かさねのなかをつっぱしる1
カラカラに乾燥した喉が痛い。連日悪道を走り続けているせいで足が痛い。頭が割れそうに痛い。いっそ今すぐ倒れこんで気絶してしまいたい衝動に駆られながら、目の前に広がる紺色を追いかける。外から見れば私もその塊を構成する一人にすぎないにも関わらず、やけに他人事みたいに思う。どのみちここで立ち止まれば後ろから走ってくる同胞たちに踏みつぶされてしまうだけで選択肢など残されていなかった。走らなきゃ、と頭の中で声がしていた。紺色の集団は赤と白の軍旗を掲げた旗手を囲んで坂を駆け上がり、稜線上でチカチカと不規則に煌めく無数の発砲炎に吸い寄せられていく。自分は一体なにをしていたんだっけ?などと場違いにもほどがある思考に陥りながら機械的に走り続けていたら思いがけず大きな岩に足を滑らせて転びそうになった。体が傾いたとき、誰かが私の腕を掴んだ。
「止まるな!」
二階堂が私を引きずるようにして進む。いつも怖いくらいに無表情な彼らだけど、一応こういうときは緊張感も出せるんだなあと、私はのんきに観察した。この二階堂はどっちだろう。二人の特徴ともいえる尖った鼻筋を横から見つめるが、その違いは今でもわからない。一卵性双生児ってすごいな。以前見分け方を聞いてみたら黒子の位置がどうのこうのとは言っていたものの服を脱がないとわからないらしく、それじゃ意味ないじゃん、と落胆したことを思い出す。いつか彼らを呼び分けられる日は来るだろうか。
先頭の方はすでに敵と交戦中でそこかしこに銃弾の雨が降り注いだ。頭上にはもっと大きな砲弾が通過し、ちょうど両軍の境目へと着弾する。二十八糎榴弾砲。元はイタリア式の対艦用の海岸砲らしい。東京湾要塞で静かに日本国を守っていたその巨砲が今、歩兵に向かって次々と落下していく。耳がばかになったみたいにキンキンしていた。走り疲れたのとはまた違う理由で私の心臓はどくどくと早鐘を打つ。何度も経験したはずなのにいつも初めてのような緊張感に襲われる。きっとこれからも慣れることはないだろう。殺られる前に殺れ。そんな使い古された台詞が頭を過り、これって元ネタなんだっけ?などとどうでも良いことを考え出す。別に今思い出す必要などないのに私の頭はそれをやめなかった。いや、今からやるべきことを直視したくないだけの現実逃避かもしれない。
「」
周囲はこれだけ喧しいのにどうしてか彼の声はすんなりと耳まで届いて、隣を見上げる。眉間にしわを寄せた二階堂と目が合った。
「躊躇したら殺られるぞ」
「……うん」
「俺は助けねえからな」
「……大丈夫、自分でなんとかするから」
そうは言いつつ体の震えは止まってくれなかった。重たい小銃を長時間持っていたせいなのか、走りすぎたせいなのか、それとも恐怖からなのか、自分でもわからない。恐怖で足が竦んでいるところを二階堂に何度も助けられたのを覚えている。ロシア兵の血を頭からかぶって腰を抜かしたせいで盛大にばかにされてしまったことも記憶に新しかった。今思い返しても恥ずかしい。でも皮肉なことにそれは二階堂がなんだかんだで私を見ていてくれるということでもある。私だってそのはずなのにいつも助けられるのは私の方だ。あの時は「少しでもお前に恩を売っておかないとな」などとしたり顔をされたのでむかついて脛に蹴りを入れたけど内心とても嬉しかった。でも今度こそは、と私は一人決意する。
二階堂の手を離れ、私は自軍と敵軍がごちゃごちゃと団子のように固まっているところへ突っ込んだ。敵なのか味方なのか、それとも両方なのか、雄叫びはどんどん大きくなっていく。声を出す、というのは自身を奮い立たせるのにとても有効な手段らしい。それでも私は極度の緊張から大声など出したくても出せない状態でやっと絞り出したか細い唸りは周囲にかき消されてたちまちわからなくなった。自分は今たしかに存在しているのだろうかと急に不安になり、さきほどまで隣にいたはずの二階堂を探すが、彼ももう紺色の中に溶けてしまっていた。彼らにもひとりひとり名前があり故郷があり大切な人がいるはずだ。それが今の私にはただの「兵士」にしか見えなくなってしまっている。ここで死んだら私もそうなってしまうのだろう。自分のアイデンティティが揺らぐのを感じて一度ぎゅっと目を瞑った。運動神経が絶望的になくたって腕が震えて銃の照準が定まらなくたって私は諦めない。
***
「死んだのか?」
二階堂の声に起こされて目を開ける。灰色の空を背景に、血だらけの二階堂が私を覗き込んでいた。
「お前も運が良いな」
「……お互い様でしょ」
「すぐ死ぬと思ってたけど案外しぶといな、は」
「二階堂だって映画では真っ先に死ぬタイプだからね」
「は?」
「なんでもない」
ちょっと疲れた様子の二階堂だがこんな時でも皮肉を忘れないのは最早性分だろう。やれやれ、と思いつつ負けじと応戦する私もまた同類である。こんなくだらないやり取りができるのも命あってのことなんだよなあ、と私は普段微塵も感じない命の有難みを噛み締めた。なんだか何日も顔を合わせていなかったような感覚だった。実際にはたかが数時間程度のはずなのに。無意識のうちにほっとしていたことに気が付いて私は一人悔しがった。違う違う、今のはなしだ。
どうやら気を失っている間に戦闘は終わっていたらしい。というのは私が偶然仰向けに倒れているのを発見した二階堂に無理やり起こされて知った。周りは文字通り死体の山が出来上がっている。まだそれほど時間は経っていないのか、至る所で薄っすらと硝煙が立ち上っていた。あの煙の向こうにはまたおびただしい数の死体が転がっているのだろう。その硝煙の臭いと鉄臭さが融合してなんとも不快な臭気が漂っていた。鼻血を出したときとは比べ物にならない強烈な血の匂いは容赦なく鼻腔を通過して、胃を収縮させる。
「怪我は」
「……わかんない」
「はァ?自分のことだろうが」
「え~……じゃあしてない」
「じゃあってなんだ、じゃあって」
ため息を吐いた二階堂が私の両脇に手を突っ込んでひょいっと持ち上げた。
「ほれ、高い高い」
「ちょっと、やめてよ!」
子供みたいに2、3回ほど上下させられたあとで私の足は無事地面に着地する。この様子を見るに少なくとも二階堂の方に大した怪我はなさそうだ。安心した私は彼の顔にこびりついた土と血の混じった汚れを袖で拭い落とす。
「きったないなあ。顔真っ黒だよ」
「お前もな」
すぐに言い返され、私は肩を竦めた。ばちんばちんと音がするくらい強く頭を叩かれて仕返しに脛を蹴る。これまた悔しいことに身長では敵わないし、二階堂は一見ほっそりしている癖に意外と筋肉質だから下手にパンチを入れたらこちらが負傷する危険があるので足がねらい目なのだ。しばらくそうやってじゃれあっていたらふと二階堂は私の頭上に目を止めた。
「軍帽、どうした」
「……どっか行っちゃった」
「軍帽はどこにも行かねえよ。お前が失くしたんだろ」
二階堂はその辺に落ちている帽子の一つを拾い上げて、軽く土を払った。裏側をじっと見つめてから、それを私の頭に被せる。
「誰の?」
「知らねー」
そんなゆるい感じでいいのかと呆れながら帽子を取って名前を確認したが、汚れが酷すぎて読み取れなかった。まあどうせ、自分のはもう見つからないだろうし、あまり気にしないでおこう。
「うわッ!」
帽子に気を取られていたらなにかに躓いて、私は盛大にすっころんだ。手を付いたのは死体の上だった。私たちより少し明るい、緑がかった青の軍服。ロシア兵のものだ。顔の右半分が崩壊した男は片目で虚ろに私の後方を見ている。「ひっ」と短く悲鳴を上げて後ずさりするとまた別の死体にぶつかった。着衣にはどす黒い血が混ざりあい、濃紺からまた別の色に変色している。腹部の損傷が激しい。幸いうつ伏せで顔は見えなかったが彼の最期は簡単に想像がついた。先ほどまで落ち着いていた心臓がまたどくどくと、早まっていく。胃がものすごい強さで収縮して内容物を押し上げていき、やがて私は酸っぱい液体だけを吐き出した。私の胃は尚も吐き出せと急き立てる。苦しさで涙目になっている私の背中にそっと手が当てられ、悪心が治まるまでゆっくりと背中を擦っていた。
「歩けるか?」
頷いてみても私の足はいうことを聞かなくて二階堂の腕にただしがみつくことしかできない。また笑われるかも……などと心配していたら二階堂が私の体を持ち上げた。そのまま肩に担がれる。
「ちょっと……!」
「歩けねぇんだろ」
「そうだけど!これはちょっと……」
「文句言うな。落とすぞ」
「せめておんぶにしてよー!」
「それが人に物を頼む態度か?」
「……お、お願いします」
小声で言ったらすぐに地面へ降ろされて、二階堂が私に背を向けてしゃがんだ。え……なんか素直すぎて逆に怖いんだけど。ちょっと引きながらそれを見守っていたらぎろりと睨まれる。気が変わらないうちに言うとおりにしておこう。遠慮がちに二階堂の両肩へと手を乗せてから体重をかける。おんぶなんて、何年振りだろう。言い出しっぺであるにも関わらずいざとなると恥ずかしさが半端なくて私はだんだんと後悔し始める。
「おい、もっとちゃんと掴まれよ。落ちるだろ」
「う、うん……でもなんか、この年でおんぶってちょっと照れる」
「……てめえがやれって言ったんだろうが。まじで落とすぞ」
「そ、そうだけど!そんな怒んないでよ!」
「怒ってねえ」
いつもより少し高い目線から、さきほどまで殺し合いをしていた山を眺める。本当に、生きているのが不思議なくらいの惨憺たる有様だった。またしても胃液がこみ上げるのを感じて二階堂の肩口に額を押し付ける。私は誰かを殺したのだろうか。持っていた銃剣には誰のものともわからない血液が付着していたものの、確証はない。死体になれば敵も味方もないんだなあと私は世の無常を感じながら、心の中で死者たちに手を合わせて黙祷を捧げる。
「あんまり見るな」
「……うん」
私の声は知らずに涙声になっていた。寒風の中でも二階堂の背中はほんのりと暖かい。私たちは生きている。たくさんの犠牲の上に生きている。
シザーハンズを掴んで見せて::ハイネケンの顛末