ぱんぱん、と大きく柏手を打ったあとそのまま頭の中で願い事を思い浮かべる。音之進くんが試験に無事合格しますように。立派な将校さんになれますように。あと、あと……私が元の世界に帰れますように。
私にお祈りされたところで音之進くんは喜ばないかもしれないけど、ユキさんによろしく頼まれた手前なにもしないのも気が引けるし、と私は時々神社へお参りに来ていた。別に本人には言うつもりないし、勝手にする分ならセーフだろう。音之進くんとは表面上だけいつも通りで、でも二人のときはなんか気まずいという奇妙な関係が続いている。そんなに嫌ならいっそ早く消えろくらい言ってくれればこっちだって踏ん切りがつくのに。仮面夫婦みたいな状態を思い出して私はため息を吐く。結婚したことすらないの仮面夫婦というのも変な話だけど。
境内を後にして足が赴くまま周囲をぶらぶらしていたら、着いたのはかつて音之進くんと一緒に歩いた坂の上だった。この急な坂を上るのにもだいぶ慣れたらしい。同じ場所のはずなのに箱館湾は雪景色に変わっていて、季節が進んでいるのを感じた。音之進くんからのお誘いはなくなったけど、私は休日を利用して最初に降り立ったある意味思い出の場所へ何度も足を運んでいる。もしかしたらなにかの拍子に元の世界に帰れるかも……なんて淡い期待を抱きつつ毎週せっせと通っているが残念ながら一向にその気配はなかった。それ以外特にやることもないので、公園のベンチに座りぼーっと景色を眺める。そういえば、ここも音之進くんによく連れてきてもらったところだ。どこを歩いていても、記憶の中の私は彼が隣にいる。そんなことには気付きたくなかった。
人前では気まずい雰囲気をおくびにも出さない私たちだが、彼のご両親も家政婦仲間たちも疑う気配がないので、もしかしたら演技の才能あるんじゃないかなどと自惚れそうになるがそんな能力があったところでどう活用すればいいのかわからない。ちなみに一言も会話がないわけでもなく、ぽつりぽつりと雑談はしている。ただ雰囲気は異様に重い。……というのは私の主観であって、私が見る限り音之進くんは普段通りの彼である。しかめっ面も真顔も彼の通常運転の姿だけど実はすぐ顔に出るタイプだということもわかっていたので本当のところはわからない。嫌で嫌で仕方ないのをポーカーフェイスで巧妙に隠しているだけなのか、もうなんの感情も抱いていないのか。そんなこと聞けるはずもないけれど、音之進くんがご両親に心配をかけたくないというので、嘘をついていた罪悪感もあって無碍にはできないのである。
「もちっとで試験じゃ……」
「いや、まだ何か月も先じゃないですか」
「そげな悠長なこっ言ちょったらあっちゅう間に当日なっど」
「……まあ、わからなくもないけど」
「鶴見中尉殿と会がなっのが楽しんじゃ」
「そういうのは試験合格してからにしましょうよ」
「…………わいは、次の行先は決まっとか」
「さあ……それこそまだまだ先の話だし」
「余裕ぶって路頭に迷ってもオイは知らんど」
「もう音之進さんの手を煩わせたりしないから安心してください」
「……連絡先ぐれは知らせちょけ」
「それくらい、私だってちゃんとわかってますよ」
ちょっとトゲのある言い方しちゃったかな、なんて少し気にしている間に音之進くんが「食え」と黒文字に刺した羊羹を私の方へ突き出す。どうしていちいち命令口調なのか。そうやって上から言われるとつい反発したくなるのが人間ってものである。割と反抗心の強い方である私は多少むっとしたのが顔に出てしまった。思っていた反応と違ったのか、音之進くんが少し狼狽えたのがわかる。
「……羊羹、好かんかったとや?」
大人げない、と自嘲した私は小さく首を振って彼の手から黒文字を受け取り、羊羹を口に入れた。ああ美味しい。黒と紺の間みたいな色の中に少しだけ金箔が散らされている。星空みたいだ、と思いながら私は甘ったるい羊羹を咀嚼した。
「毎週どけ行っと?」
「……なんで知ってるんですか」
「オイの部屋からは良う見ゆっ」
「…………音之進くんと最初に会ったところ」
「……」
「べ、別に気にしないでいいんだって。これは私の問題だから」
「……オイも今度連れっ行け」
「なんで?もう付き合う義理ないのに」
「……」
「ちょ、待って、なんで不服そうなの」
音之進くんの背後にまがまがしいオーラを感じ、今度は私が狼狽えた。正真正銘親切心で遠慮してみたというのにこの仕打ち。だって音之進くんには迷惑かけないようにするって約束したしな。結果がどうであれ約束を守る努力はできる人間でありたい。音之進くんが不機嫌な態度をしまわないのでちょっとだけ折れそうになったが華麗に知らんふりしてお茶を啜った。いつだったか家政婦のおばちゃんたちのいきなり恋愛トークに巻き込まれたとき相性が大事だとか力説された記憶があるけど、私たち別に相性も良くないと思う。彼にしてあげられるのはこんな風に眉間に皺を寄せることと迷惑をかけることだけだから、私と一緒に居たら眉間の皺取れなくなるんじゃないかな。以前よりぎこちなくなってしまったからもう望んでも叶わないのだろうけど。それに、この時代ならきっと良い家柄同士での縁談の話も出てくるだろうし、最初から私の出る幕などないのだ。
「気分転換、じゃ。のこっは関係なか」
「じゃあ一人で行った方が……」
「……そげん、嫌か」
「え、そういうわけじゃなくて……なんかごめん」
「なら決まいじゃな。いいか、言ておくがわいのことが気いかかっじゃね。適度な運動は気分転換なるし集中力の向上も……」
「あーはいはい、わかったわかった」
「返事はいっどでよか!」
ちょくちょくお母さんみたいな言動が出る音之進くんを見ていたら図らずも故郷の母を思い出し苦笑する。と同時になんだか最初の頃に戻ったみたいでちょっと泣きそうにもなった。不機嫌顔じゃない音之進くんを最後に見たのがいつだったか、もう思い出せなくなっている。私がくだらん嘘をついてなければ、ずっとこうしていられただろうか。それこそくだらない妄言だ、と私は目を伏せる。あの時音之進くんと平二さんの前で嘘をついたからこそ、彼らは私を哀れんで居場所を与えてくれたのだ。今こうして二人でティータイムを過ごしているのも嘘があったからである。すべてが嘘ありきの出来事だったなんて皮肉なものだ。
「もうこげな時間か」
音之進くんが時計を確認して呟いたので私もつられて時間を見る。4時になろうとしているところだったので私は飛び上がるほど驚いた。仕事!と叫んで立ち上がると音之進くんも少し肩を揺らした。いつものように食器のトレーはあとで回収に来ると宣言して、私は部屋を飛び出す。
今日は蔵の整理を手伝うことになっていた。年末に向けての準備である。もうそんな時期か……なんて焦燥感に駆られても結局私にできることなんて限られていて、なにも進展がないままあっという間に新年になってしまうのだろう。私は元の世界に思いを馳せる。きっとすぐ帰れると自分を励ましてきたのに、一歩も進めていないことに絶望すら感じた。音之進くんがこの家に居て良いと言ってくれたことを私はずっと覚えている。でもそれは記憶がない私に向けられたもので、今の私への言葉ではない。胸が空になったような寂しさに襲われた。物で溢れかえる蔵を掃除していたらそんなことを考える暇もなくなるはずだと、私は作業に没頭する。どれもこれも高価そうな品ばかりだ。何気なく隅の方にある壺を見ていたら家政婦のおばちゃんが「私たちのお給金1年分あっても足りないかもね」なんて大笑いしながら冗談なのか本気なのかわからないことを言うので私も乾いた笑いを零した。割れ物には触らないでおこう。
「私は二人もいらないよ」::ハイネケンの顛末