やがて藍になるまで2

「音之進さ~~ん」

 固く閉ざされたその部屋の扉をリズミカルに叩きつつ、部屋の主の名を呼ぶ。応答はないがめげずにコンコンコンコンコンとしつこくノックしていたら中から物音がして、直後に扉が勢いよく開けられた。超不機嫌顔(なのはいつものことなのでもう慣れた)の音之進くんがどす黒いオーラを背負って私を見下ろしていたが気にせず笑顔で「おやつの時間ですよ」と言い放つ。いつの頃からか、音之進くんへ3時のおやつを運ぶのは私の担当になっていた。よく一緒に出掛けているせいで仲良しだと思われているらしい。が、現実はただ強制連行されているだけであり仲良しとは程遠いことを家政婦のおばちゃんたちは知らない。このおやつも試験勉強の息抜きという建前ではあるが、私は彼が勉学に励む姿をまだ直接見たことがなかった。
 私のしつこさに根負けして扉を開けてくれたもののすぐに「いらん!」と叫んで閉められそうになったので、こちらも負けじと扉の隙間に足を挟んで阻止しようと激しい攻防戦が繰り広げられた。まるで子供だ。足がぎりぎりと容赦なく締め付けられるせいで涙が滲んだ。どんだけ入れたくないんだよ。エロ本でも隠してるのか?この時代に私の想像するようなエロ本があるのかは知らないけど。もう何度目かは忘れたが扉越しの喧嘩はいつものことで、最早様式美である。

「ちょ、待って、マジで痛い……べ、別に私は入れなくていいから、おやつだけ受け取ってくれません?」
「……」
「今日はマシュマロですよ!ほら!」
「……ちっと待っちょれ」

 私は素直に頷いて、足を引っ込める。ぱたん、とドアが閉められたので律儀に廊下で待機した。紅茶の良い香りがする。このまま永久に開かない可能性もあるなあなんて脳内で苦笑いしていたが暫くすると再びドアが開いた。ほっとしてお茶とお菓子の載ったトレーを渡そうとしたら「入れ」と言われ、一瞬その言葉が理解できずつっ立っていたら怒られてしまった。一体どんな心境の変化があったのかわからないが、部屋の主に入室を許可された私はそろりと足を踏み入れる。なんだか悪いことをしているみたいだ。実は音之進くんの部屋に入るのは初めてなのでついキョロキョロと室内を見渡していたら睨まれてしまった。

、マシュマロば食もったことあるか?」
「……な、ないよ」

 日によって洋菓子だったり和菓子だったり様々だがそれが洋菓子だった場合、迂闊に食べたことがあるなどと言ってしまうのは危険だ。明治は洋菓子が製造され始めた時代であり、一般に販売されているとしても非常に高価な場合があるので注意が必要である。うっかり口を滑らしてしまったらあとで言い訳が面倒だ。もちろんマシュマロは現代のものを食べたことがある。けど、「この時代のマシュマロは」食べたことがないといえばある意味嘘ではないのかもしれないなどと心の中で言い訳してそう答えた。音之進くんは疑いもせず「オイも初めっじゃ」と呟いてマシュマロを観察している。ちなみにおやつとして出される洋菓子は音之進くんのお父さんの出張土産であることが大半で、それもやたら高級そうなものばかりであることを付記しておこう。

「こげん食きらん。わいも食え」
「え……」
「いらんのか?」
「音之進くんって、意外と小食?」
「……そげなつもりはなか」
「これくらいぺろっと食べられるでしょ」
「ばかたれが、いめっが入らなかやいけんすっと!」
「いめってなんだっけ?」
「…………ままじゃ」
「あ、そういうこと……じゃあ遠慮なく」

 どうやら音之進くんは一度お菓子の封を開けたら手が止まらなくってしまう私とは違いきちんと節制できているらしい。この時代の洋菓子には興味があるのでお言葉に甘えることにした。私はテーブルにトレーを置くと音之進くんの部屋をくるりと見渡す。室内は広くて、他の部屋と同じようにおしゃれな家具で揃えられていた。物が多い印象はあるがきちんと整理整頓されているな、と謎の上から目線で感心する。くるりと一周してから、私は窓辺の写真立てにふと目を止めた。引き寄せられるように近づいて良く見るとユキさんに似た男の人が写っていて、その隣には今よりも幼い音之進くんらしき子供も並んでいる。当たり前だが写真は白黒だったのでなんだか不思議な感じだ。お兄さんだろうか?と尋ねようとしたとき、後ろから腕が伸びてきてその写真立てを伏せてしまった。どうやら見られたくないものらしい。音之進くんは特になにも言わないので、私も敢えて詮索しないことにした。

「さるくな」
「ごめんごめん、ちゃんと片付けてえらいなーって」
「……こどんあっこすっな」
「してないしてない」
「部屋ん中そげんあまりじろじろ見っでね!」
「エロ本でも隠してるの?」
「ないよそんた……?べ、べちげんねもんはなか!」
「心配しなくてもガサ入れなんてしないから」
「ないよ?」
「そ、それより、受験勉強は順調?」
「……わいには関係なか」
「大ありだよ!受かったら家出ちゃうんだから、私もそれまでに次の仕事見つけないと……」
「ないごてじゃ?」
「だって、ここに置いてもらってるのは音之進くんのお情けだし」
「ずっともどらんわけじゃねんじゃっで、そがましか……」
「そうは言ってもこっちは気にするんですよ」
「まだ通っかもわからん」
「海兵学校に行きたくないの?」
「そうじゃねどん……」
「じゃあ受かるって思ってないとだめだよ。ほら、言霊ってあるし」
「……わ、わかった」

 受験の話をすると途端に歯切れ悪くなるのはどうしてだろう。お父さんとどこかぎこちないのも関係しているのかな、と気になりはするもののそこまで踏み込めるほどの鋼のハートは持ち合わせていない。どちらにせよ家庭の事情を詮索するなんて悪趣味この上ないので仕方がないと諦めた。私はただの家政婦だ。余計なことを気にするなと自分に言い聞かせる。それに音之進くんが進学しようがしまいが、出て行くのは最初から決めていたことだった。音之進くんたちにはまだ言っていないけど、実は住み込みのバイトを探している。記憶が戻るまでいてもいいと言ってくれたことにはとても感謝しているけど、だからと言っていつまでも甘えているわけにいかない。私だっていい大人なのである。自分のことは自分でなんとかするべきだ。それがたとえ、自分でどうしようもない出来事であっても、だ。短い間とはいえ頼るあてのない私に住処を提供してくれたのはとても大きなことだった。音之進くんはなにかと街まで連れて行ってくれるから周囲の状況を把握することもできたし、きっと一人でもやっていけるはず。問題なのは元の世界に帰る方法を見つけることだ。
 テーブルの前に座ると音之進くんはおしゃれなガラス製のお皿に盛りつけられたマシュマロをひとつつまんで自分の口に入れた。余談だがこのガラスのお皿はとんでもなく重い。ミステリードラマなんかで出てきたら凶器はこれだと疑われそうなほどごつい外見をしている。これもこれでお高そうである。音之進くんがマシュマロを味わう様子をなんとなく眺めながら、この時代のマシュマロは自分が食べたことのあるものと同じ味なのだろうかと想像する。私の視線に気づいた音之進くんはお皿を私の方へ寄せた。そんなに物欲しそうに見えただろうか。断る理由もないので一言お礼してから同じようにマシュマロを口に放り込む。すっごい甘い。まあマシュマロだから当たり前なんだけど。

「受験ってどんな科目があるの?」
「どげなて……数学とか、英語とか……」
「へえ~……あっ、ねえこれ竹刀だよね?剣道やってるの?」
「そんた木刀じゃ……うな、勝手に触っな!」
「音之進くん!ちょっと振ってみせて!」

 部屋に立てかけてあった竹刀……木刀を発見してテンションが上がってしまった私は木刀を彼に手渡した。何の気なしに手に取った木刀は想像より重たくて、これを振り回して稽古しているのかと感嘆する。その時点で尊敬に値するほどだ。音之進くんは何か言いたそうに微妙な表情で私を見ていたが、やがて諦めたのか溜息を吐いてそれを受け取る。「あっねからはなるっちょけ」と言われ、意味はわからなかったがたぶん離れてろ的なことだろうと勝手に解釈した私はお菓子を乗せたトレーとともに壁際へ下がった。怒られなかったので恐らく正解だろう。まるでホームステイでもしているようだ。東と西でここまで言葉が違うものかと最初は戸惑ったが最近では意味はわからなくても強弱や表情なんかで判断できるようになってきていた。私が離れたのを見届けて音之進くんは木刀を構える。流石に様になっているなと、その横顔をじっと見つめてみたけど音之進くんはいつもみたいに顔を赤らめたりも怒ったりもしなかった。ぴくりとも動かず、どこか一点を見つめている。緊張感が伝わって私もつい息を潜めた。沈黙のあと、音之進くんは大きな掛け声とともに木刀を振り下ろす。あまりにも大きな声だったので私は肩を揺らすほど驚いたが音之進くんは集中していてこちらの様子など気にしていなくて、そのまま数回空を切ってから静かに木刀を下ろした。

「……こいでよかとか」
「すごい、かっこよかった!」
「ほんのこちな……?」
「うん、ありがとう!」
「……は強かもんが好っか」
「え?まあ、そりゃ……弱いよりはいいんじゃないかな?」

 正直なところ私の居た時代では誰かに守ってもらう場面というのがなかなかレアケースであって強い人が好きというのもあまりピンときていないけれど世間一般的にはきっとそうなのだろう。いや、もしかして強い人とは精神力を意味しているのだろうか?「強い」という一見確かなようで単体だととんでもなく曖昧な形容詞に私は今更ながら頭を悩ませる。一方の音之進くんはちょっと嬉しそうに口元を歪ませていて、その年相応な表情に思いがけず心が温まるのを感じた。いつもこう素直ならかわいいのに……と言いかけた私は慌てて口を噤む。男の子にかわいいなんて失礼だよね。ましてやプライドの高い音之進くんだから、機嫌を損ねてしまうのは必至だろうし。

「よし、出かくっぞ
「いや勉強は」
「帰ったややる」
「受験生の発言とは思えない……」
「いっきもどっから問題なか」
「う、うん……?」
「……わかっとらんがやろ」
「そ、そんなことないよ!少しならわかる」
「早くせ、よがへっど」
「……はあ~い」

 食器を下げにキッチンへ行って事情を説明したら笑いながら送り出された。これ結構恥ずかしいんだからな!

それって、わたしだけ?::家出