花押4

「君の身柄を第七師団で預かる代わりに、条件が四つある」
「はい」

 一つ目は、外を出歩く時は必ず誰か付き添いをつけること。
 二つ目は、この世界の出来事になるべく関わらないこと。
 三つ目は、別の世界から来たというのを口外しないこと。

 そして四つ目は―――


 鶴見中尉が指を四本立てたところで夢から覚めた。柔らかい布団と昇ったばかりの眩しい太陽が私の身体を包んでいる。テレビも携帯もなにもないこの世界で、気付けば私は超健康的な生活を送っていた。起き上がると上半身がひんやりとした空気に触れ、思わず身震いする。暦の上ではもう春なのだけど、この北の大地はまだまだ冬を引きずっていた。簡単に身支度を整え一階に降りると人の気配がした。

「おはよう、くん」
「あ、鶴見中尉。おはようございます。今から朝食作りますけど、食べていかれますか?」
「うん、頂こうかな。くんの料理は美味しいからね」
「はは、大したものは作れないですけど……そう言ってもらえると嬉しいです」

 この世界で暮らすにあたり、ぶち当たったのが住居の問題だった。小樽の兵営に、空き部屋がないというのだ。大部屋で共同生活を送る兵卒に混じるわけにもいかないし、どうしたものかと首を捻った月島軍曹の隣で、鶴見中尉が「私の自宅なら部屋が余っている」とぽんと手を叩いた。

「物置で暮らすのと、兵卒と同じ大部屋で寝起きするのと、私の家に居候するのなら、どれを選ぶかね?」

 もうこれは誘導尋問では?究極の選択ともいうべきその三択は最早三択の体を成していない気がした。物置は論外。ちなみに広さは二畳ほどらしい。男だらけの大部屋もかなり抵抗がある。……かといって、鶴見中尉と同居することに抵抗がないわけではない。鶴見中尉は紳士的な感じがして印象は悪くなかったけれど、大部屋より幾らかましとはいえ会ったばかりの成人男性と一つ屋根の下ってどうなんだろう?そう思っていた最初の頃が懐かしいくらい、私はこの家に馴染んでいた。そもそも鶴見中尉はすごく忙しいらしくて、帰ってこない日も多いというのも関係しているかもしれない。それに、私に宛がわれた二階には立ち入らないと約束してくれた。その口約束がどの程度の効力があるのかはわからないけれど、少なくとも私にとって鶴見中尉と月島さんはこの世界で数少ない信頼できる人物だから、きっとこの人がそう言うなら大丈夫なのだろうと謎の自信を持っていた。約束通り、今まで(といってもまだひと月だけど)鶴見中尉が二階に上がってきたことはない。

「あれがいいな、おととい食べた……」
「炒飯ですか?」
「そう、あの米を炒めた。ああ、味付けは薄目で頼むよ」

 朝から炒飯て、重くないかな?と心配になったけれど、やっぱり軍人さんは運動量がすごいから朝からがっつり食べないとやっていけないのだろうか。ふと、着替え途中の鶴見中尉に目を遣ると、白いシャツの胸元から奇妙な下着が見えた。肌色に変な黒い模様のようなものが入っていて、思わずじっと目を凝らしていたら鶴見中尉が苦笑いした。

「気になるかね?」
「そう……ですね、それは、肌着?ですか?変わった模様が入ってますね」
「ああ、特注で作ったんだ。なかなか気に入っていてね」

 鶴見中尉は直ぐに釦を閉めてしまったのでそれ以上気にすることもなく私は注文の炒飯作りを再開した。油を熱した焙烙にみじん切りした玉ねぎを入れる。火力の調節ができないから最初は焦がしてばかりだったけど今では割とうまくやっていると思う。塩と醤油を少し入れてから、溶き卵と白米を入れる。フライパンと違って平べったい焙烙で炒飯を作るのは難易度が高い。この時代、白米はとても貴重だというから、零したりしないようそーっと炒める。着替え終わった鶴見中尉が後ろから私を観察していたので緊張しながらなんとか作り終え、二つのお皿に盛りつけた。お盆に炒飯とお味噌汁、漬物をいくつか乗せて食卓へ運ぶ。いつもみたいにかっちり軍服を身に付けた鶴見中尉が私の作った具の少ない炒飯を口に入れて、数回咀嚼してから飲み込んだ。人にご飯を作るがこんなに緊張するなんて、この世界に来るまで思いもしなかった。

「うん、美味しいよ」
「よかったです」
「そうそう、今日はこのあと二階堂が迎えにくるから、支度しておくように」
「わかりました」
くん」
「はい?」
「約束は覚えているかな?」
「……はい、覚えています」
「それなら、いいんだ。ご馳走様」
「あ、洗い物はやっておきますから、そのままでいいですよ」
「そうか。すまないが、お願いするよ」

 鶴見中尉を見送ってから、朝食の後片付けをする。二階堂さんが迎えにくると言っていたけど、何時頃か聞くのを忘れてしまった。迷った末に結局部屋の掃除に取り掛かったけど、少ししてから「ごめんください」と玄関の扉を叩く音がした。

「おはようございます、二階堂さん」
「……本当に一緒に住んでたんだな」
「どういう意味ですか?」
「そのまんまの意味だろ。お前、鶴見中尉の妾なのか?」
「めッ……ち、違います!居候させてもらっているだけです!」
「ふうん。でも、聯隊のやつらは信じないと思うぜ」
「……仕方ないじゃないですか。他に行くところがないんだから……」
「どうしてだ?」
「それは……」

 私が別世界からトリップしてきたのは秘密だ。事情があるのは事実だけどそれを話すわけにはいかない。まあ正直に話したところで信じてくれる人が一体どれほど居るのかは疑問だけど。気の短い二階堂さんが口籠る私をイライラしたような態度で見降ろしている。

「……すみません、詳しくは話せないんです。でも、妾じゃないのは本当ですから」
「お前が鶴見中尉の妾でもそうじゃなくても、別に俺はどうでもいい」
「そう、ですよね」
「行くぞ」

 なんだろう、このがっかり感は。二階堂さんが私に興味がないことが妙に残念で堪らない。最近は少しだけ仲良くなれたと思ったのにな。兵舎に向かう紺色の後姿を早足で追いかけながら、暗い思考を吹き飛ばすように頭を振った。

きっと綺麗な幻だった::ハイネケンの顛末