花押9

 今、何時だろう。

 明けることのない暗闇の中で私の精神はすり減りつつあった。
 月島さんと鯉登さんがいなくなったあとすぐに、背後から忍び寄ってきた足音は私の知る誰のものでもなかった。油断していたのが悪い、と言われればそれまでだけど、自分が誘拐の被害者になるなんて警戒しながら生きている人間は殆どいないと思いたい。が、過ぎてしまったことを後悔しても仕方がない。どうやら犯人は初めから私を狙っていたらしくて、あの家に私が一人になるのを待っていたようだった。目隠しされた布ごしに、僅かな明るさを感じる。ぎしりと木が軋み、手足を縛られ床に転がされた私の前でその足音が止まった。

「どうだ、そろそろ思い出したか?」
「だから……入れ墨にんぴ?なんて知らないです……!」
「強情な奴だな」

 私を攫った男は「入れ墨にんぴは何処にある?」と聞いてきた。そんな単語は初めて聞いた。入れ墨はわかる。だけど、「にんぴ」とは?頭にはてなマークを浮かべて答えに困っていたところで力いっぱい顔面パンチを食らい、痛いと感じる間もなく意識を失ったようだったけど、目が覚めた今はその右頬がずきずきと痛んでいた。私にそれを聞くということは、恐らく鶴見中尉が関係しているのだろう。そこまでは察しがつくが、その入れ墨にんぴとやらが一体なんなのか、そしてそれを手にすることでどんなことが起こるのかは全く想像ができなかった。私がずっと同じ回答をすることに相当苛ついているのだろうか、男が私の髪を乱暴に引っ張る。しゃり、しゃりと、刃物で髪の毛を切られている感触がした。刃物は私の耳のすぐ近くの髪を切っている。そのまま耳まで切られてしまうのではないかと、息を呑んだ。二階堂さんもこんな心境だったのだろうか。彼の耳が削がれた状況を知っているわけではないが、体の一部を切り取るという行為はどんな人間でも少なからず恐怖心を抱くものだと思う。拷問する側の心理なんて知りたくもないけど、じわじわと痛みと恐怖を与えるのは自供を促すのに打ってつけであることは明らかだろう。とは言っても、私は本当に入れ墨なんて知らない。犯人がそのことに気付かない限り、私はこのまま無駄にトラウマを植え付けられ続けることになる。いや、トラウマになるだけなら安いものかもしれない。もしこのまま本当に殺されてしまったら―――。恐怖から身体がブルブルと震えていう事をきかない。早く吐かないと耳を切り取るぞと言わんばかりに、ひたりと刃物が触れ、短い悲鳴を上げる。

「本当に……知りません……!なんですか、入れ墨にんぴって……」
「鶴見の女が、知らないわけないだろう?言え」

 頬にぴりっとした痛みを感じ、目隠しの中でぎゅっと目を瞑った。怖い。誰か。助けて。私の頭に真っ先に浮かんだのはやっぱりあの人だった。男が面白そうに「早く言わんと、傷が増えるぞ?」と言いながら、切られたのとは反対の頬にぺちぺちと刃物を当ててくる。知らない、と言いたいのに震える唇は言葉を紡げなかった。刃物が頬から離れたかと思うと、今度は布の裂ける音がした。私の着物が切り裂かれた音だ。それと同時に胸部にも小さな痛みが走る。

「お望み通り、痛くしてやろう」
「や、め……」

 やっとの思いでそう呟いた時だ。かなり近いところで銃声がして、さっきまで私の傍にいたであろう男の短いうめき声が聞こえた。今度はなんだ。もう私のキャパは限界を迎えている。流れる涙と嗚咽が止まらなくてわけがわからなかった。

!」

 それでも、その声だけはわかった。私をそう呼ぶのはあの人しかいない。

「に、かいどう、さん」

 辛うじて発せられた情けない震え声はばたばたと大きな音で近づいてくる複数人の足音でかき消されてしまって、彼には届いていないと思う。

「……、」

 数時間ぶりに光を見た私は眩しさに目を細める。誘拐された時はまだ昼間だったけど、辺りは真っ暗だった。時間はわからないけど少なくとも半日以上は拘束されていたらしい。光源を確認する間もなく、私は二階堂さんの腕の中に閉じ込められた。

「ごめん……、ごめん」

 どうして二階堂さんが謝るのだろう。むしろ助けに来てくれたことにお礼を言わなければいけないのに。未だに止まらない涙と嗚咽でそれは叶わなくて、代わりに漸く自由になった両手で二階堂さんの背中を擦った。








 リハビリは相当長い時間を要するイメージがあった。自由に動かすことのできない義足という異物を操る苦労は私には想像もつかない。二階堂さんは既にその義足を使いこなし、自分の身体の一部としているようで、少しぎこちないながらも以前のように歩けるようになっていた。彼の歩幅が以前より狭いのは私に合わせてくれているのか、義足のせいなのかはわからない。今にも鼻歌を歌いそうなほど機嫌の良い二階堂さんは繋いだ手を大きく振りながら大通りを進んでいった。

「欲しいもの、ちゃんと考えたか?」
「いや、それが……思いつかなくて」
「えー?何もないの?」
「うーん、そうですね……」

 まさか本当になにか買ってくれるつもりだったとは思わず、特に何も考えていなかったものだから焦って何かないだろうかと辺りを見回した。呉服屋さんや和菓子屋さんの並ぶ通りに色んな雑貨がぎゅっと詰め込まれた小間物屋さんを見つけ、「あのお店が見たいです」と二階堂さんを引っ張った。普段アクセサリーの類は殆どつけないから、髪飾りはしっくりこない。それに、先日無残な散切り頭にされたせいでショートヘアになってしまったから、もし貰ったとしても暫くは使えないだろう。狭い店内をうろうろしていた私を二階堂さんが呼びつけた。なにか見つけたらしい。

「これは!?」
「手鏡ですか、可愛いですね」

 渡されたのは小さな白い花が散りばめられた黒い色の手鏡だ。二階堂さんにしてはセンスの良い……いやこれは失礼だな。でも正直この人がこんな可愛らしい小物を選ぶなんて思わなかった。これ、なんの花だっけ?見たことがある気がするけど、名前が思いだせない。他にも赤い花や紫の花が描かれたものがあったけど、二階堂さんはどうしてこの花が描かれたものを選んだのだろうか。……まあ、あまり深い理由はないんだろうけど。会計を済ませた二階堂さんはその包みを持ったまま、反対の手で再び私と手を繋ぐ。相変わらず上機嫌で腕を振り回すものだから苦笑いを浮かべてしまったけど、私の中には嬉しさと同時に不安と恐怖が渦巻いていた。

 ―――私は一体あとどれくらいこうしていられるのだろう。

 この世界にとって私は異物でしかない。いつになるのかはわからないけど、きっと元の正しい世界に帰る時がくるのだと思う。なのに、私はいつの間にか、もう少しこのままでもいいと思うようになってしまっていた。

インテレクチュアル・サプリメント::ハイネケンの顛末