やがて藍になるまで1

 その日私はいつものように電車に乗るためホームの先頭に並んでいた。いつもと違ったのは、電車のライトが間近に迫ったとき何か強い力に押されて線路へ落下したことだ。咄嗟に足を踏ん張ったが間に合わない。私は呆気なく線路へと落ち、痛みを感じる前に死の恐怖で頭がいっぱいになった。極限の恐怖を味わうと誰しも体が竦むものなのだろうか。そんな経験今までなかったから知らなかった。逃げないといけないことはわかっていたのに体が動かず、電車の警笛を聞きながらぎゅっと目を瞑った。




 覚悟していた衝撃と痛みが一向に襲ってこなかったのでそーっと目を開けると、不思議なことにそこは駅でもなければ見慣れた街の風景でもなかった。一言で言えば知らない街である。全体的にどこか古めかしい、というのが第一印象。次に車が走っていないことに気付く。極めつけは馬車だった。公道を馬車が走るなんて、パレードかなにかでしか見たことがないというのになんだここは。状況が飲み込めないまま路上で立ち往生している私に男の子が声を掛ける。
 声を掛けてきたといっても、彼の第一声は「なんしょっとか!はよどけ!」だったので罵倒されたと言った方がしっくりくる気がする。普段ならカチンときていたかもしれないが混乱していた私はすいませんと咄嗟に横へ避けた。そして一瞬遅れて怒りがこみ上げて随分口の悪い子だなあと少年を振り返る。この際私が往来のど真ん中を占領していたのは棚の上だ。すると予想外なことに少年もこちらを見ていたせいで、私たちはばっちりと目を合わせた。理由はたぶん、私の服装が彼から見て変てこなものだったからだと思う。少年の服装も私からすると大分レトロだけど、それを抜きにしてもこの空間で私がひと際浮いているのはすぐにわかった。

「……おかしかふっじゃ。外国のもんか」
「いや、日本人ですけど」
「そげな変な日本人見たことなか」

 随分と訛りが強い。恐らく西の方のそれを操る少年の言葉は標準語に慣れ親しんだ私にはところどころしか解読できなかったのでつい聞き返しそうになったが、今はそれどころじゃないと我に返る。

「あ、あの、ここってどこかな?」
「まぐるっとか?」
「……ま、まぐ……?」
「……てせ」
「え、駅に行きたいんだけど」
「駅ならあすこじゃっど」
「えっ!?あ、ありがとう!」

 あまり意思疎通できている気はしなかったが、ともかく彼が指さした方に駅があると言うので私は慌てて駆けていく。駅に行けば現在地がわかるはず。

「……馬車じゃん」

 漸くたどり着いた駅で見たのはかご状の乗り物を馬が引く姿だったので、つい口に出してつっこんでしまったがもちろん誰も聞いちゃいない。いや駅は駅なんだろうけど!と再び声を上げそうになったがその足元を見るとレールらしきものが敷いてあったので路面電車、のようなものかもしれない。いやこの場合路面馬車だろうか。しかし私が探しているのは馬が引く路面電車ではなく、普通の鉄道だ。まさか駅の場所を尋ねたら馬車の停留所を教えられるとは思うまい。そもそも近所にこんなものがあっただろうか?と私は首を傾げる。

「……す、すいません……ここって今どの辺ですか?」
「五稜郭の近くだよ」
「…………え、それもしかして北海道……」
「当たり前でしょ。あんた観光客じゃないの?」

 道行くおばさんの言葉を聞いた私は一瞬頭が真っ白になった。どういうことだろう。このレトロな街並みといい、現在位置といい、あり得ないことばかり起こっている。急いで携帯を確認しても、当たり前のように電波はなく圏外の2文字が表示されていた。そうか、これは夢か、夢だろ……そうじゃないと困る。眩暈を起こした気がしてふらふらと人目につかなそうな場所を探し、ゆっくり座り込んだ。
 なにもしなければ家に帰れないのだけれど、なにをすればいいのかわからない。一体なにが起こっていて、どうすれば元に戻るのか、なにもわからない。私は絶望的な気分で電波を受信していない携帯のホーム画面をぼんやりと目に映した。それから街並みをもう一度眺める。見知ったコンクリートジャングルではない、茶色の世界。ここはたぶん、昔だ。タイムスリップとは人類の夢である。そんな貴重な体験ができたのに手放しで喜べる気分なんかじゃなくただ不安と心細さで押しつぶされそうになり、私は体育座りの体勢で膝を抱えた。よく見たら両膝を擦りむいている。認識した途端膝がピリピリと痛みだした。電車に轢かれなくてツイてるんだかツイてないんだかわからない。どうやってタイムスリップしたのか?どうしたら帰れるのか?疑問は湧いてくるけど答えが導き出せないことに無性に腹が立つ。色んな感情が一気に押し寄せて面倒になった私はひと眠りして、目を覚ましたら戻っているかもと現実逃避して目を瞑ることにした。



「生きちょっか」

 訛りの強い言葉と、肩を揺さぶられた感覚で意識を戻した。寒い。ひんやりとした外気に一度体を震わせる。真っ暗になった街の路地裏でゆっくり顔を上げると、昼間出会った少年が私の肩に手を添えていた。ということは、まだ元通りにはなっていないらしい。その事実にがっかりしつつ、見つけてもらえたことに少しだけ安堵する。

「……ないごいよ」
「……?」
「……言ごちゃねんならよか」
「どうして、ここに」
「おかしか様子じゃっで、きいかかってみしけかたが。いっとこいあっとよ?」
「……帰りたい……」
「怪我しちょんな。げえはどこじゃ」

 やっぱり何を言っているのかところどころしかわからない。会話の流れ的に帰るところを聞かれているのだとは思うが言っても伝わらないだろうことは直感でわかった。推測が正しければここは昔の日本で、つまり私の帰る場所などどこにもない。首を横に振ると少年が立ち上がって手を差し伸べる。「け」と言われて頭にはてなを浮かべていたら無理やり手を取られた。彼は気が短いらしい。どうやらついてこいということらしいが、知らない人についていくことに抵抗があってその場から動けなかった。知らない人にはついていったらだめだって、親に口を酸っぱくして言いきかされていたからな。だが一方でもしかしたらこの状況を打破できるかも、なんて淡い期待も浮かんでくる。暫くの間少年の手と顔を交互に見てどうしようかと迷っていたけれど、彼の真っ直ぐな目を見ているうちにどうにでもなれという気分になってきて結局立ち上がった。
 少年は鯉登音之進と名乗った。古風だけど少し洒落ていて、きっと良いところのお坊ちゃんなんだろうなと思わせるような名前だ。それは私の想像にすぎなかったが、音之進くんの自宅へ連れてこられると現実のものになる。音之進くんは豪邸といって差し支えない豪邸に躊躇なく足を踏み入れていった。自分の家だと言いつつ、音之進くんは泥棒のように裏口からこっそりと入っていく。キョロキョロと慎重に周りを見てから私にも入ってくるよう促した。私たちは物音を立てないようゆっくりと廊下を進んだが、木造故に床の軋む音だけはどうしようもない。5、6歩進んだところで途中のドアが開き、白いひげを生やした強面の男が顔を出した。

「……父上」
「えっ!」
「……こげな時間までどけ行っちょった……」
「あっ……あの!」

 音之進くんが叱られる雰囲気を察した私は先手を打つ。

「実は私記憶喪失で……お、音之進さんに助けてもらったんです!」
「……そなとじゃっとな、音之進」
「……は、はい」
「もう遅せから、今日は泊まっていきなさい」
「……でも」

 良いのだろうか、と答えに困っていると音之進くんのお父さんに説得されてしまい遠慮がちに頷く。どうも親子揃ってお人よしなようだ。私にとっては願ってもないことだったが翌日には警察へ行くことになるだろう。そして警察に行っても身元がわからないまでがセットである。だって最初からそんなものはないのだ。そう考えると寝るのも憂鬱で、私は用意された客間の窓辺で長い間窓の外を眺めて時間を潰した。窓の外には街があるはずだが、灯りはまばらで月あかりの方が眩しく見える。車の音も聞こえない。念のため再度携帯の電波を確認するが、さきほどと変わらない結果だった。これからどうしようと途方に暮れていたらドアがノックされたので私は恐る恐るドアを開けた。廊下に立っていたのは音之進くんで、険しい表情をしてこちらを見ている。怒っているのか、これが素なのか判断しかねる。

「ど、どうしたの……?」
「痛てかじゃろ」

 音之進くんが指さすので私は膝を擦りむいていたことを思い出した。いつ怪我したのかは覚えてないけど、たぶん線路に落ちた時だろう。それ以上の非常事態だったとはいえ、今の今までほぼ痛みすら感じなかったなんて情けない。ということは、彼が抱えているのは薬箱だろうか。貸してくれるのだろうと考えて「ありがとう」と両手を差し出してみたが音之進くんは口をへの字に曲げただけだった。なんでだよ。天邪鬼だなあ、なんてこちらもむっとしながらじゃあ目的はなんなんだと問う前に音之進くんの方が口を開いた。

「見せろ」
「……もしかして手当してくれるの?」
「はっぽからじゃらいち言うとったど」

 なんだかよくわからないがそういうことらしい。どうぞ、というのも変だがそうやって音之進くんを部屋の中へ入れるとベッドに座れと顎で示されたので大人しく腰掛けた。すっかり乾いてしまった血が膝にこびりついている。うわあ痛そう。今更ながら傷口を目の当たりにして私は顔を顰めた。音之進くんは薬箱から道具を出すとてきぱきと手当を始める。消毒液らしき液体が傷口に触れると、ぴりっとした痛みを感じて少しだけ声を上げた。良い年して恥ずかしい……。音之進くんも一瞬手を止めたけどそのあとは淡々と消毒を続行して丁寧に両膝へと包帯を巻いてくれた。擦り傷ごときで大げさな気もするけど、彼の優しさが嬉しかったので何も言わないことにする。

「ありがとう」
「風呂入って早よ寝ろ」
「……はーい」

 良い子なんだろうけど、表情と言動で損してるような。老婆心でアドバイスしたくなったけどさすがにおせっかいがすぎるのでやめておこう。音之進くんがいなくなるとまた室内がしんと寂しくなる。私は明日からどうすればいいのだろうと、これからのことを考えたがやっぱり答えは見つからなかった。



 いつの間にか眠ってしまった私はドアがノックされる音で目覚め、冷え切った体を擦りながらドアを開ける。訪ねてきたのは音之進くんだった。

「出かくっぞ」
「……はい?」
「はよせんか」

 音之進くんは昨日出会った交差点まで私を連れ出した。元気づけようとしてくれているのだろうか。口も悪いし常に険しい表情をしているから誤解してしまいそうだが、きっと根は優しい人なのだろうと、私は少し先を行く音之進くんの横顔を見つめる。昨日夜遅くに自分を探してくれたことがそれを証明していた。しかも素性もわからない私を家に泊めてくれるなんて、見ず知らずの他人にそこまでできるだろうか。たぶん現代でいうと中学生か高校生くらいかなと思いながらついつい凝視していたらその顔が赤く染まった。あ、もしかして照れてる?

「じろじろ見っな!」
「あ、いや、綺麗な顔だなと思ってつい」
「……なっ……」

 反応を見るに、こういうことは言われ慣れていないらしい。漸く不機嫌以外の表情が見れたのが嬉しくてつい笑うとそれが気に入らなかったらしく「もう知らん」とそっぽを向いてしまった。私は彼の隣へ小走りで並び、ごめんねと手を合わせてみる。音之進くんはちらりと横目でこちらの様子を伺ってまた視線を逸らした。

「別に……はらけとらん」
「なんて?怒った?」
「じゃっで、はらけとらん!」
「……なんて言ってるかわかんないんだけど、それ、方言だよね」
「鹿児島じゃ」
「ああ、なるほど」

 やっぱり九州の方言だった。それがわかったところで結局何を言っているのかはわからないのだけど。昨日私が音之進くんに声を掛けられたのと全く同じ場所に着くと、二人並んでその街並みを眺める。昨日と全く変わらない景色だった。

「ないか思い出したとか?」
「なにも……」
「……」
「音之進くん、いろいろありがとう。本当はお父さんにもちゃんとご挨拶したかったんだけど……帰ったらありがとうって伝えておいてくれる?」
「ないの話じゃ」
「いやだから、ここでお別れを」
「記憶がなかてどけ行っとよ?戻っまでオイのげえにおったらよか。父上にはオイかあ頼んでやっど」
「……えーと?」
「オイの家にけ!」
「…………え」

 音之進くんは私の腕を掴んで言った。たぶんだけど、家にいて良いってこと、だと思う。これ以上迷惑かけるわけには、と断ろうとしたけどその目があまりにも真剣だったので気圧されて静かに頷く。有難い、のだけどここまでしてくれる理由がわからない。音之進くんは私が頷いたのを見届けてから歩き出した。

「ないか思め出たら言え」
「……ありがとう」
「なっかぶっちょっど」
「…………ごめんなんて?」
「……」

 そんな顔されてもわからないもんはわからない。聞き返したけど音之進くんは解説してくれなかったので結局最後になにを言ったのかはわからなかった。音之進くんはそれから昨夜再会した場所までを一緒に歩いてくれたけど、私が首を横に振ると少しだけ落胆したような表情を見せたので正直嘘をついている罪悪感がすごい。相変わらず険しい表情のままなのに「心配せんでよか」と慰めるような優しい言い方をされたせいで色んな意味でどきっとした。





 音之進くんがどうやってご両親を説得したのかはわからないが、私は鯉登家の家政婦をやることになった。ちょうど欠員が出ていたらしくその座に滑り込んだかたちだ。運が良すぎて自分でも怖い。なにか悪いことの前触れでなければいいけど……いやフラグを立てるのはやめておこう。音之進くんに得意気な顔で「今日から俺の家の掃除をやれ」と指をさされた時は笑ってしまった。なんだこの超展開。いや有難いんだけどさ。彼がいなければ確実に路頭に迷っていただろう私は感謝してもしきれない。
 鯉登邸は洋風の広い建物で内装も和洋折衷といった具合だがどれも高価そうなものばかりだ。万が一壊したりしたら一生かかっても弁償できないんじゃないかと慄きながら小物の埃を落とし、モップをかけていく。表も丁寧に箒をかける。それが私の新しい仕事になった。なかなかの重労働だが掃除自体は嫌いじゃないので苦役ではない。元の時代に帰りたいという焦燥感は抱きつつ私はなんだかんだ充実した生活を送っていた。ひとつ困りごとがあるとすれば音之進くんだ。彼はなにかと絡んできては仕事の途中だろうとお構いなしに私を街へ連行していく。幸い他の家政婦さんたちも仕方ないわねえといった感じで今のところ微笑ましく見守ってくれているけれど、私はいつ職務放棄でクビになるかとヒヤヒヤしているので勘弁してほしい。できればもう少し頻度を考えてくれ。

、出かくっぞ」
「……私仕事中なんですけど」
「ちっとどましれっど、行っぞ」
「拒否権ない感じですか……」
「ないか問題でもあっとよ?」
「大ありですよ!仕事中なんですってば!ちょ、」
「いっきもどいが」

 やっぱり拒否権などないらしく、私の手からモップを奪い取った音之進くんはそれをほっぽって今度は私の腕を引っ張りぐいぐい進んでいく。後ろで家政婦仲間のおばちゃんが「いってらっしゃいませ」と私たちを笑いながら見送った。絶対おもしろがってる。

フロンティア・ライン