誘拐事件のあとから急に本気を出した音之進くんは当てもなく街をぶらぶらすることも減り、受験生へと戻っていった。少し寂しい気もするがこれが本来の姿なのだから喜ばしいことだ。しかし受験するのは海軍兵学校ではなくて陸軍士官学校だという。最初は大いに驚いたけれど、理由を聞くとすぐに合点がいった。あの鶴見さんという将校さんが、音之進くんの自現流を素手で止めた張本人だったらしい。なんだその運命的な出会いは。映画の1本でも作れそうなエピソードに驚きながら私はそんなこともあるんだねと頷いた。音之進くんは鶴見さんを思い出してまた恋する乙女のように頬を染めていた。3時のおやつを音之進くんの自室へ運んだら待ってましたとばかりに惚気られたのであーはいはい、良かったね試験頑張ってねなどとおざなりに返しておく。第七師団とやらに所属しているらしいその鶴見さんのもとで立派な陸軍将校になりたいと熱く語る音之進くんの目がきらきらと眩しくて私は目を細める。彼の視線の先は輝かしい未来に続いていた。
「鶴見中尉殿に会がなっのが待っ遠え」
「試験すら受けてないってのに……」
「通っに決まっちょっ」
「まあそこの心配はしてないけどさ」
「当然じゃ」
「ちょっと前まで合格するかわからないとかしおれてた人の発言とは思えないね」
「そげなこっ言ったけ?」
あまりにもナチュラルに身に覚えがありません顔されてしまったのでもしかして私の妄想だったんだろかと一瞬自信を無くしかけた。どうやら彼の中ではなかったことになっているらしい。おやつのビスケットを齧りながらしれっと言い放つのを見て、この顔は本気のやつだと確信する。でも思い悩んでいる音之進くんなんて見ているこっちが辛かったから元気になったならよかった。これもあの鶴見さんのおかげだ。一言二言しか言葉を交わさなかったからどんな人かはわからないけど本当に有能な人なんだな。こう、全身からそんな雰囲気がにじみ出てたしな。
「鶴見さん、すっごいイケメンだったね」
「いけ……麺?鶴見中尉殿の好っなもんか?どこでこがなっ」
「…………整った顔だよね、ってこと」
「あっでね。オイも鶴見中殿のよな落ち着いた男んなれるようきばいな」
「う、うん」
「に構っちょる暇なんちなか」
そっちが絡んできたんでしょー!と抗議する間もなく、私は締め出された。今日の紅茶、私が淹れたから感想を聞きたかったのに……まあ気分転換できたならいいんだけどさ。残りの仕事を片付けたあと、私は家政婦仲間と一服を取った。炊事担当のおばちゃんがいつも残りもののおやつを取っておいてくれるのだ。それをつまみつつ私たちは毎日女子会みたいな井戸端会議を開催している。話題はだいたいおばちゃんたちの家の話とか街で起こった事件とか、それこそ井戸端会議のようなものばかりだったので私はにこにこしながら相槌を打つだけだったのに今日は違った。
「ちゃんと坊ちゃん、お似合いよね」
「え、いや……それはないですよ」
「あらどうして?二人とも仲良いのに」
「玉の輿なんて夢があるわよねえ」
「……年の差ありすぎるし」
「年の差なんて気にすることないじゃない、大切なのは相性よ!」
「……たぶん相性も良くない気がしますけど」
「そんなことないでしょ。いっつも二人で楽しそうにおしゃべりしてるんだから~」
盛り上がっているところ申し訳ないのだけど、おばちゃんたちが期待しているようなロマンス的なやつが生まれる展開にはたぶんならない。万が一そんな展開が訪れたとして、私と音之進くんとでは身分が違いすぎる。現在は記憶喪失で身元不詳という設定の私だがそうでなくても生まれながらの由緒正しき庶民である私にはちょっと荷が重い。絶対しきたりとか伝統とかあるでしょ。知らんけど。それに私この時代の住人じゃないし……。当事者であるはずの私なんぞそっちのけでキャッキャしているおばちゃんたちを横目に、女ってやつはいくつになっても恋バナが好きなんだなあと乾いた笑いを零す。たぶんターゲットは誰でも良かったのだろう。水を差すのも気が引けるので愛想笑いを顔面に張り付けて適当にあしらったらすぐに話題は逸れていった。
私以外の家政婦さんはみんな自宅通勤なので、夜には帰ってしまう。それを見送ったあと、ちょっとした片づけをしてから自室へ戻るのが習慣になっていた。稼働時間外だからやらなくて良いとは言われているんだけど、今日中にできることは終わらせておきたいという私の性格的なものだと説明したらしぶしぶ了承してもらえたので最近では堂々とサービス残業している。正直なところ、この時代ではテレビどころかラジオもないし、本は旧字と文語体のオンパレードで解読も大変なので夜や休日は暇を持て余していたから不満はない。どうせ仕事が終わっても古文書みたいな本を気まぐれに解読して、疲れたら眠るだけなのだ。そうやっていつものようにキッチンで片付けをしていたら、後ろで物音がしたので振り返った。
「どうしたんですか、音之進さん」
「……食器を、持っきた」
「あ、すみません……すっかり忘れてた」
「だと思た」
数時間前に彼の部屋へ持って行ったお茶とおかしの乗ったトレーを受け取り、流しへ運ぶ。これを洗ったら今日はもう休もうかななんて予定を立てつつ洗い物をしていると音之進くんが私の隣に並んだ。
「どうしたの?」
「……いや……」
「おなかすいた?夜食でも作ろうか」
たしか炊いた米が少し残っていたはずだからおにぎりくらいなら用意できるよと提案してみたけど音之進くんは微妙な顔をしたまま直立不動でこちらを見ていた。もしかして空腹じゃなくて眠れないとかだっただろうか。
「わ、わいに聞こごたっこっがある」
「……うん、なに?急に」
「……」
「……そ、そんな言いにくいこと?」
「…………はまこて記憶無っとか?」
「え」
私は言葉に詰まってごくりと唾を飲み込んだ。これでは肯定しているようなものである。ついにきたか、と私は知らないうちに身体を強張らせるが、音之進くんも同じように拳を固く握りしめていることに気付いた。怒っている、と直感した。なりゆきとはいえ騙していたのは本当だし怒るのも当然だろう。すぐに出て行くつもりだったのに随分と長居してしまった、と今までの出来事が走馬灯のように頭を駆け巡った。
「……ごめん」
「認めっじゃな」
「…………ごめん」
「わいは、誰なんじゃ?」
「……私は私だよ」
「帰っとこいがないちゅのはほんのこっか?」
こくりと頷いたら、音之進くんは数秒沈黙したあと息を長く吐き出して拳からも力を抜いた。なにかを呟くのが聞こえたけど小さな声だったから台詞までは聞こえなかった。怒っているのか呆れているのか。気まずさのあまり音之進くんの顔が見れない私は彼の手元に視線を固定させる。ただ頭の中ではもうここにいられないんだなあとぼんやり考えた。あれ、案外ショックじゃない。という事実に若干ショックを受けながら、洗い物が途中だったことに気付いて機械的に手を動かす。カチャカチャと食器の鳴る音だけがキッチンに響いていた。音之進くんはその場から動こうとしなくて、私の右半身に視線が突き刺さりまくっている。……そんなに殺気を飛ばさなくても、これが終わったら出て行きますよ。
「嘘を吐いちょったのはよか。そん代わいいっかせっくれ。はどけから来たんじゃ」
「……え」
「わいはオイたっが知らん言葉ばずんばい知っちょる。外国ん言葉かと思たが……父上でん聞たこっがねもんもある。そいはどけん国の言葉じゃ」
「……」
「言ごちゃねか?」
「言っても信じてもらえないと思う」
「そげなこちゃオイが決むっ」
「私が別の時代から来たって言っても信じるの」
「…………何ちな?」
超常現象の類というやつはいつの時代もどこの国でも人間の興味を引くコンテンツである。本や映画のSFやファンタジー、テレビで流れる心霊番組は、現実にはありえないとわかっていながら頭の中ではほんの少しだけ信じていて、だからこそわくわくしたり怖くなったりするのだと思う。私もその一人であり、空想の中ではほうきで空を飛んだり人の言葉をしゃべる動物が現れたり天井のシミが顔に見えたりと大変忙しい子供だったし、いつか現実になるかもと、その日がくるのをこっそり期待していた。だって世界は不思議な話で溢れかえっているのだから、ひとつくらい本当のことがあったってそれこそ不思議じゃないはずだ。
しかし自らの実体験として実際口に出してしまうと途端に胡散臭くなってしまうのはどうしてだろうか。私は本当のことを打ち明けたのを早くも後悔した。と同時にほらやっぱり信じてもらえない、という喪失感にも襲われる。昔見たタイムスリップものの映画でもこんな場面があった気がする。未来から来た男が現地で親しくなった女に真実を打ち明けたら、案の定信じてもらえなくてこっぴどく振られるシーンだ。私の場合別に恋人というわけでもないのだけど。100年以上未来の時代から来た、なんてもし自分が言われたらすぐにやばい人だと判断してしまうだろうに、どうして馬鹿正直に告白してしまったのだろう。きっと罪悪感のせいだ。早く記憶が戻るようにと気遣ってくれる音之進くんの優しさが辛かった。優しさにつけこんで利用しているみたいで自分が許せなかった。だからすぐにここを出て行くつもりだったのに、音之進くんと一緒にいるのが楽しくて先延ばしにしてしまった。そのツケが回ってきたんだと思う。これもやり直せたりしないだろうか、などと現実逃避しかけたが音之進くんがそれを許さなかった。
「何を言てるのかわからん……おちょくっと?」
「違うよ……全部、本当」
「そげなこと、あり得ん」
「……ほら、信じないでしょ」
わかっていたつもりだったけど実際にきっぱり否定されると辛い。もともとは騙していた自分が悪いにも関わらず私はいっちょ前に傷ついた。淡々と洗い物を片付け、濡れた手をエプロンで拭く。さて、部屋に戻って出て行く準備をしないと。今日はもう遅いから、明日の朝一番でご両親に話をつけることにしよう。自分でも怖いくらい冷静な頭でそう考えて未だに棒立ちしている音之進くんを放置したまま立ち去ろうとしたら、がしっと手首を掴まれた。
「……な、なんですか?」
「逃ぐっつもいか?」
「逃げるって……まあ、そうだけど。でも音之進さんが信じようと信じまいと、本当のことだし」
「そいで?」
「えっ」
「はオイが信じっでんしれったとか」
「…………わかんない。けど、それでも仕方ないと思ってる」
一瞬、手首が強く握られる。音之進くんがなにを考えているのか私には見当もつかなかった。
青い青い世界にひとりぼっちのぼくがいました::家出