やがて藍になるまで10.5

※10話の〇ヵ月後のお話





 目の前のテーブルにどさっと大量の本が積まれる。え、なにこれ?と私が尋ねるより早く「以前言っていた外国の物語だ」と得意げに解説された。私が元の時代に戻る手がかりになるんじゃないかと、かなり前に調べてくれたタイムスリップ物の小説らしい。その時は経済的な理由でお断りしたはずなのだが、これは一体どうしたことか。

「父上に頼んじょったんが昨日届った」
「……そうじゃなくて、前にいらないって言ったよね?」
「ぜんこっなら心配せんでえ。わいはもうけねじゃ」
「……余計な気を使わなくてもいいって、何度言えば」
「オイが勝手にやっちょっち、何度言えばわかっと」

 私は言葉に詰まって頷いた。音之進くんはずるい。恩返しする暇も与えてくれないなんて。不機嫌を露わにしたけど音之進くんは知らん顔で一番上の本を手に取ってパラパラと捲った。私も内容が気になったので不貞腐れるのを中断して隣に並ぶ。中身は全部英語だった。ああ、うん……わかってたけどね。全然読めない。しかし音之進くんは神妙な面持ちで英字の本とにらめっこしている。

「音之進くん、英語わかるの?」
「やっど」
「すごいね」
「当然じゃ」
「謙遜は一切しないスタイルなんだ」
「自信ね男よりマシじゃろ?」

 まあ音之進くんが謙遜する場面なんて思い浮かばないんだけど、鶴見さんの前ではするのだろうか?彼の鶴見さんLOVEは相変わらずで、任官してからそれが増したような気がする。手紙の内容は8割鶴見さん関連だし、雑談していてもいつの間にか鶴見さんの話題にすり替わっていたりするし。念願の第七師団に入ることができてさぞ嬉しいのだろう。しかしどこで手に入れたのか、鶴見さんの写真まで持ち歩いているのには流石に苦笑した。どこのアイドルだ。
 現代のときには普通に使っていた和製英語だったり日本独自の使い方をするような英語だったり、そんな音之進くんからしたら変てこだと思われる言語も最近ではつっこまれることもなくなった。それどころか意味を尋ねてくるものだから、それ、他の人の前で使わないでねと私はハラハラしながら毎回くぎを刺す。恐らくこの時代なら外国語にも寛容だとは思うけれど、それでも現代のような使い方はしなさそうだし……陸軍の中で偉い人とかに不信感を持たれては大変だ。音之進くんは普段子供っぽいところもあるけどもともと賢い人だしそれがわからないわけでもないはずなので、心配しすぎなのはわかっている。

が来っとっはどげなやった?」
「電車に乗ろうとしてホームに並んでたんだけど、背中どつかれて線路に落ちちゃって目を閉じてたらそのまま、って感じ」
「ないか装置がいごっでたわけでんなかか」
「た、たぶん……」
「こん物語ん主人公は気絶れっるうちに過去に遡っちょる。そこはわいと殆たがいどん、結末には魔術師ちゅもんが出っくっ。……魔術師ちゅうのはイタコんようなもんじゃろか」
「いやちょっと違うかな」

 音之進くんは低く唸ってから別の本を開いた。こちらはタイムマシン的な装置を使った物語らしい。また別の本は山の中で酩酊した主人公がひと眠りして家に戻ると数十年も経っていたというものだった。早い話が海外版の浦島太郎だ。寝ている間に未来に行けるなんて今の私からしたら有難いことこの上ない、と挿絵を見ながらぼんやり考える。ふと、音之進くんは私が帰ることについてどう思っているのだろうと彼の横顔を見つめた。音之進くんは英文を読み解くのに真剣でこちらには気づいていない。私自身帰りたいのとここに留まりたいのとで半々である。私にとってはどちらの世界も大事な居場所になっていて、どちらかを蔑ろにするなんてことは考えられなくなっていた。元の時代で私は行方不明者扱いになっているのか、わからないけどもしそうならみんな心配しているはず。平然とこの時代に留まるなんてできそうにない。でもこの時代には音之進くんがいる。ずっと知らんふりしてきたけど彼も大事な人の一人だ自覚してしまったせいで、離れたくないという気持ちが芽生えてしまった。私はどうするべきなのか、わからない。ずっと俯きがちだった音之進くんの七三に分けられた前髪がさらりと落ちて、私は無意識のうちに手を伸ばした。陸軍って坊主にしなきゃいけないんじゃないの?と不思議に思いながらその髪を撫でつけると彼の顔がじわじわと赤く染まっていくのに気付いて我に返る。

「……あんまいひっつくな」
「あ、ごめん。暑苦しかった?」
「そうじゃね」
「……もしかして、照れてんの?」
「ち、違ご!」

 説得力皆無な反応をされてつい悪戯心が芽生えた私は少しずつ距離を取ろうとする音之進くんを追いかけるかたちでぴたりと肩をくっつけた。びくっと音之進くんの体が揺れたのがわかる。これくらいで照れるなんてまだまだだな。

「なにを今更……さんざんお手て繋いだり抱擁した仲なのに」
「わやっ……!そげな恥ねこっしれっ言な……!」
「ああ、ごめん。あの時は音之進くんが弱腰だったから抱擁とは言えないか」
「……っ、馬鹿にしよって……」

 悔しそうにしてるけど結局なにもしてこないだろうなどとなめて煽りまくっていたら急に両肩を掴まれてびっくりしてしまい、見事バランスを崩して天地がひっくり返った。ごちん、と結構強めに後頭部を床へぶつけて少し涙目である。痛い!と思いながら目を開けたら状況を飲み込めずぽかんとした顔の音之進くんが私を見下ろしていた。なんでそっちの方が驚いてんのか理解に苦しむ。

「なんて顔してるんですか」
「……こいは、そん」
「やるならいつもみたいに堂々としなよ」
「…………ちっとどま抵抗せんか」
「嫌だったらちゃんと嫌がるから大丈夫」

 きゅっと口を一文字に結んだ音之進くんの喉仏がこくりと上下した。緊張が伝わってくる。しれっとなんでもないような態度を取っているけどこっちだって平常心ではいられない。心臓バクバクである。でも嫌じゃないのは本心だったので私としては音之進くんの想像しているような展開もやぶさかでない。その意思を示すため、じっと音之進くんの目を見つめていたら瞳が揺れ、すすっと横に逸れてからまた戻ってきた。

「わ、わいはちった、羞恥心ちゅうもんば……」
「片方が奥手ならもう片方はこれくらいの方がちょうどいいですよ、たぶん」
「おっ……オイは奥手でね!」
「まあ奥手だったらいきなり押し倒したりなんかしないか」
「こ、こいは……そん、間違ごただけじゃ……」
「どんな間違いだよ」

 本当にそんなつもりなかったんだろうことは最初のびっくりした顔を見ればわかるのだけど、ついからかいたくなってしまうのは私の悪い癖だ。音之進くんの反応おもしろいし。腕を引っ張って起こしてくれたあと、音之進くんは私の両肩を包んで自分の方へ引き寄せた。自然と音之進くんの胸へ耳が押し付けられて心臓の音が聞こえてきたが、心拍数の速さがえぐい。「ドキドキ」なんて生易しいもんじゃなかったので私は逆に心配になってしまった。

「ほんのこちゃ、こうしたかった」
「すっごい心臓早いよ、大丈夫?」
「しよがねじゃろ……」
「私も同じだけどね」
「……」
「信じてないでしょ」
「……はいっでん、余裕そうにしとる」
「まあ表面上はね。一応年上だから、さ」

 自分に言い聞かせるみたいに呟いてから、昔鯉登家の家政婦のおばちゃんが年の差なんて関係ないと言っていたのを思い出した。今ならほんとにその通りだなあと納得できる。私が年上だろうが音之進くんが年下だろうが関係なかった。たぶん、私が頑なに認めなかっただけだ。年上だから、などと言っておきながら助けられるのはいつも私の方だったし、今でもそうだ。情けない話である。私は音之進くんの手を取って自分の胸に当てた。手の当たっている範囲がほんのりと温かい。ほら、と彼を見上げたら耳まで赤く染めたうえに涙まで浮かべていた。少しやりすぎただろうか。

「ところで、音之進くんに聞きたいことがあったんだけど」
「……な、ないよ?」
「私、元の時代に帰ってもいい?」
「……オイがぼっ言たらわいは残いっか?」
「音之進くんが号泣してどうしてもって言うなら考えるかな」
「絶対せん」
「だよねえ知ってる」
「オイはの気持ちば尊重すっつもいじゃ。残いっくれち、我儘は言わん」
「……音之進くんって時々大人だよね」
「おかしなこっ言でね。オイはれっきとした大人じゃ」
「……………………そうですね」
「今の間はないよ?」
「……私もまだ、決めてないんだ」
「……そうか」

 だから、引き留めるなら今のうちだよ、と言いかけて私はその言葉を黙って飲み込んだ。

泡立つこころは今もまだ::ハイネケンの顛末