花押6

 二階堂さんが酷いけがをしたとの報せを受けて、私は二階堂さんが入院する病院に行くことになった。まさか死亡フラグ回収を体験するとは思いもしなかった。いや、死んではいないんだけど。この世界に来てからは驚きの連続である。でもこんな驚きは勘弁してほしい。鎮痛剤で静かに眠る二階堂さんの顔色が悪すぎてぎくりとしてしまった。布団が規則的に上下しているから死んだわけではない。そんなことはわかっている。けれどその膨らみが右側だけ不自然にへこんでいるのを見て平常心が保てるほど私はこの世界に慣れてはいなかった。私の世代では傷痍軍人に馴染みはない。身近な人が大事故に遭って身体を失くしたこともない。二階堂さんが、初めてなのだ。この先彼はどうなるのだろう。片足がなくても、陸軍から除隊にはならないのだろうか?もし、除隊されたら……二階堂さんは故郷へ帰ってしまうかもしれない。こけた頬に手をやれば、ほんのり温かい。その体温を感じながら、この足が生えてくればいいのにとばかみたいなことを願った。そうすれば陸軍に居られる。私も二階堂さんのお世話ができる。血の気のない寝顔を見ながら自分勝手な妄想に耽っていたら、二階堂さんがうっすらと目を開けた。

「…………?」
「おはようございます、二階堂さん」
「なんでここに……」
「二階堂さんのお世話係ですから」

 この皮ヘッドギア、案外触り心地いいなと思いながらにこりと微笑んでみたら、驚くべきことに二階堂さんも微笑み返してきた。こんな風に笑う人だっけ?若干失礼なことではあるが、彼の優しい笑顔が思いだせず必死で記憶を手繰った。それでも悪戯を企む悪ガキみたいな笑顔しか浮かんでこなくて頭を振る。

「どうしたの?」
「……いえ、生きててよかったなあって」
「大丈夫、まだ死なないよ」
「二階堂さんは、ただでは死ななそうですからね」

 二階堂さんの様子にどこか違和感を覚えたけれど、きっと寝起きのせいだろう。ベッドから起き上がった二階堂さんが、私の頭をそっと撫でた……つもりなのだろうが、やっぱり力加減が下手くそなせいで私の髪の毛はぐちゃぐちゃに乱される。よかった、いつもの二階堂さんだ。安心したせいか涙が滲む。

「泣くなよ」
「だって、二階堂さんがいなくなっちゃうかと思って……」
「俺たちは軍人なんだから、いつ死んでもおかしくない」
「……それでも、親しい人が死ぬのは嫌です」
は、俺が死んだら悲しい?」
「……そうですね。不本意ですけど、悲しいと思います」
、」
「はい?」

 名前を呼ばれて顔を上げると、さきほどまで私の御髪を乱していた手にぐっと圧がかかって引き寄せられた。文字通りあっという間に私たちの距離がゼロになる。二階堂さんの薄い唇が私のそれを包むみたいに重なってから離れていった。……思考が追いつかない。今私、キス、された?……なんで?

「なんっ……何するんですか!?」
「したかったから」
「そういう問題じゃないです!」
は、俺の事嫌い?」
「っ……」
「俺は好きだよ」

 この人は本当にあの二階堂さんなのだろうか。そう疑ってしまうくらいありえないことだと思った。ていうか、自分でいうのもアレだけど好かれる要素あったっけ?喧嘩腰の会話ばっかりしてた気がするんだけど。まあなんだかんだ私もまんざらではないから似た者同士なのかもしれない。それでも私は、二階堂さんの想いに応えることはできないのだ。鶴見中尉に出された条件は四つある。外を出歩く時は必ず誰か付き添いをつけること。この世界の出来事になるべく関わらないこと。別の世界から来たことを口外しないこと。そして、この世界の人間と必要以上に親しくしないこと、だ。誰かと親しくなればなるほど、元の世界に帰るのが辛くなる。それは私の心を守るためでもあり、鶴見中尉からしても得体の知れない奇妙な女を無条件で側に置くのはリスクがあるという判断のもとで提示されたものなのだと思う。きっと鶴見中尉と同じ状況になれば私も警戒することだろう。行き場のない私は「ここに置いて頂く」立場なのだから提示された条件は全て飲むほかなかったし、なにより最初の頃はこんなことになるなんて思いもしなかった。

「私……は、」

 二階堂さんの漆黒の双眸が私を真っ直ぐ見据えている。いっそのこと言ってしまおうか。私の中の悪魔がそう囁いた。面倒を見る条件とは言われたけど、それを破ったら追い出すとは一言も言われていない。……いや、流石にそれは屁理屈か。それに秘密を打ち明けたところで鶴見中尉たちのように信じてくれるとは限らない。頭のおかしい女と思われるかもしれない。目を泳がせながら口をぱくぱくさせていたら、二階堂さんが再び「やっぱり俺のこと、嫌い?」と首を傾げた。その少女漫画のヒロインがやりそうな仕草は何処で覚えたんだろう。頭の片隅でくだらないことを考えながらも、どうやってこの場を凌ごうかと言い訳を探す。私も好きですと、一言言えたらどんなに楽だろう。言うだけなら簡単なのだ。けれどいつか必ずくる別れの時を思うと鶴見中尉の考えは正しいと、認めざるを得ない。じっと私の答えを待つ二階堂さんに「嫌いじゃないですよ」と微笑むのが精一杯だった。

生まれ変わるならプラナリアにして::ハイネケンの顛末