ばーん!と大きな音を立てて自室のドアが開かれ、荷造り途中だった私はびっくりして手を止める。荷造りといっても私物は殆どなくて、数着の服と化粧品、小物くらいである。風呂敷2枚で事足りるそれらを包んでいるところで現れた侵入者は音之進くんだった。ちなみに現在時刻は朝4時だ。こんな時間に起きているのは私くらいだと思っていたが、音之進くんも毎日早寝早起きする健康的なタイプなのだろうか。私の場合仕事で仕方なく、なのだけど。昨夜は結局無言で解散したので内心ほっとしていたところでまさかの突撃である。しかもこんな早朝に。
「は、早起きだね……?」
「……こいはないな?」
「なにって……荷造りだけど」
「出っくらんか」
「……もう顔も見たくないかと思って」
「誰がそげなこっ言た?」
「だって……ずっと嘘ついてたのに」
「っ……!は…………勝手じゃ!」
「は?」
「もう知らん!好っなようにせ!」
捨て台詞を吐いた音之進くんはどすんどすんと足音を鳴らして出て行った。部屋に入るときはノックしてほしいしドアくらい閉めていってほしいし人のこと勝手だとか言うけどそれ音之進くんには言われたくない台詞ベスト3だからな!さきほどは突然すぎて言葉が出てこなかったが冷静になると段々イライラしてきたので脳内で爆発させた。こんな朝早くに彼は一体何用だったんだろう。ていうか、私が寝てたらどうするつもりだったんだ。叩き起こして同じことを言っただろうか。
出て行く気満々でユキさんへ暇を貰いに行った私だが、前にいた家政婦さんが復帰するまで残ってくれないかとお願いされてしまい戸惑うことになった。このパターンは想定してなかった。私が初めて鯉登家に来たとき、その家政婦さんは家庭の事情で休暇を貰っていたがもともと来年の秋頃には復帰する予定だったらしい。私は臨時要員としてそこに滑り込んだかたちだが有難いことに家政婦仲間のおばちゃんもユキさんも私の働きぶりを評価してくれていて、その家政婦さんが戻ってきても働いてもらう予定だったという。嬉しい半分、困惑半分、というのが正直なところだった。音之進くんが許してくれるかが気がかりだ。
家政婦仲間であるおばちゃんたちは私と音之進くんが昨夜からギスギスしているなんて夢にも思っていないらしく、いつものように3時のおやつを託してきた。……うん、まあ……置いてくるだけだし、大丈夫かな。余計な会話はしないでぱっと行ってさっと帰ってこよう。少し躊躇ったあと音之進くんの部屋のドアをノックすると中から返事が聞こえた。静かにドアを開け、そろりと部屋に入る。
「……あの、これ……どうぞ」
我ながら余所余所しさがはんぱない。私の態度のせいなのか、音之進くんの眉間にますます皺が寄った。
「お、お邪魔しました……」
「おい待たんか」
「ひえっ!」
「……そけ座れ」
「え……」
「座れ言たんが聞こえんかったか?」
「…………はい」
テーブルにお菓子を置いてそそくさと退室しようとしたのに、唯一の出入り口に部屋の主が立ちふさがったことで脱出不可能となってしまった。その不機嫌オーラと10代とは思えない威圧感に白旗を揚げ、私は言われたとおりテーブルの横に正座する。音之進くんは私の目の前に胡坐をかくと腕組みをしてこちらを睨んだ。こ、こわ……。だが機嫌を損ねた犯人は十中八九私なのでなにも言えず顔を伏せる。
「出っくらんは止むったとよ?」
「いや……それが、その……奥様に引き留められまして。来年の秋口までは……って……」
「……」
「……あの、ダメならやっぱり出て行くけど」
「……別に構まん。好っなようにせっ、朝言た」
構わないって顔には見えないんだけど……と思わずつっこみそうになるのをすんでのところで堪える。聞きたかったのはそれだけだろうか。ならば早く帰りたい。足も痺れてきた。
「なるべく、音之進くんには迷惑かけないようにする。仕事だけやる」
「……じゃっで、」
「えっ?」
「……何でんなか!ないがなし、鬱陶しいからいつも通いばせっ。父上と母上にいらん心配さすいんは許さん。わかったらわいも食え」
「……なんでそうなるの?」
「今ずい通いにせっ言たじゃろ……!」
音之進くんの言いたいのはつまり、今までは私がおやつを持って行くとそのまま音之進くんの休憩(という名の惚気話)に付き合って暫く戻らなかったから、周りに悟られないようその習慣も変えるなということらしい。得心はしたが今の状況だと気まずいことこの上ない。とりあえず、足が限界だったので恐る恐る足を崩した。漸く圧迫から解放された私の足がじんわりと熱を取り戻す。音之進くんは不機嫌そうにしながら今日のおやつであるチョコレート(この時代だとすごく高価らしい)をボリボリと齧った。
「」
私が顔を上げると相変わらず怖い顔をした音之進くんが包み紙にくるまったチョコレートを私に差し出していた。……くれる、ということだろう。でもいいのかなと私は受け取るのを躊躇う。
「父上の東京土産じゃ」
「……ありがとう」
「チョコレート」
「うん」
「わいも知っちょるじゃろ?」
「……うん」
私は包みを開けてチョコを口に入れた。甘くない……。勝手にミルクチョコレートを想像していた私は面食らったが、少しするとお酒の匂いが漂ってきた。
「これお酒入ってる……?」
「じゃろな」
「……へ、平気なの?」
「ないがや?わや下戸なのか」
「いや、そういうことじゃないんだけど……」
未成年者飲酒禁止法ってまだないんだっけ。そもそも洋酒入りチョコって法律に引っかかるんだっけ。色々な考えが頭を巡ったけどおばちゃんがこのチョコをおやつに選んだ時点でお察しな気がした。
この日、音之進くんは鶴見さんの話をしなかった。というかお互いほぼ無言だった。いつも通りにしろと言われたけど、それは他人の目がある場所での話であって二人きりの空間では適用外ということなのだろう。この状態が続くのかと思うと少し憂鬱だ。重い空気のお茶会が終わったあと、私は音之進くんの部屋をあとにする。無言でいなくなるのもアレなので一応最後に勉強頑張ってね、と付け足してみたけど音之進くんからの返事はなかった。
「音之進はしっかい勉強しちょいもすか」
「してる……と思います」
戻る途中ですれ違ったユキさんにぺこりと頭を下げたらそう話しかけられた。何故私に聞くんだろう。机に向かっている姿は直接見たことがないものの、本人はやる気満々だし後方に見える机には教科書がたくさん積んであるし、至る所にしおりが挟まっているのを見るに試験勉強はきちんと進めている様子だ。そう伝えたらユキさんは口元を押さえて「音之進のこっよろしゅうたのんみゃげもす」と笑った。いつ見ても上品な奥様だ。
「いえ、私は応援くらいしかできないですし」
「そいでよしゅごあんが。めんでかかもしれんじゃっどん、まねけんな、あん子の話しえてになってあげてたもし」
「……はい」
「まってか、あたいんちゃちゃもたのみあげもすか?」
「あ、はい。今用意して持っていきます」
軽はずみな行動で彼を傷つけてしまった張本人が何食わぬ顔で話し相手を務めるだなんて、そんなことができるほど私のハートは強くない。現に私の胸は罪悪感と言う名の針でちくちくとさされたように痛かった。けれど今この場でユキさんに真実を打ち明けるような勇気もない。結局自分はヘタレなのである。音之進くんの言葉を思い出して、私は精一杯平常心を保ってその場を取り繕う。こんなんで私は来年まで持つだろうか、と頭の片隅に湧き出た不安はすぐ忘れることにした。
洗濯物を取りこんで室内へ戻ってくると、丁度二階から音之進くんが降りてくるのが見えた。久々のおでかけだな、と思いつつ私は軽く頭を下げてそのまますれ違う。以前なら有無を言わさず荷物を取り上げられ、行先も告げずに連行されていたけれど、やっぱり今まで通りとはいかないらしい。音之進くんは一瞬立ち止まったけど私に声を掛けることなく出て行った。胸が痛い。治まるわけでもないのに、私は胸元の服をぎゅっと握りしめる。いってらっしゃい、と呟いてみたけどすでに玄関のドアは閉まっていた。
覚束ない祈りを::ハイネケンの顛末