「北海道は雪がうえできつか」
分厚く降り積もった真新しい雪の上にさくさくと足跡をつけながら音之進くんが呟いた。彼は鹿児島の出身だからか高く降り積もった雪道にはあまり馴染みがないようだ。かくいう私も雪道には不慣れで、転びやしないかとびくびくしながら一歩ずつ慎重に雪を踏みしめる。音之進くんと並んで街を歩くのは久々だ。なんとなく妙な緊張感に包まれながら、俯いて彼のつぶやきを聞き流した。私と音之進くんが最初に出会った場所の片隅で、さきほど買ったあんぱんを二人してもそもそと食べる。こんな寒い日に張り込みなんて自分でもどうかしていると思うが、帰る方法を探す手段がこれしかないのである。まさか道行く人に「未来へ帰りたいんですが何か知りませんか?」などと聞くわけにもいかないし、というかそんな勇気あるわけがないので即却下だ。それを言ってしまえば音之進くんに打ち明けたのも割とどうかしている気がするけどやっぱり彼も私のことを頭おかしいと思っているのだろうか。急に怖くなり私は改めてくよくよと後悔し始めた。
「あんべが悪いか?」
「……いえ、大丈夫です」
「風邪ひっがひっちっ前に帰っど」
「先に帰っていいですよ」
「いかなこて、ひのひしてそけおるつもりか?」
「……ごめんもう一回」
「…………夜がへ入っまでここにおるつもりか、言た」
「そういうわけじゃないけど」
「わいが持て」
少し重たいカイロの入った巾着を目の前に出されて私は困惑する。音之進くんの方が風邪引いたら大変なのに……。この時代に使われているのは灰式カイロという携帯式の暖房器具である。その名のとおり灰を燃焼させて暖を取る道具なのだけど、カイロ自体がこんな昔からあるとは知らなかった。それはともかく、一体どういう心境の変化なのか、今日の音之進くんは私に付き合ってくれるつもりらしい。彼が帰ろうとしないので、私のせいで風邪なんか引いたりしたらそれこそ一生後悔しそうだと仕方なく立ち上がる。
「わかった、帰るから。これ返すね」
「いらん」
「だめだって。風邪なんか引いたら大変でしょ」
「こん程度でごてくやしとったら第七師団なんて務まらん」
「それとこれとは話が別では」
「せからしか。寒のに慣れんのも訓練のうちじゃ」
「じゃあなんでカイロなんか持ってきてるんですかね……」
「……」
「……」
「……さ、寒なったとっのためじゃ!」
「……」
彼は墓穴を掘っていることに気付いていないのだろうか。いや意地っ張りな音之進くんのことだから気付いているけど引き下がれなくなったに違いない。段々可哀想になってきたのでそれ以上の追及はしないことにした。そこまで言うなら持っておいてあげますよ、仕方ないからと恩着せがましくため息を吐くと音之進くんはふん、と鼻をならした。不器用ではあるが優しさは感じる。彼なりの気遣いであることはたしかだ。素直に、というわけでもないが一応それを受け取ると、私たちは漸く帰路についた。来るときにはなかったポケットの重みと温かさを感じながらふと音之進くんの後ろ姿を見遣ると耳が真っ赤になっていたので、見栄なんか張らなくていいのに……と苦笑する。もう片方のポケットにはお守りが入っていた。音之進くんの合格祈願にと貰ってきたものだが今の私ではなにをしても彼の気に障ってしまうのではないかと怖くて渡せないまま数か月間手元にある。果たして本人以外が持っていてもご利益はあるのだろうかと疑問に思いつつ、やっぱり渡す勇気などなくてこっそりとポケットの中のお守りを握りしめた。
「手ば出して歩かんか。ひっ転だら危ねか」
「大丈夫だいじょうわあああっ!」
その証拠にと雪の上で足踏みしてみせようとしたら足が滑って体が傾いた。咄嗟にポケットから両手を出したけど間に合わないと悟った私は目を瞑る。直後にぼふん、となにか柔らかいものにぶつかったけど雪でないことは確かだったので、まさかと思いながら目を開けるとそのまさかで音之進くんが間一髪のところで私を受け止めてくれていた。「いわんこっじゃね」と耳元で呆れたように呟くので私も反射的に謝る。ひょい、と腕を支えられて体勢を立て直すとポケットから零れ落ちたカイロが雪に埋まっているのが見えた。周りの雪が解けている。音之進くんはそれを拾うとコートの裾で水分を拭ってから私へ差し出す。今度は素直に受け取ってまたポケットへとしまい込んだ。
「……こいもわいのもんか?」
「あっ……う、うん……」
音之進くんが紺色の小さい包みを拾い上げたので一瞬ぎくっとしたが、ほどなくそれは私の手に戻ってきた。幸いお守りには「学業成就」とか「合格祈願」だとかそういった類の刺繍は入ってなかったのでバレずにすんだらしい。ほっとしたのもつかの間、私の掌にお守りを乗せた音之進くんがぽつりと呟いた。
「……オイにくれるんではなかやったか」
「なっ………………んで」
「…………いかなこて、当たいか?」
「……」
「な、何か言てくれ」
そんなこと言われても、図星をつかれて言葉が出てこない。けどそれって、嫌じゃないってことでいいのだろうか。私は意を決してポケットにしまいかけていたお守りを音之進くんに押し付けた。気の利いた台詞が浮かばないので終始無言である。
「……よかと?」
「……嫌じゃなければ、だけど」
「嫌でね」
「ほんとに?」
「何度も言わすな」
「う、うん……」
「てせちすっ」
「う、うん……?」
いつもなら言い直してくれるのに、今回はなぜか無反応だったので最後に彼が言った台詞の意味はわからず終いだった。もしかしたらただの独り言だったのかもしれない。まあ本人もああ言ってるし、大丈夫だろう。音之進くんは社交辞令とか言うタイプでもないし。いつもより少し機嫌の良さそうな彼を見ていたら私たちにあるまじき甘ったるい雰囲気が流れているような気がして心臓がどくりと鳴った。嬉しいんだか恥ずかしいんだか、自分でもよくわからない。自分たちに限ってロマンス的な展開はあり得ないと散々牽制していたはずなのに、どうしてこうなった。正体不明のむず痒さに耐えられなくてダッシュで逃げようとしたけどあえなく腕を掴まれる。「またまくっ気か」と呆れた声がしたのですでに一回やらかしている私にはなにも言えなかった。音之進くんがよくわからない。いや最初からそうだったけど最近特に言動が謎なのである。騙されてさぞ怒っているだろうと思いきや私を追い出そうともしないし元の世界に戻るための調査という名の散歩にも突然連れていけとか言い出すし、なんかちょっと嬉しそうだし、なんなんだ。嫌じゃない、なんて素直に言われても気恥ずかしさの方が勝ってしまい「別に音之進くんのためじゃなくて、たまたま持ってただけだから!」などと言い訳したくなるだけだ。まあ嘘なんだけど……がっつり音之進くんのために用意したんだけど……。私が口を開く前に音之進くんが掴んでいた腕を離して「帰っど」と歩き出したのでその機会を失い、行き場のないもやもやしたなにかを強制的に飲み込んだ。
「外国にはとひとっじょな物語がずんばいもあっち知っちょっか」
「……私と同じような、てこと?」
「じゃっど。ないごっかじゆで未来から過去に来っこっじゃの」
「聞いたことはある……けど」
音之進くんが唐突に話し始めて私は目を剥いた。いつの間にそんなことを調べたのだろう。
「タイムスリップ物ってそんな昔からあったんだ」
「タイムスリップ、言のか」
「まあ、言い方は色々あるけど。それがどうかしたんですか?」
「いや……ないか手掛かいんなれば思っ父上に聞いた」
「そんなこと、してくれなくてもいいよ。音之進くん忙しいのに」
「オイが勝手に調べちょるだけじゃ」
「……」
「は、もどいたくなかと?」
「そういうわけじゃない」
「言葉に力が宿る言ったんはわいじゃろ。オイは勉強ば疎かにしっつもいはなか。じゃっでいしれん心配はいらん」
「…………信じてくれるの」
「わいは馬鹿しょちっじゃっで」
「……どういう意味?」
首を傾げたけどまたしても答えてもらえなかった。もしかしたら私も顔に出るタイプだったのかもしれない。音之進くんってわかりやすいよね~なんて笑っていた本人も同じだなんて恥ずかしすぎる。本を取り寄せることもできると言われたけどそんなお金ないし読んでもまともに翻訳などできる気がしないしで結局断った。それに、妄言と呆れられても仕方ないような話を信じてくれてあまつさえ私の心配までしてくれていたというだけでもうなんだか満足だ。胸がいっぱい、という表現がぴったりだった。
「元ん時代にもどっのはえじゃっどん、ないも言わんでいきなり消えたりせんじゃろな?」
「……来たときも急だったから、あり得なくはない、かな」
「そいじゃ帰ったかけ死んだんかわからん」
「……私に言われても」
「誰に文句ば言えばよかな?」
「えー……神様かなあ」
「なら今度神社でん来っか……」
音之進くんが本気で悩み始めてしまったので、早く帰らないと風邪引きますよと笑った。ポケットの中のカイロももうぬるくなり始めている。
この空っぽな胸の奥を埋められるのは君だけだ::ハイネケンの顛末