かさねのなかをつっぱしる10

「止まるな!」

 ぱちりと瞬きをした直後、私は紺色の軍団に囲まれて丘を走っていた。走っているというよりは走らされている、が正しいかもしれない。腕には二階堂の手が食い込み、握りつぶされるのではないかと思うほど強くしめつけられていた。その痛みでたちまち現実へと引き戻され、今何度目だったっけとぼんやり考える。ここに居るということは、どうやら前回の私も目的を果たすことはできなかったらしい。戦の最中にも関わらず私はのんきに二階堂の横顔を見上げて洋平、と呟いた。漸くわかった。彼は二階堂洋平だった。どうしてそう思ったのかは自分でもわからなくて、ただのカンと言ってしまえばそれまでだけど、何故か確信があった。残念ながら私の声は彼に届かなかったようで、というのも周囲には無数の砲声と軍靴の音が混ざり合っていたため、私自身も本当に声をだしたのだろうかと不安になるくらいだったので当然ではあるけど、その横顔は遂に私の方を見ることなくはぐれて、たちまち黒い塊と同化してしまう。大丈夫だ、洋平はまだ死なない。きっと私も死なない。だって、ずっとそうだったから。20回か、30回を超えたあたりで数えるのが馬鹿らしくなりやめてしまったが、これまで繰り返した中で私たちが戦死したことは一度もなかったことを思い出して自分を励ます。今回もきっと生き延びる。生き延びなきゃいけない。そして北海道に行って、二階堂と杉元さんの殺し合いを止めなきゃいけない。それが私の使命である、という絶対の自信を持って走り続けた。もう間もなく敵兵と衝突するはずだ。結局私たちは人を殺したのか、それだけは今でもわからなかった。何度も同じ戦場を繰り返してきたはずなのにどうしてかそこだけぽっかりと忘れている。心を守るために記憶を消去してしまったのか、本当に殺していないのか。でもそんなことはもうどうでもよかった。私が人を殺していようがいまいが戦争の結果は変わらず、何度も見たあの光景をまた繰り返すだけだ。人としてなにか大事なものを失くしたような気がした。それでも洋平が生きてさえくれればいい。どうして他人の人生なんかにここまでこだわるのか、なんて愚問である。洋平が死なない未来が訪れた時、私はようやくこの累から抜け出せるのだろう。




***


「君には私の部下としてこの戦争に参加してもらう」

 鶴見さんが淡々と告げた。

「わかりました」
「おや、随分すんなりと受け入れるんだね」
「……そうするしかないので」

 すんなりと受け入れたわけじゃない。むしろ最初の何回かは、とりわけタイムスリップした一番最初は死の恐怖とあまりの現実感のなさで思考が停止して言葉が出なかったほどだ。私はもとの時代に帰れず戦死するだろう。だって体育の成績なんて先生のお情けでギリギリ3を貰っていた程度だったし、武器なんかも包丁やカッターくらいしか持ったことがない。そんなザ・現代っ子の私が戦争に出て一体なにができるというのだろうか。鶴見さんはなにを考えているのだろう?胸中に渦巻く不満や怒りは決して口には出さない。出しても無駄だろうと思った。
 繰り返すトリガーがなんなのか、ずっと考えていた。私にはなにか心残りでもあるのだろうかと。あるとき脳裏にちらついたのは、はらわたを抜かれ虚ろに空をみつめるあの顔だった。何度も繰り返すうちに私は悟った。戦争を生きて帰還し、未来を変えることが「私」が求めるたったひとつの正解なのである。



***


「おい、死んでんのか?」

 土臭さ、火薬のような煙たさ、そして身を切るような寒さを感じながら私は覚醒した。つんつん、となにか棒状のもので強めに背中をつつかれる。当たり所が悪くうめき声を上げると、それは離れていった。

「……なんだ、生きてるのか」
「なんだろうなこいつ」
「誰か呼んでくるから拘束しておけ、洋平」
「わかった」

 同じ声が会話している。私には違いがわからなかった。内臓をつつかれ、けほ、とえずいている私をおそらく「洋平」と呼ばれていた方の男が足で転がして仰向けにする。なんて乱暴な。今度は自力で起き上がって男をじろりと睨んだ。青い軍服に身を包んだ、人形のように表情のない男。じゃりじゃりする掌と服を軽く払って立ち上がろうとすると足元がぐらついた。片足のヒールが折れている。お気に入りだったのに……と多少がっかりしながら、無残にも根本からヒールがぽきりと折れてしまった靴を見て嘆息した。目の前の男は無言で私の腕を掴み、持っていたひも状の布で両手をこれでもかというほどぎちぎちに縛り上げる。思わず苦痛の声を上げるが彼は全くお構いなしである。なんだこいつ。それよりもなんだここ。一面に広がる荒野、その空気は淀んでいる。自分でも意味がわからないが、なんとなく直感で「日本ではない」と思った。

「名前は」
「え……」
「日本語わからねえのか?」
「……ですけど」
「お前、間諜か?」
「はあ?」

 言葉の意味がわからず私は聞き返す。男は僅かに目を細めた。あ、私殺されるかも。隠しもしない殺気に命の危険を感じた。自分は今ありえないほど冷静だ。というよりもまだ事態を把握していないといった方が正しいのだが。男とにらみ合っているとやがて後方から数人の仲間がやってきた。

「不審な女を捕らえました」
「間諜かもしれません」

 私を放置してどんどん話が進んでいく。会話の流れからして、スパイかなにかだと思われているらしいと察する。スパイのことを間諜だなんて、随分と古めかしい言い方をするもんだ。状況を飲み込めないまま、気付けば私はひとつのテントに連れてこられていた。

「鶴見中尉殿。不審な女がうろついてました。敵側の間諜の可能性があります」

 遠雷が不気味に響いていた。その効果もあって、テントの男はより一層得体のしれないなにかに見えた。探るような視線が私の全身を這い回る。

「お嬢さん。随分変わった洋服を着ているね」

 鶴見さんは打って変わって優しい口調で囁いた。私は言っている意味がわからず口を閉ざしたまま、彼を見上げる。誰も声を出さない。ドーン、ドーンと時折聞こえるそれが遠雷ではないことに私はようやく気付いた。



***


 全てのファイルを閉じてパソコンの電源を落とす。片付いたわけではないが、今日やる必要のない作業は明日にしようがモットーな私は躊躇うことなく帰り支度を始めた。駅までの道すがら、夕飯に思いを馳せる。
 日は段々と短くなりつつあった。秋の空は好きだ。ひんやりとした冬の空気が混ざり街も空もどこか寂し気で、そして何故か懐かしい。学校の帰り道、そんなノスタルジーに浸りながら一人通学路を歩くのが好きだった。
 あの時の雰囲気とは程遠い都会のコンクリートの上をコツコツとヒールが鳴る。
 コートのポケットに入れた携帯電話が震え、ディスプレイを見た。着信だ。
 私は通話ボタンを押す。「危ない!」と上空から声が降ってきた。
 それが誰に向けられた警告なのかわからないまま、電話を耳に当て、何気なく空を見上げる。

 頭上には大きな鉄の塊が迫っていた。



***


 次に目を開けると、白い天井が視界に映った。ここはどこだろう。随分と長い夢を見ていたような気がする。昔のようで、つい数日前の夢。現実なのかすら曖昧な長くて遠い世界。起き上がろうとすると脇腹に鈍い痛みを感じて、少し前の出来事を思い出した。人の気配を感じて横のベッドに顔を向けると、見知った横顔が同じように横たわって目を閉じている。死んでいるのかと見紛う程顔色がないように見えるのは、室内が薄暗いせいだろうか。私は首から上だけを少し持ち上げて隣のベッドを覗き込み、彼がきちんと息をしているのかを確認する。真っ白で清潔な布団は規則的に上下していた。ああ、そうか。これは、私の知らない朝だ。悟った瞬間、目尻から熱い涙が流れて枕を濡らしていった。私は成し遂げたのだ。窓の外はどんどん白んでいき、どこか遠くから誰かの足音が聞こえだした。建物全体が目覚めようとしている。

「痛むのか」

 突然の声に私はびくりと肩を震わせる。ゆっくりと隣を向くと、洋平もこちらを見ていた。

「……なんでもない」
「泣いてただろ」
「気のせいだよ」
が悪いんだからな」
「なに」
「お前が首突っ込まなきゃ、そんな怪我しなかったんだよ」
「私、別に、後悔とかしてないよ」
「……変なやつ」
「洋平に言われたくない」
「俺のどこが変なのか言ってみろ」
「不死身の杉元さんを殺そうなんて考えるところ。案の定返り討ちにあってるし……ざまあないね」
「うるせぇ。お前も同じ目にあわせてやろうか」
「いや私は不死身じゃないからパス」
「俺だって不死身じゃねえよ」
「腹をかっぴらかれて死ななかったんだからもう不死身でいいんじゃない?」
「ただのまぐれだろうが……」
「運も実力のうちって言うじゃん」
「不死身は実力って言わねえよ」
「あ、でも不死身の二階堂って……ちょっと語呂悪いかな」
「人の話を聞け」

 口だけは達者だがその姿は痛々しく、傍からは強がりにしか聞こえない。ベッドに横たわる洋平はまさに死にかけである。複数の刺し傷で瀕死の重傷にも関わらず一命をとりとめた彼を不死身と呼ばずになんと呼べばいいのだろうか?憎き杉元さんと同じ異名が気に入らないらしく、洋平は苦虫を噛み潰したような表情をしながら天井を睨んでいた。重傷を負わされ、杉元さんにはまんまと逃げられ、さぞ悔しいだろう。だがこうなったのも自業自得感が否めないし、二階堂兄弟を煽ることができるまたとない機会なので私は思いっきりプークスクスと馬鹿にしてやることにする。そうしたら絞り出したみたいに「覚えとけよ……」と洋平からは聞いたことがないほど低い唸り声が響いたのでどこから声出してんのと驚愕すると同時に調子に乗りすぎたことを後悔することになった。が、こんな他愛ない会話ができるのも生きていたからこそである。ようやく目的を達成した私には新しい今日が待ち受けていた。そう思えば洋平の脅しもさほど気にならない。
 しかし、どこか達成感に満たされながらも、本当にこれでよかったのだろうか?という疑問が私の頭につきまとって離れなかった。世界は変わってしまった。それは本来私たちが向かっていた未来が変わることでもあり、未来を変えてしまえばその先の世界が更に変わってしまうことでもある。洋平一人の生き死にがこの未来にどう影響するのかなんて正直言ってあまり考えてはいなかったし、私のようなちっぽけな人間が推測することなんて不可能だろう。だから良いか悪いかはこの瞬間に判断できるものではないし、この先も事あるごとに不安と後悔に苛まれるかもしれない。その覚悟もできないまま、ただ自分の望む結果を手に入れたのは本当に正しかったのだろうか。私は急にその重さを自覚して背筋が寒くなった。
 急に黙りこくる私を訝しんでか、洋平が少しだけ眉間に皺を寄せた。洋平の顔を見ていたらそういった不安や恐怖みたいなものが解けていくような気がして、まあその時はその時だ、と自分に言い聞かせてのっそり起き上がる。

「おい、大丈夫かよ」
「洋平よりはね」

 洋平を助けるため、というよりも殺し合いを止めるため勢いで割り込んだ結果、図らずも洋平と同じところを怪我する羽目になった私は彼の隣のベッドに入院していた。お揃いだねなんて茶化してみても安定の無反応でただ冷ややかな視線が飛んできただけだったけど私的には満足である。包帯ぐるぐる巻きで寝たきりの洋平と違って、私は多少の痛みを我慢すれば動き回ることも可能だ。ほら、とベッドの縁に腰かけて精一杯元気アピールをしてみたが洋平は微妙な顔しか見せなかった。

「面倒ごとに首突っ込んで死にかけるなんてほんとに馬鹿だなお前」
「……それで心配してるつもりなの?」
「してねーよ。頭腐ってんのか」
「洋平」
「なんだよ」
「心配してくれてありがとね」
「……は?」
「助けないとか言ってたくせに、いつも助けてくれてありがと」

 ぽかん、とこちらを見つめる洋平を他所に、私は一人満足気に頷いた。ようやく言えた。これは今までの洋平たちに言えなかった台詞だ。

「……浩平と間違ってねえか」
「間違ってないよ。モツと一緒に記憶まで出ちゃったんじゃない?」
「んなわけあるか。だいたいお前、俺と浩平の見分けついてないだろ」
「わかるよ」
「どうせ当てずっぽうだろ」
「……そんなことないもん」
「わかったわかった、そういうことにしといてやる」
「洋平」
「…………なんだよ」

 煩わしそうにチッと舌打ちした洋平の顔を覗き込んで「好きだよ」と言ってみる。口を半開きにした間抜け面がこちらを見上げていた。どんな反応をするかとしばらく待ってみたけど洋平は目を見開いて固まったままだったので、これ以上見つめ合ってるのも恥ずかしかった私は早足で病室の出口へ向かう。硬直の解けた洋平に引き留められたが今人に見せられる顔じゃないのがわかっていたので立ち止まることなく病室を出た。
 私はこれからもたくさんの犠牲の上に生きていくのだろう。想い人の生意気な顔を思い浮かべながら、空に向かってごめんねと呟く。洋平のいない明日なんて考えられなかった。彼が死ぬのが正しい未来なのだとしたら、そんな世界なんてどうにでもなってしまえばいい。自分勝手極まりないことを考えながら調子に乗って廊下をスキップしてみたら脇腹に鋭い痛みが走った。
ラグナロク前夜