このなんだかよくわからない世界に来て半年以上が経過したが、一向に平成へと戻れる気配はない。母は、父は、元気だろうか。私がいなくなったことで、私のいた世界がどうなっているのかはずっと気がかりだった。最初の頃は攻撃的な態度の二階堂さんや、まるで珍獣を見るような好奇の視線にストレスを感じて夜中に一人で泣いたりしたものだけど、それが今では帰りたいのか帰りたくないのかよくわからなくなってしまっている。いや、決して帰りたくないわけではないのだ。
ただ……
「怖い思いをさせてしまって申し訳ない」
「いえ、鶴見中尉のせいでは……」
「なにか、私に聞きたいことはないのかね?」
「…………いいえ、何も」
「くんは少し、聞き分けがよすぎるな」
「はあ……それ、褒められてる、んですか?」
「さぁ、どうだろうね」
鶴見中尉が紅茶の入ったカップに口をつける様子を、ぼんやりと見つめた。聞きたいことなら山ほどある。だけど深入りしないと約束している手前、それを聞いてしまったら後悔するような気がした。
「近々、網走で仕事があるんだが……君も一緒に行くかね?」
「……私なんかが居たら、邪魔になります」
「そんなことはない。少なくとも、私と二階堂の士気は上がるよ」
鶴見中尉はお世辞が上手だ。というより、人の扱いが上手いのかもしれない。ふわりと笑う鶴見中尉のその発言が本気なのか冗談なのか判別できなくて、私は曖昧な笑みを返した。網走での任務に、この小樽にいる兵隊さんの殆どが参加することになるらしい。その数は60人以上と聞いてあの兵舎にそんな人数いたっけ?と疑問に思っていたら、鶴見中尉の率いている小隊の人員は北海道の各地に散らばっているらしくて、それを合わせた人数ということだった。兵営を空にすることは流石にできないから数人は残るようで、留守の間は今まで馴染みのなかった兵隊さんが私の面倒を見てくれることになる。どんな人なんだろう。不安そうな顔をしていたのか、鶴見中尉が「私の信頼できる部下だから、安心していい」とフォローを入れた。
「……鶴見中尉」
「なんだい?」
「私……約束を破ってしまいました」
「……二階堂のことか」
こくりと頷くと、鶴見中尉が小さなため息を吐いた。やはりここから出て行かなくてはいけないのだろうかと、どきどきしながら次の言葉を待つ。
「そんな顔をしなくても、出て行けなんて言わないから安心しなさい」
「え、あ、でも……」
「くんはよく働いてくれているようだし、良い子なのもわかっている」
「あ、ありがとうございます」
「それに、きっと一番辛くなるのは君自身だ。それは覚悟できているかね?」
「…………わからない、です」
「くんのその素直なところは嫌いじゃないよ」
「……なんか、素直に喜べないです」
「ははは、それは心外だな」
私がこの将校さんのことを理解できる日は永遠に来なさそうだ。こうして忠告をくれるあたり、優しい人だとは思うのだけど、笑顔の裏に何かがある気がしてならない。何かを企んでいるとかではなくて、こう、誤魔化すとかうやむやにするといった類のものな気がしていた。けれど、鶴見中尉は私にとって命の恩人だ。その事実は変わらない。詮索するのはもうやめよう。知らなくていいことは知らないままでいい。入れ墨にんぴなんて、私は一生知らなくていい。鶴見中尉とのティータイムを終えて仕事に戻ろうとしたところで、二階堂さんが手を振りながらこちらに走り寄ってきた。もう走れるのか。ついこの間義足をつけたとは思えないくらいだ。
「!ちょっときて!」
「あの、私仕事が……」
「だめ!今じゃないと嫌だ!」
「そんな、子供じゃないのに……」
最近の二階堂さんは正に大きな子供だ。感情のままに泣いたり、笑ったり、怒ったり。それだけなら可愛いものだが、如何せん、力は大人の男性であるから手に負えない。二階堂さんに引っ張られ、最早私の職場と化している営庭がどんどん遠ざかっていく。それにしても一体何の用があるというのだろう。仕事を後回しにしてまで……っていうか、二階堂さんも仕事ありますよね?釈然としない気持ちを感じたまま裏手の方まで連れてこられ椅子に座らされた。椅子というか、ただの木箱だけど。二階堂さんが同じように隣へ腰掛ける。
「俺、今度網走に行くんだ」
「さっき鶴見中尉に聞きましたよ」
「ねえ、俺が帰ってきたらさ、俺と……その」
あ、これは多分だめなやつだ。幸い二階堂さんは言い淀んでいて、まだその先は言わない。勘違いだったらこの上なく恥ずかしいけど、もし私の予想通りのことが起きたら……。急に怖くなり、営庭に戻ろうと歩き出す。
「……そ、そろそろ戻らないと!」
「待って!もうちょっとだけ」
「だ、駄目ですよ、サボってると思われるじゃないですか」
「ッ!」
数歩先で振り返ると、私と彼の丁度真ん中あたりに見覚えのある穴が開いていた。グッドともバッドとも言えないタイミングで現れたそれと二階堂さんとを交互に見る。この穴に飛び込めば元の世界に帰れるのか、それともまた別のよくわからない場所に飛ばされるのか……。もし、戻れるなら。
「二階堂さん」
「なあに?」
穴の手前まで戻って、二階堂さんに向かって手を差し出す。鶴見中尉は私のことを聞き分けが良いといったけど、そんなことない。私は今、とても身勝手なことをしようとしている。彼の気持ちも聞かないまま、この世界から二人で抜け出そうとしているのだ。一緒に「現代」へ行けたなら、二階堂さんはもう危険な目に遭うことはなくなるだろう。ゆっくりとこちらへ歩いてきた二階堂さんが穴の分だけ距離を開けて立ち止まり、私の手を取った。二階堂さんはまるで穴が開いていることがわかっているみたいにそれ以上近づいてこない。でも、こんな怪しさ満点の穴が突然現れたら流石になにか言うだろうしやっぱり見えていないのだろうか。
「好きです、二階堂さん」
「うん、俺も好きだよ。愛してる」
「じゃあ、一緒にきてくれますか」
二階堂さんが悲しそうに目を細めた。まるで私が何をしようとしているのかわかっているみたいに。それでも諦めきれず、繋いだ両手を力強く引っ張った。あと一歩、こちらに足を踏み出してくれるだけでいいのに、びくともしない。それは彼が男性だからなのか、不思議な力的な何かが働いているのか。頼むから動いてくれと祈るみたいに何度もその手を引っ張ったけど二階堂さんはまるで根が生えたみたいに動かない。ふと足元を見るとさっきより穴が小さくなっているように見えてぎょっとした。まさか時間制限があるというのか。焦っているそばから穴はどんどん収縮していく。
「お願い、二階堂さん……!」
「」
今では聞きなれた、少し聞き取りづらい低い声で名前を呼ばれた。いつだったかそうされたみたいに二階堂さんが私を胸元に引き寄せ、足が前へ出る。その先は真っ暗な穴だ。もし彼が私の事を抱きとめてくれたらこのまま落ちずにすむかもしれない。ただし、それは次いつになるかもわからない帰還のチャンスを逃すということでもある。未だに決心のつかない優柔不断な私は遠慮がちに彼の背中へ手を回したけど、その手はいとも簡単にするりと抜け落ちて視界が暗転した。
自分の身体さえも見えないような暗闇を、真っ逆さまに落ちていく。
あの世界にとって私は異物だった。
だから二階堂さんは一緒に来ることができなかったのかもしれない。
あぁ、そういえば、こちらに来た時の服も鞄も、全部置いてきてしまった。
持ち帰れたのがぼろぼろの軍服と手鏡だけだなんて。
でもそれが私という異物がたしかに存在したという証になるのなら。
彼の心に残るのなら。
置いてきた甲斐もあるってものだ。
次に光を見たときには、元の世界に帰れているのだろうか。
二階堂さんや、第七師団のみんなのことを覚えていられるだろうか。
さよなら、あたしのいとしい思い出たち。::ハイネケンの顛末