やがて藍になるまで9

 音之進くんが絵に描いたようなドヤ顔で合格の通知書を見せてきたとき、私は得体の知れない寂しさを感じた。きっと今日が鯉登家を出る日だからだ。ここから少し遠い居酒屋が新しい職場である。家政婦のおばちゃんの紹介なのでなにも心配はないはずだ。店主のおじさんも人の良さそうな感じだった。それを音之進くんに報告したら一瞬だけ表情を曇らせたかと思うと「真面目に働れちょっか見け来っからな」と指をさされたので苦笑する。

「こい、もろてもよか?」

 ポケットから出されたのは結構前に私があげたお守りだった。いいかもなにも、最初から音之進くんにあげたつもりだったんだけど……。こくりと頷いたら音之進くんは嬉しそうに目を細めた。そんな素直な反応されたら、こっちが照れてしまう。気恥ずかしさを隠すためにさっと目を逸らして掃除の途中だからと早々に追い返そうとしたけど「かせしっちゃる」と言われ、私が返事をするより早く余っていた雑巾を手に取ってまだきれいにできていないところを拭き始めた。最後まで自由人だな。まあ私としては助かるのだけど、試験に合格したとはいえ、そっちだって色々済ませないといけないことあるんじゃないのと遠まわしに探りを入れてみたが、なんか合格者の余裕みたいなものを感じただけだった。でもこれから音之進くんは士官候補生になり、士官学校に入り、卒業したらすぐに任官とどんどん忙しくなるはずだというのに、私なんかに構って貴重な休日を潰してもいいのだろうか。

「そこ!まだ汚えてるぞ!」
「……あー、はいはい」
「はいは一回にせ言てるじゃろ!」

 雑巾がけに物申されて面倒くさそうに返事をしたら追加で怒られた。もしかしたら手伝いという体できちんと掃除をしているか監視しに来たのでは?今までも何度か聞いたお母さんみたいな台詞に謝罪し、再び同じ場所を入念に磨く。大人げないので「今やろうとしてたのに!」とかは言わない。しかしこの台詞ももう聞けないのかと思うとやっぱりこう、込み上げるものがある。卒業式とか泣かないタイプなんだけどなあ、と緩みそうになる涙腺を誤魔化して当初の予定よりも長く過ごした部屋を綺麗にしていく。毎日が大掃除だった日々も今日で終わりである。窓を背にして感慨にふけっていたら音之進くんと目が合った。また「拭き方が甘い!」とかダメ出しされるのかと身構えたけどそんなこともなく、無言で目を逸らされただけだった。それはそれで調子が狂う。
 散々お世話になったユキさんと家政婦仲間にお別れの挨拶をして、では、と出発しようとしたけどいつの間にか音之進くんが消えていることに気付く。ちなみに平二さんは安定の海上勤務で帰宅は1か月後らしいのでお手紙をしたためてある。音之進くんもしめっぽいのは好きじゃなさそうだし、一応今までのお礼はさっき済ませたしまあいいか、と気にしないことにした私は今度こそ鯉登邸を後にした。さようなら、鯉登邸。私の人生の中でこんな豪邸に住むことなんかもう二度とないだろう。そういった意味でも貴重な経験だった。私はまた涙腺が緩むのを感じて一度目をぎゅっと閉じる。

!」

 後ろから呼ばれて振り返ると、声から予想はついていたけどやっぱり音之進くんだった。忘れ物でもしたかな。駆けてくる音之進くんに向かって私も少し早足で歩み寄りながら思い出そうとする。ほどなく私の目の前に到着した音之進くんは手を出して「よこせ」と言った。十中八九私の荷物のことなんだろうけど、目的がわからなくて怪訝な顔をしたら彼はもう一度同じ台詞を繰り返した。

「なんで?」
「……送いいっきゃんち……母上に、言われた」
「え、あ、うん、あり……がとう。でも荷物は自分で持てるから大丈夫だよ」
「こげん重かもんわいに持たせたらがらるっ」
「いや、そこまで重くないし……」
はまこていっこっじゃな」
「なんて?」
「いや……」

 暫く道端で睨み合っていたけど音之進くんは一向に折れる気配がなかったのではあ、と溜息を吐いて片方の風呂敷を渡した。

「こいじゃね」
「え?」
「そいんほが重かじゃろ?」
「……わかるの?」

 遠慮して軽い方を渡したのに秒で看破され、私は渋い顔になる。いやここは音之進くんの面子的にも素直に重い方を渡すのが正解だったか。さっきの様子を見るにまた意地でも折れないだろうことは想像に難くないので私はしぶしぶもう片方の荷物を差し出した。彼も男の子だし、こう、見栄を張りたいお年頃なのかもしれない。まあ手荷物は風呂敷2枚分しかないが正直なところ二つ運ぶとなるとなかなかの重労働だったので助かるのは否めなかった。

「ごめんね、掃除も手伝ってもらったのに」
「別に……構わん。散歩代わいじゃ」
「ここにももう来なくなると思うとなんか寂しいなあ」
「……休みには帰っで、また散歩に付き合え」
「え、大丈夫だよ。ちゃんと士官学校で友達できるから」
「………………わや、今までオイにどしおらんやっで誘てる思ちょったんか?」
「そうじゃないの?」
「違ごに決まっちょっやろが…………」
「な、なんかごめん……あ、でもほら、私も明日には元の時代に帰ってるかもだし、先のことはわからないよ」
「……オイは、力んなれんかったな」

 どうして音之進くんが責任を感じているのかと私は焦る。この時代に飛ばされたのも、帰る手がかりが見つからないのも音之進くんには全く関係ないことなのに。寧ろ彼には励まされてばかりだった。なにも恩返しできなかった、と悔やむのはこちらの方だ。

「私は、音之進くんが私の話を信じてくれたの、すごく嬉しかったよ」
「……」
「それだけで結構救われた感じだったし……力になれなかったなんてことないから」

「うん?」
「…………いや、なんでんなか」
「ええ~!気になるんだけど……なに?」
「言わん」
「……私空気読めないから、言いたいことあるならちゃんと言ってよね」
「わかっちょる」

 次の角を曲がって、少ししたら坂を上って、そうしたら新しい職場だ。なんだか名残惜しくなってしまい、歩くスピードを少し緩める。今日は音之進くんも私のペースに合わせてくれているみたいで、いつもみたいに置いて行かれそうになることはなかった。同じ気持ちだったら嬉しいのになあ、なんて…………いやいやいや、それはないな、と私は首を振る。誤魔化すようによいしょ、と荷物を逆の手に持ち替えようとしたらするりと音之進くんに奪われて私は思わず「なに?」と声を上げた。いや持ってくれようとしてるのはわかるんだけど。我ながら可愛くないなあと思う。素直にありがとうと言えればいいのに、どうして意地を張ってしまうのか自分でも謎だ。

「じ、自分で持てるから」
「こいくらいさせ」
「……私、音之進くんにもらってばっかりだから、もう充分だよ」
「オイん気が済まん」

 思い返せば私たちはいつも平行線の言い合いばかりしていた気がした。私は音之進くんに迷惑をかけるまいという遠慮から我を通し、彼はそれを意にも介さずぶち壊してくる。ひょっとして私は今まで選択を間違い続けていたのではないだろうか?たらればなんて不毛なのは百も承知である。それでも後悔せずにいられないのは気付くのが遅すぎたせいだ。明日からは音之進くんのいない生活が始まり、彼も私とは違う道を進んでいき、もう一生交わることはない。奪い取られた荷物はそのまま音之進くんの手によって運ばれていく。私は彼の手元でゆらゆらと重そうに揺れる風呂敷たちを見つめることしかできなかった。これが最後か。私は口の中でそう呟く。
 長い坂道を登りきると、すぐそこに新しい住居兼職場が姿を現した。これはなかなか良い運動になりそうだ。なんとなく来た道を振り返ってみたけどそこはかつて音之進くんと二人で何度も見た海を一望できるような見晴らしの良い場所ではなく、ただ道と道の間から住宅街が細く見えるだけだった。同じような景色だったらよかったのに、と私は内心少しだけがっかりする。

「こん先は一人で大丈夫か?」
「うん、本当にありがとう」
「……」
「どうしたの?」
「……」
「これで最後なんだから、言いたいことあるなら言ってよ」
「最後のつもいなか……」
「えっ?」

 徐に手を取られ吃驚している間に、音之進くんは自身のポケットから小さい包みを取り出して私の掌へそっと乗せた。巾着みたいにきゅっと結ばれて細いリボンが掛かっている、可愛らしい包みだった。そんなもの貰えるなんて思ってもみなかったので、困惑してその包みと音之進くんの顔を交互に見る。どうしよう、私はなにも用意してないのに。

「餞別じゃ」
「……あ、ありがとう」
「……」
「……」
「…………また、来っ」
「う、うん……」
「きばれよ」
「そっちこそ」

 小さくなっていく背中を見送っていたら音之進くんが一度振り返ったので、両手を上げてガッツポーズしてみせた。意味が通じてるのかはわからない。

全てを知って失くしたもの::ギリア