音之進くんとの散歩はいつもルートが決まっている。まずは最初に会った場所から、音之進くんが私を見つけてくれた場所までをゆっくりと歩く。それが私の記憶を取り戻すためだと気づいたのはかなりあとのことだった。我ながら鈍いなと反省した。しかし残念ながら私は記憶喪失ではないので、ここを通る度に罪悪感で心が痛むのである。鯉登家を出て独り立ちしようと思ったのもこれが理由の一つだ。仕方のないこととはいえ騙していることにかわりはなくて、私は日々後ろ暗さを感じていた。そうとも知らず、純粋な音之進くんは私の記憶が戻るよう願ってくれている。音之進くんが無事兵学校に合格したら、私も出て行く口実ができる……それが誰も傷つかない、平和的で最良の方法だと私は信じて疑わなかった。
定番ルートの巡回が終わると、あとはその日の気分で箱館山の方に行ったり五稜郭方面を散策したりで特に決まりはない。ただぶらぶら歩いたり買い食いしたりして、飽きたらなんとなく家路に着く。それでいいのか受験生、と何度も思ったけれど、もしかしたら家に居たくないのかななどと邪推してしまう。ご両親は優しくて良い人だけれど、どこか距離があるような気がした。それでも私には住み込みの使用人としての仕事を全うすることしかできなくて、あの写真を見たときみたいな歯がゆさを感じた。
「船見に行かない?」
「昨日来たばっかいじゃろ……」
「そうだけど。じゃあ音之進くんはどうなの?」
「公園はどげんな」
「あ~、あの坂がやばいところにあるやつね」
「はほんのこて体力なかじゃの」
いや社会人って大変なんだよ。仕事が忙しくて運動する時間どころか趣味の時間さえ取れなかったりしてね、と言い訳したいのをぐっと飲みこむ。そういや私も学生の頃先生に向かって同じようなこと言ったななんてふと思い出して静かに落ち込んだ。そうか、これが大人になるってことか。でも音之進くんもきっといつか私の気持ちがわかる時がくると思うと少しだけ心が穏やかになる気がした。若いのは今のうちだけだぞ。とは言っても別に坂を上ること自体に反対するつもりなどなかったので私と音之進くんは元町方面へ足を向けた。その途中に通りがかった函館港で音之進くんが「の好っな船じゃ」と指さすので、私は船が好きだったのかと自問する。どうやら連日船を見たいと言ったせいで勘違いされているらしい。まあ嫌いというわけではないのだけど、すごく好きということもなくただ単にこの時代の船が珍しかっただけなので複雑だ。お、おう……と微妙な反応を見せた私に音之進くんの冷ややかな視線が飛んでくる。わ~すご~いとでもはしゃいでおくべきだっただろうか。棒読みになる予感しかしないけど。私はすぐに切り替えて港を行き来する船を歩きながら横目で観察した。
「音之進くんもいつかあれに乗るのかな」
「言ておくがあや軍艦じゃなかよ」
「そうなの?」
私には軍艦とそれ以外の船の区別なんてつかなくて、全部同じに見える。そう言ったら呆れられるかな、と思った私は黙って音之進くんを追いかけた。
元町は教会やら領事館やらが点在する、異国情緒溢れる場所だがどこも坂道だらけだ。でもその分坂の上からの景色は格別だということを音之進くんは教えてくれた。初めて見たあの景色は色んな意味で忘れられない。綺麗だね、と隣の音之進くんに感想を呟いたらちょっと照れていたことも。どうして音之進くんが照れるのかちょっとよくわからない。そのある意味思い出の坂の前に立って私は頂上を見上げる。奥に見える函館山はこの時代にはまだロープウェイもなくて、そもそも民間人は立ち入り禁止らしい。現代みたいな煌びやかな夜景は期待できないけど、それでも絶景なんだろうなあなんて想像しながら私は急な上り坂を一歩一歩進んだ。実際の距離自体は大したことないはずなのだけど、傾斜が急なので思った以上に体力を奪われる。重い足取りでゆっくり歩く私と違って、音之進くんはすいすい進んでいくせいですぐに距離が開いていった。
「ちょ、ちょっと、休憩、しない?」
「もいっきじゃ」
少し先に居た音之進くんは立ち止まって息を整える私のところまで戻ってきて腕を掴んだ。お、鬼か……!休憩なしのスパルタ鬼教官に手を引かれ、私は再び歩き出す。引っ張られている分だけ一応足を動かすことはできているけど、今手を離されたら後ろに倒れて一気に転がり落ちる自信がある。私は筋肉痛の気配を察知した。彼の言う通りほどなく頂上に着いたけど今の私は景色を見るより呼吸を整える方が優先事項だったのでその場に座り込む。頭上から「いたいもね」という呆れ声が聞こえた気がした。意味はわからないがたぶん体力のなさに呆れられているのだと思う。全くその通りなのでなにも言い返せないしそもそもそんな元気もない。数分そうした後で来た道を振り返ると以前と変わらない綺麗な景色がそこにあった。綺麗、と無意識に呟く。
「ここたい、桜島にちっと似とる」
「そうなんだ。私も見てみたいな」
「……オイが、いつかてのますいが」
「なんて?」
「…………オイとわいで、桜島来っが、ちゅたんじゃ」
「……楽しみにしてる」
元の世界へ帰るという目的は、こちらに来てから一度も忘れたことはない。私のことを記憶喪失だと思っている音之進くんや、ご両親には申し訳ないけどできることなら今すぐにでも帰りたい。帰ると言っても手掛かりもなにもなくて、探すにもなにをしたらいいのかすらわからないから結局私は毎日鯉登邸の掃除をして、音之進くんと街を散策して、の繰り返しだ。それはそれで充実した日々と言えるけれどやっぱり心のどこかではこの世界に自分の居場所がない気がして憂鬱になるときがある。音之進くんが故郷を案内してくれる日が来るというのはつまり帰る手立てが見つからないままということでもあり、楽しみというのは本当だけど嘘でもあった。憂鬱だ。家に帰れないことも音之進くんたちに嘘をついていることも優しくされることも。堪りかねて自白する犯罪者ってこんな心境なんだろうか。流石にそこまで罪深くはないと思いたいけれど、何も知らない音之進くんを見ていると良心の痛みが自分の中で増幅していく。
「は、どっから来やったんじゃろ」
「……そんなの、私が聞きたいよ」
「記憶が戻ったら、帰っとよ?」
「そりゃ、まあ……」
「……もし…………」
「ん?」
「…………なんでんなか!」
音之進くんはそのままそっぽを向いて歩きだした。今日の目的は坂を上ることじゃない。その先にある公園だった。私は置いて行かれないように慌てて音之進くんを追いかける。彼は何を言おうとしたんだろう。帰ることになっても友達でいてくれ、とか?いやそもそも私たち友達なんて呼べるのだろうか。どう考えても私と音之進くんの関係は雇われ家政婦とその雇用主の息子である。こんなこと言ったら怒られるだろうから絶対言わないけど子守みたいなものだ。そうじゃなかったら……恩を忘れるなとか……いやこれはないな。音之進くんは恩を着せるタイプではないというか、結果的にそうなったとしても「自分がしたいからそうした」と言うような自己完結タイプだと思う。きっと私が急にいなくなっても恩を仇で返しやがってとか怒るどころか、そういえばそんなやつもいたな、なんて頭の片隅にちょっと残るけどそれだけの影の薄い存在になってしまうに違いない。それに彼はこれから海軍将校になるのだから私のことなんか思い出す余裕もなくなってしまうはずだ。
無言で突き進む音之進くんを追いかけながらごちゃごちゃと考えていたらあっという間に目的地へ着いてしまった。函館山の麓にある公園からも函館湾を眺めることができる。私たちは公園内の丘に腰を下ろして持参したお菓子の包みを開けた。美味しいと評判の和菓子屋さんで買ったお団子である。どうぞ、と言って差し出したら音之進くんはあんこのたっぷりついたお団子を持ち上げて頬張った。
「おいしい?」
「うめ」
「よかった。ありがとね、音之進くん」
「……ないよ?」
いついなくなるかわからないから、先に言っておくね。などとは口が裂けても言えないので笑って誤魔化すと怪訝な顔をされてしまった。実際のところ、私が突然消えたらどんな反応をするのかは興味がある。少しくらいは寂しがってくれるだろうか。なーんて、結局寂しがるのは私の方かもしれないけど。
「変なおなごじゃ、は……」
「音之進さんだって十分変だよ」
「なんちな?」
「だって普通、どこの馬の骨かもわからない人を家に上げたりする?」
「……あっでな、オイはどうかしちょっ」
「認めるんかい」
「わいがおかしか様子じゃっで、気いかかっしもた」
「……ま、まあ結果的に助かったからこっちは有難いんだけどさ、もし私が凶悪な犯罪者だったりしたら危ないでしょ」
「オイを誰だと思っちょる?こいでん海軍大佐ん息子じゃ」
私はこの前見せてもらった剣術を思い出してあー、と唸る。随分自信満々ですね、くらい言えたら気持ちが良いんだけど、残念ながら私には剣術の心得も武術の心得もないので煽りまくって決闘でも申し込まれたら瞬殺される未来しか見えない。
「たしかに、あれすごかったよ、あれ……なんだっけ、剣道」
「自現流じゃ」
「そうそう。あれ脳天に食らったら死ぬよね、たぶん」
「……昔、素手で止められたこっがある」
自現流と聞くと幕末とか明治の物語に出てくるとんでもなく凄いアレというかなりふわふわした知識しか持ち合わせていないのだけど素手で止めることが可能とは驚きだ。ただし一口に自現流と言っても色々種類があるらしく、私にそのあっさい知識を植え付けた漫画やら小説やらに出てくるのが音之進くんと同じなのかはわからない。その人を思い出しているのか、音之進くんは物思いに耽っていた。負けず嫌いな音之進くんのことだからさぞ悔しかろうと思いきやその表情はやけに穏やかだ。なに、その恋する乙女みたいな愁いを帯びた瞳は……。一体どんな超人だったのかと聞いてみたけど、鹿児島で偶然出会っただけで名前も知らないおじさまらしい。自現流を素手で受け止めたのもそうだけど、我の強い彼を乙女モードにさせるなんてたしかに只者じゃないなと私は苦笑した。
ゆがむ、にじむ、あるく、えらぶ::ハイネケンの顛末