やがて藍になるまで10

 腕が千切れそうなほど重い荷物を両手に下げて、急な上り坂を一歩一歩踏みしめる。自転車とか支給してもらえないだろうか……ああ、電動自転車が恋しい。この世界の庶民は徒歩が基本なので泣き言を言っているのはたぶん私くらいなものだろう。でもキツイもんはキツイ。腕のしびれが最高潮に達した私は、腰を下ろせそうな石段を道端に見つけ、両手に持っていた風呂敷をそっと地面に置くと、漸く自由になった両手をぶらぶら振って休ませる。秋の終わりだというのに暑くてたまらない。だいたい、女一人にこんな重い酒瓶を持たせるなんてあんまりじゃないだろうか。店主は基本良い人だが割と適当な物言いをすることがある。今日のおつかいも店主のおじさんは「酒樽みたいに重いわけじゃないから平気平気!」などと豪快に笑っていたけれど、いざ到着すると私を待っていたのは一升瓶4本だったので思わず二度見した。いや、たしかに嘘は言ってないけどさ……となんとも言えないもやもやを抱えながらの帰宅である。帰ったら文句言ってやろう。
 そんな若干の不満を頭の中で爆発させつつ、体を思いきり伸ばした。平和だ、と思った。すぐ近くではつい最近まで戦争をしていたというのに、ここはまるでそんなことなかったかのようにのどかだ。もしかしたら音之進くんも戦争に行ってしまったのだろうかと、今はもう遠い存在になった少年をふと思い浮かべる。いや、もう少年ではないな。たしか今年20だったような。20歳はもう立派な大人だ。ここ数年彼と顔を合わせていない私には、出会った当初のまだ子供から大人に移り変わる時期の姿しか思い出せなくて、なんだかしっくりこなかった。マメに連絡を取り合っているわけでもなかったので彼の近況などもほとんど把握していない。休日には帰ってきていたらしいがやっぱり士官学校ってやつは相当忙しいようで、私に構っている暇などなかったのか姿を現すことはなかった。確認しに来るとか言ってたくせに……なんて寂しいとかは全然思ってない。
 一つだけわかるのは、もうすぐ彼が陸軍士官学校を卒業するということだけだ。そのあとは旭川の司令部とやらに配属されるらしいので益々遠い人になってしまうな、なんてぼんやりと思った。鯉登家で過ごした日々が今となっては夢のようにかすみ始めている。結局元の時代に戻る手がかりも見つからないままで、私は一生ここで生きていく覚悟をしなければならないと思い始めていた。不器用な優しさで助けてくれた音之進くんはもういない。ぶっちゃけ思い出すのはしかめっ面ばっかりだけど、それでも救われていたことは確かだ。自分から距離を置いたくせに今更会いたくなるなんて……と、悔しさ半分切なさ半分で膝を抱えていたら土を踏む音とともに頭上に影が差した。

「あの時を思い出すな」

 懐かしい声だった。顔を上げるとあの頃より少しだけ大人びた音之進くんが私を見下ろしていて、私は目を見開く。

「……お、大きくなったね」

 しまった、台詞の選択を間違えた気がする。親戚のおばさんみたいなことを言ってしまった気恥ずかしさを誤魔化すため、久しぶり、と仕切り直した。

「こんなところでどうしたの?」
「それはこちらの台詞だ。のいる店に行くところだったんだが……」
「あ、そうなんだ。偶然だね」
「……相変わらずだな」
「え、なに?悪口?」
「違う」
「あっ!ちょっと待って!薩摩弁じゃない!なんで!?」
「薩摩弁の方が良かったか?」
「……それはよくわかんないけど、標準語も良いと思うよ。なんか新鮮で」
「……そうか」

 音之進くんが私の隣に腰かけたのでお店に用事あるんじゃないのかと聞いてみたらあからさまに不機嫌そうな顔でこちらを睨んだ。こういうところは変わってなくてなんだか嬉しい。

「どうしてお前はそう、鈍感なんだ」
「そ、そんなことないよ、今音之進さんが不機嫌になったのもわかったし」
「では何故私が不機嫌になったと思う」
「エスパーじゃないし、そこまではわからないけど……」
「エスパー?」
「……私なにか気に障るようなこと言った?ごめんね」
「私はに会いに来た」
「…………え、そうなの?なんで?」
「会いたかったからだ」
「……奇遇だね。私もさっきちょうど音之進くんのこと考えてたんだ」

 そう言ったら音之進くんは表情を和らげた。他愛ない会話をしているだけなのになんだかどきどきするのは、きっと音之進くんが昔より大人に見えるせいだ。意識した途端見つめ合っているのが無性に恥ずかしくなって、私は視線を逸らした。わざとらしく座り直したり、地面に置いた風呂敷の位置を移動させたりしてみる。

「そうだ、卒業したんだよね、おめでとう。もしかしてその報告にきてくれたの?あれ、まだだっけ?ごめん、日付は知らないんだけど」
「……それもあるが」

 珍しく歯切れの悪い返答だ。音之進くんらしくないと思って私は視線を戻した。音之進くんの方も掌を合わせたり離したりとなんだか落ち着きがなくて、何か言いづらいことでもあるのだろうかと思案する。……そうか、卒業したから今度は旭川に行ってしまうのか。そうなったらたまの休みに帰省したとして忙しい中わざわざ私と会ってくれる理由もないし、そもそも私の方が元の時代へ帰ってしまうかもしれない。だから最後にお別れを言いに来てくれたのかも。言い渋っているところを見るに、音之進くんも多少は寂しがってくれているようだ。……なんだ、かわいいところあるじゃないか。音之進くんはずっと俯いたままそわそわして口を開こうとしないので、こちらからその話題を切り出すと弾かれたように顔を上げ、こくりと頷いた。

「第七師団に入る」
「そうそう、それそれ。頑張ってね。音之進さんなら心配ないと思うけど」
「……ああ」
「……」
「……」
「じゃ、じゃあ私おつかいの途中だから……もう行くね。音之進くん、元気でね。さよなら」
「ま、待て!私が言いに来たのはそういうことではない!」

 立ち上がろうとした私の手に音之進くんの手が重ねられた。えっ、と驚いている間に今度はぎゅっと握られて私は目を白黒させる。なんだ、なにが起こっているんだ。今まで散々子供扱いしてきたくせに、自分より一回り大きい手だとか、当たり前だと思っていたはずのことが当たり前ではなくなっている。家政婦してたときはこんなことなかったはずなのに。いや、あったっけ?頭が混乱しているせいかよくわからなくなってきた。音之進くんが何を伝えようとしているのかわからないまま、私は身動きが取れず固まっている。この期に及んで彼はまだなにかを言い渋っているようで私を見つめて百面相していた。結構恥ずかしいのでなにかあるなら早くしてほしい……なんて空気読めないことを考えていたらまた手をぎゅっと握られてごくりと喉をならす。

「その……」
「音之進くんらしくないよ、そんな小声でしゃべるなんて」
「おっ、お前の方こそ、今日は随分余所余所しいじゃないか」
「ごめんごめん、なんか久しぶりに会った親戚の子が成長しちゃっててどうしたらいいかわからないみたいな?」
「私は子供じゃない」
「わかってるってば。立派になったと思うよ」
「なら私を……男として見てくれるか」
「………………どういうこと?」
「私と一緒になってくれ」
「え、えっと、一緒……どこに?」
「………まったくお前は………け、結婚してくれ、と言えばわかるか」
「随分急だね」
「卒業したら言うつもりだった」
「…………け、結婚とか、そういうのは……無理」
「……理由は」
「この時代の人間じゃないから」
「だからなんだ」
「もし帰れる方法が見つかったら、いなくなっちゃうんだよ」
「それでも構わない」
「私は構うの!」

 急に大声を出したせいか少なからず驚いた様子の音之進くんが気まずそうに下を向いた。絶対元の世界に帰ってやるなんて意気込んでいたのに……そんなこと言われたら未練ができてしまうじゃないか。ここにきて自覚してしまった。私はいつの間にか音之進くんへの好意をあえて見ないようにしていたらしい。いつかは元の世界に帰るから、と自分に言い聞かせていたのだろう。まさか自分の方が気に入られるとは予想外だったが、いついなくなるかもわからないのに一緒になってくれだなんて勝手すぎるじゃないか。だってそれじゃあ誰も幸せにならない。

「俺のことが嫌いなら、はっきり言ってくれ」
「嫌いじゃない、けど好きでもない。音之進くんはただの雇い主の子供だし、なんとも思ってない」
「嘘じゃ」
「……嘘じゃない」
「ならないごてきつか顔しとっ?」
「別に、そんな顔してないけど……気のせいじゃない?」
のこっ一番見てきたんはオイじゃ」
「…………自信過剰」
「なんだとっ」

 昔に戻ったみたいだ、と私が思わず笑ってしまうと、音之進くんは少し顔を赤らめて悔しそうにした。またいつもの意地の張り合い合戦、どちらも頑固で負けず嫌い、でも最後には私が降参する。それが私たちの定番パターンだった。今回も私の負けだ。完敗である。自分より覚悟を決めている彼を説得できる材料が一つもないのだから。なにより悔しいのは心の底では嬉しすぎてきっぱり拒否できずにいることである。

「私が急にいなくなっても後悔しない?」
「たぶん……せん」
「たぶんて」
「そんなもの、なってみないとわからんだろう!」
「……たしかに、それもそうだね」
「よいなこて気付っとか」
「うわ~すっごいドヤ顔」
「どや顔とはなんだ……?」
「いやこっちの話です」
「では認めるんだな?」
「…………う、うん」

 私が言うか言わないかくらいのタイミングで音之進くんが私をふわっと抱きしめた。最後の悪あがきで「不本意なんだけどね」と付け足してみたけどたぶん彼には聞こえていない。緊張しているのか、私の背中に添えられた手がちょっと震えているのがわかった。さっきまであんなに威勢が良かったのに。そう思うとだんだん冷静になってきて、じれったくなった私は自ら音之進くんの胸へ頭突きして背中に手を回す。頭上からなにやら焦ったような声が聞こえた。

「どうせやるならもっと堂々としてよ……こっちだって恥ずかしいんだから」
「……ま、任せろ」

 頼もしい台詞とは裏腹に音之進くんの手が背中側でさ迷っている気配を感じて私は苦笑いする。私の中の音之進くんはまだ10代の少年のままだったのに、現実の彼はもう立派な大人になっていた。そんな当たり前のことをようやく実感した私は音之進くんの背中が思っていたよりずっと広かったことに驚いたのと同時に悲しさだとか、申し訳なさみたいなものが込み上げてきた。彼の言う通り、私は鈍感なのかもしれない。自分が傷つかないために全部から目を背けてきたせいで、知らないうちに彼を傷つけてしまったのかもしれない。それでも私をずっと想ってくれていたのだとしたら、この人は馬鹿だ。そしてずっと近くにいたのに気付こうとしなかった私はもっと大馬鹿者だ。

「よし、今から父上と母上に報告しに行くぞ。も来てくれ」
「えっ、早くない?そういうのって、もっと、順序とか……」
「こういうのは勢いが大事だからな」
「で、でも、ほら……心の準備が」
「そげなもん必要なか」
「いやいるって。ていうか、私のことどう説明するつもりなの」
「……父上と母上には……黙っているつもりだ」
「本当にいいの?」
「……そんな顔をするな。は私の隣にいてくれればいい」
「……」
「なっ、ないよ、ぎでんあっかよ」
「……ううん、ありがとう。私、音之進くんについていく」

 音之進くんは照れながらも満足そうに口端を上げた。子供と大人の狭間にいるらしい彼は可愛かったり頼もしかったりと忙しい。留まる理由ができてしまった。けれど以前のような恐怖や焦りは感じなかった。元の世界に帰れようが一生帰れまいが、私は今日のことを一生忘れられないだろう。

やがて生命が力尽き、藍になるまで水面に映った空の色を覗き見る