やがて藍になるまで4

 屋敷内がざわざわし始め、私は自室からそろりと顔を出した。1階で数人の話し声がしている。お客様が来ているらしい。が、その雰囲気はどこか不穏だった。階段の手前まで来てその会話を拾ってみると「音之進」とか「ロシア」とかいう単語が断片的に聞こえてくるものの、具体的な内容まではわからない。とりあえず音之進くんになにかあったことだけは確かだった。もしかして事故にでも遭ったのだろうかと胸騒ぎを覚えた私は階段をゆっくりと降りた。少しだけ手が震えていたので誤魔化すように手すりをしっかりと握る。
 階下には軍人さんが何人か立っていたのでなにかあったのかと一応聞いてみたがなんだこいつ的な視線を向けられただけだった。まあ確かに私は部外者だけど……。適当にあしらわれてしまい埒が明かないので、今度は家主を探すため談話室を覗くと複数名の軍人さんが姿勢よく立っていた。すごく、入りにくい。その中心に平二さんとユキさんが神妙な面持ちで椅子に腰かけていたが部屋の雰囲気だけで何か良からぬことがあったのは明白だ。物々しい雰囲気に怖気づいた私がドアの陰から少しだけ顔を出した状態で声を掛けようか迷っていると、ユキさんが気付いて招き入れてくれた。

「あの、なにかあったんですか……?」
「こちらは?」
「……音之進の友人でごわす」
「そうでしたか。実は…………音之進さんが、誘拐された可能性があります」
「ゆ、誘拐!?」
「まだ確定ではありませんが」

 ロシア領事館の敷地の中に、音之進くんが乗っていたと思われる三輪車が見つかったらしい。私はそれを聞いてそういえば昨日から姿を見ていないな、と漸く気付いた。彼も気まぐれなので、一日中私の前に現れないこともあれば連日やたら絡んでくることもあってなかなか行動が読めないのである。毎日のように遊び歩いている様子の音之進くんだがいつも日暮れ前には帰ってきているらしく無断外泊なんて初めてのことだとユキさんが心配そうに呟く。それは初めて聞く話で私は目を剥いた。
 誘拐事件が起きたら警察が来るもんだとばかり思っていたが、鯉登邸には軍人さんばかり集まっていた。お父さんが海軍の偉い人だからだろうか。しかし犯人からの連絡もないし、ロシア領事館の中で三輪車が見つかったとはいえたしかな証拠もないので迂闊には動けないらしく、屋敷内の軍人さんたちは揃って難しい顔をしていた。もし犯人がロシア人だとすると厄介なことだ、と海軍の偉い人が唸る。もちろん私は海軍関係者なんかじゃないしこの時代の事情にも疎いからなにがどう厄介なのか詳しくはわからないけど、ざっくりいえば今日本とロシアは微妙な関係にあるらしい。暫くの間重苦しい雰囲気の中議論する海軍の輪に加わっていたけど私が口出しできるようなことは皆無だったので自室に戻ることにした。またなにもできない、というやりきれなさが襲ってくる。音之進くんはいつも私の力になってくれるというのに。




 数日後にまた軍人さんが鯉登家を訪ねてきた。初日のような大所帯ではなくなり、今日は海軍の偉い人が一人だけである。なにも進展のないままの状況を打破するため、ロシア語が堪能な陸軍の軍人さんを呼んでいるらしい。わざわざ陸軍の人を呼ぶということは相当有能なんだろうなあと想像した。例によって談話室の外で立ち聞きよろしくいつも通りを装って掃除に精を出していたら、見たことのない軍人さんに声を掛けられ、びっくりして箒を持つ手が止まる。

「鯉登大佐殿のお嬢さんですか?」
「あ、いえ……私はただの使用人です」
「失礼。私は陸軍中尉の鶴見です。鯉登大佐殿はどちらに?」

 こちらです、とすぐそこの談話室を案内したらぺこりと頭を下げられた。い、イケメンだ……!この前来ていた海軍の人たちとは違う制服なのを見るに、彼がロシア語の堪能な陸軍の軍人さんらしい。お上品な微笑みにノックアウトされた私は年甲斐もなく乙女のように赤面した。などと浮かれている場合じゃない。来た早々鶴見さんはカーテンを全て閉めるよう指示した。廊下にいた私にも声がかかり、談話室以外のカーテンを閉めていく。ここにきてようやく私は音之進くんがいないことを実感した。酷いことされてないだろうかと急に心配になってしまい手が止まる。カーテンを握りしめて彼を思い浮かべても不機嫌そうな顔ばかりだったけど、今はそれすら見られないのが辛い。私はカーテンの隙間から星の見えない曇り空に向かって手を合わせて彼の無事を祈る。
 夜が明けて、日が暮れて、そしてまた夜が来た。鶴見さんは市内の電話加入者から犯人の居所を突き止めようとしているらしい。3人が出かけてしまうと屋敷の中はしんと静まり返った。ユキさんは食欲がないらしくてあまり食事を取らない、と家政婦仲間のおばちゃんが心配そうに話していたのを思い出して私はお茶と軽食を用意することにした。今日は私以外の家政婦さんは非番の日だ。というよりも、緊急事態なので暇をやったらしい。キッチンへ足を踏み入れると、ユキさんたちがいつも飲んでいるという紅茶の缶を棚から出す。紅茶は詳しくないのでよくわからないがたしか平二さんが知り合いからもらったもので、アッサムだと言っていた。私は家政婦のおばちゃんに教わったやり方で丁寧に紅茶を淹れて、近くにあったクッキーと一緒にトレーに載せた。軽食っていうかただのお菓子だけどなにも食べないよりはマシだろう。とにかくカロリー摂取だけでもしてもらいたい。

さん……そげな心配せんでよしゅごあんが」
「いえ、私もなんか落ち着かなくて」

 力なく笑ったユキさんは音之進くんのお兄さんの話をしてくれた。年の離れた兄弟で仲は良かったらしいけど、数年前の戦争で亡くなったそうだ。人に話しているというよりは独り言に近いそれを聞いて、私は音之進くんの部屋で見た写真を思い出す。恐らくあれがお兄さんなのだろう。音之進くんが海軍兵学校の受験にあまり乗り気じゃなさそうなのも、ご両親とどこかギクシャクしているように見えるのも、お兄さんのことがあったからなのかも。身につまされる思いだったが私にはティーカップから立ち上る湯気を眺めながらユキさんの背中を擦ることしかできなかった。






「起きい」

 誰かが私の体を大きく揺さぶっている。音之進くんみたいな声だなあ、なんて思いながらまだ夢の中にいたい私は「あと5分……」とテンプレのような台詞を呟いた。だが声の主はそれを許さず私の肩を持ってぐわんぐわんと前後左右に揺らしたので堪らず目を開ける。

「……あれ、音之進さん……?」
「帰ったど」
「……ほんもの……?」
「当たい前じゃ。ねとぼけっと?」
「お……おと……無事でよかっ……!!」
「お、おい!離れろ!」

 感極まって泣きながら抱き着いたらとんでもない力で引きはがされた。なんだよ、そんな嫌だったのかとちょっと落ち込んだけどここでハグを返されたら逆に反応に困ってしまうからきっと私たちはこれで正解なのだろう。わかっていながらも私は表面だけむくれてみせる。いつの間にかユキさんと二人してソファで寝てしまったらしい。ユキさんは、と聞いてみたらついさっき平二さんが同じように起こして寝室へ連れて行ったという。

もちゃんと部屋で休まんか。風邪ひっがひっちいけんすっと」
「わ、私のことより音之進さんは……怪我とか大丈夫なの?」
「見ての通いじゃ」

 私はそれを聞くと私は安心して一気に脱力した。ずるずると床にへたり込む私の腕を音之進くんが支えてくれる。これじゃどっちが当事者なんだかわからない。

「……そげん心配じゃったか?」
「そりゃそうだよー!ほんと、もう……良かったねえ……!」
「ないごて母上より泣いちょっと……!」

 だってほんとにほんとにほんとに心配してたんだよ!と力説したら音之進くんはふっと笑って「心配させっ悪かった」と私の頭を軽くぽんぽんと叩いた。あれ、なんかいつもより素直……?彼らしからぬ柔和な眼差しに、涙も引っ込んでしまった。私がぽかんとしていたらまた元に戻ってしまったけど。5日以上も顔を合わせてなかった私にはそれすら嬉しくて無事でよかったと笑ったら、目尻に溜まっていた涙が零れ落ちた。さっきから同じような単語しか言ってない自覚はある。音之進くんは「汚なか」と言いながらも自分の服の袖で私の涙を拭い取った。

「手巾ぐれ持ち歩んだらどげんや」
「家の中で?」
「……そん衣嚢は飾いか?」
「そうじゃないけど。だいたい、家にいてハンカチが必要なほどぼろ泣きする機会なんてそうそうないし」
「他にも使い道はあるじゃろ。きざから落ちっ血まみれんなったり、包丁で指ば切ちくったりしたらいけんすっとよ」
「ちょっと待って、音之進くんの中の私ってそんな?」
はそそっかしかあ」
「……そそっかしいを通り越してる気がするけど」

 なんだか腑に落ちないけどまあいいか、と私は考えることを放棄した。今ならなんでも許せる気がする。

おしゃべりじゃない心臓に用はないのです::ハイネケンの顛末