かないなら小銃の手入れでもしたらどうだ」と先輩兵のアドバイスを受けた私はさっそく一つ一つ指示通りに部品を外し、汚れを拭い、油を差していく。本来なら入営直後に教育されるという兵器の手入れも私には初めての経験だ。なんとか作業を終えた私は掌にはーっと息を吹きかけてこすり合わせた。これって実際、あんまり温かくはならないよなあなどと今更なことを考えながら再び手袋を履き直す。あともうしばらくはここで待機していなければならないだろう。このままでは凍死してしまいそうだ。ただしここを出るときは、敵の陣地へ突撃するときである。この寒さに耐えるのとどちらがマシかな……なんて、比べるまでもないのだけれど。ひと段落ついてふと顔を上げると、隣で私の作業を見守っていたらしい二階堂と目が合う。

「終わったのか?」
「うん」
「じゃあもっとこっち寄れ、

 なんの躊躇いも見せず腰に伸びた腕がおなかに巻き付いたかと思うとあっという間に二階堂の体とくっついた。拒否する暇もないしおそらく拒否権自体存在しない。私は今現在、二階堂兄弟に両脇を固められた状態で体育座りをしている。その右隣の二階堂が言ったのを合図にして左側の二階堂もこちらに体を寄せて更にきつく私を挟み込んだ。

「え、ちょっとなに?狭いんだけど。っていうかもはや痛い。圧死しそう」
「寒いんだろ」
「うん」
「俺も寒い」

 この状況で寒くないと言う人が居たらそっちの方が心配だ。もしくはただの強がりか。まあ要するに暖を取りたいのだろうことはすぐにわかった。右側の二階堂が私たち3人の上から毛布を被せると冷えきった体は寒風から遮られる。

「良かったなあ、両手に花じゃないか」

 目の前で胡坐をかく先輩兵がからかってきた。は……な……?妖怪の間違いでは?うっかり零れそうになった台詞をごくんと飲み込む。そんなこと言ったらこの毛布は瞬時にはぎ取られるだろう。窮屈な状況とはいえ命には代えられない。私は口元を引き攣らせて誤魔化した。それはともかく、温かいのはたしかだ。不本意ではあるけれど、二階堂兄弟に挟まれ毛布まで被っているおかげで風はほとんど当たらなくなっている。これが私を気遣ってのことだとしたら私は彼らに対する評価を改めなければならない。ちら、と右隣の二階堂を見上げたら怪訝そうな顔をされた。……やっぱり考えすぎか。知らん顔して毛布を掛けた膝へと突っ伏す。冷たい金属に触れてかじかんでいた指先に体温が戻り始めたのか、痺れにも似た感覚が伝わってくる。

「暖かくなってきただろ?」
「うん……ありがと」
「お前に礼を言われるようなことはしてない」
「……まあいいけど」
「寝ててもいいぞ。敵が攻撃してきたら起こしてやるから」
「その前に直撃されて永眠ってこともあるかもしれねえけどな」
「凍死の方が早いかもしれんぞ、洋平」
「いや笑えないよ!?」

 なんだそのブラックジョークは。微妙にリアルで反応に困る。珍しく声を上げて笑う二階堂兄弟も目が笑っていなかった。だから怖いってば。仮眠を取れるものならぜひともそうしたいところだが、たしかに二階堂の言う通りこの寒さでは敵の銃弾を受けて死亡以前に凍死する可能性がある。なにかもっと気を紛らわせられるようなことはないだろうか。

「……ねえ、なにか面白い話してよ」
「怖い話でも聞くか?」
「やめてよ!面白い話って言ってるじゃん!」
「でもその方が眠れなくなって丁度いいんじゃねえの?」
「そう……かもしれないけど余計寒くなりそう」
が怖がるのを見たら俺たちは暖まるけどな」
「嫌な暖の取り方だな……」

 私はそれ以上言い返す気も失せて盛大なため息を吐く。

「内地に帰ったら、化け物茶屋でも行くか」
「え、なにそれ」
「そんなもの、北海道にあるのか?」

 うわあ、無視だ。まあ話の流れと名前から現代でいうお化け屋敷のことだろうと見当はつくけれども。昔、時代劇でお化け屋敷的な施設で若い娘が失踪する、という話を観たことがあった。「お化け屋敷」という名称だったかは覚えていないが、内装は古典的なお化け屋敷だった。実はそこは人攫いのための施設で、中に入っていった娘たちが忽然と姿を消してしまう……というストーリーである。二重の意味で恐怖だが、残念なことに結末は覚えていない。ともかくお化け屋敷の歴史は江戸時代にまで遡れるらしい。ただ、この兄弟がお化け屋敷なんか入っても逆にお化け役を驚かせるという反則的な楽しみ方しかできなさそうではある。これは私の予想だが、彼らはお化け屋敷で悪戯して捧腹絶倒するタイプだと思う。……それはそれでみてみたい気もする。

「……なら、墓地でも散歩するか。それなら金もいらねえし」
「面白半分にそういうところ行くのは良くないよ~、浩平く~ん」
「俺は洋平だ」

 私の右に座っている二階堂が不機嫌そうに呟いた。どっちだと思うかとクイズを出して外せば面白がるくせに、こうやって何気ない会話で間違えば不服そうにする。当ててほしいのか外してほしいのかそれこそどっちなんだ。ごめんごめんと帽子の上から頭を撫でたら「さわんな」と払い除けられた。

「ちょっと浩平、おたくの弟、酷くない?」
「洋平はお前と違って繊細なんだよ」
「そうは見えな……ごめん、なんでもない」

 右側から圧を感じ、言いかけた言葉を取り消す。洋平はご機嫌斜めらしくすごい剣幕だったので浩平の方へさりげなく身を寄せると、なにを思ったのか浩平が私の肩を抱いた。寒いからか?と解釈した私はなすがまま浩平と密着する。

「おい、ずるいぞ浩平」
「なにがだよ。洋平はに触られたくないんだろ?」
「……そんなことは言ってねえ」
「さっき嫌がってたくせにー!ねえ、浩平?」

 珍しく浩平と結託して煽りまくると、しばらくの沈黙のあとで洋平が私と浩平に抱き着いてきた。どうやら仲間に入れてほしいらしい。素直に言えばいいのに……私が苦笑いすると、浩平が「お前が構ってやらねえから拗ねてんだ」と耳打ちする。なんだその申し訳程度の弟属性は。今日の浩平は少しだけお兄ちゃんぽくて、洋平は少しだけ弟だ。まさかこの兄弟を見て和む日がくるとは思わなかった。相変わらずのサンドイッチ状態は苦しいことこの上ないものの、珍場面を見ることができたという点では案外悪くないかもしれない。

「モテる女はつらいなあ、

 こんなモテ期は嫌だ。咄嗟にそう思った私はニヤニヤとこちらを見守る先輩兵に向かって再び引き攣った笑顔を向けた。
天国はどこか、楽園はまだか::ハイネケンの顛末