花押3

 この世界に来たのは本当に突然のことだった。
 何の前触れも予兆もない。私は歩いていた。右足を地面に着けたと思ったら、なんとそこはぽっかり空いた大きな穴だったのだ。もちろん落とし穴ではない……はずだ。その大きな暗闇に吸い込まれ、落ちたところが第七師団の兵舎内である。神様も酷なことをする。変な服装に変な持ち物を持った変な女が突然現れたとなればスパイと思われても仕方がなかっただろう。私が唯一ツイてたのはその場に居たのが鶴見中尉と月島軍曹だったということだ。当然二人は目を丸くしていた。私も負けじと丸くしていた。教科書とか、ドラマや映画の中で見たことのあるようなないような軍服を纏った男性二人が急に現れたのだから無理もないだろう。ここは映画村か何かか?あり得ないのはわかっていたけどそれが一番説明がつく。いや、アスファルトのど真ん中に落とし穴が空いていたこと自体の説明はつかないのだけど。優雅な仕草で「これは私たちだけの秘密だよ」と人差し指を口に添えた鶴見中尉は今まで見たどんな映画俳優よりダンディでハンサムでアダルティだった。

「鶴見中尉って怪我する前はどんな感じだったんですか?」
「はぁ?なんでそんなこと……。別に、今と変わらねえよ」
「お酒弱いって聞いたんですけど、なんかギャップって感じでいいですね」
「知るかよ。つか、ぎゃっぷってなんだよ。わけのわからん言葉使うんじゃねえよ」
「あ、すみません」
「……なあ、鶴見中尉の話はやめようぜ」

 鶴見中尉の話題はだめらしい。そりゃそうか。二階堂さんの右耳を削いだのは鶴見中尉なのだから。それでも彼が鶴見中尉に付き従うのはどうしてなのだろう。そうやって疑問に思うこと自体、私がこの世界の人間ではないことの証明のような気がした。私は陸軍の規律など知らない。現代でいうブラック企業みたいに厳しいかったというくらいは聞いたことがある。けど、どんなに憎い上司が居ようと、現代のように「じゃあ辞めます」とは言えないものなのだろう。一見協調性に欠けていそうな二階堂さんはこの陸軍でどのような生活を送っているのだろうか。私が二階堂さんと居たのは入院していた時と退院したあとの数週間ほどだ。そのほとんどを二人で過ごしている。あと、たまに月島さんが様子を見に来ていた。だから他の兵隊さんと会話をする二階堂さんを未だ見たことがなかった。

「じゃあ、陸軍の生活を教えてください」
「そんなもん聞いて何が面白いんだ?」
「自分の知らない話って面白いじゃないですか」
「……興味無い話はつまらねえと思うがな」
「あと二階堂さんて軍人さんぽくないから、一体どんな日常を過ごしてるのか気になります」
「どういう意味だよ!」
「なんか……あ、いやなんでもないです」
「言えよ!気になるだろ!」
「喧嘩は強そうですよね」
「当然だろ。お前くらいなら一発で息の根を止められるぜ」
「……喧嘩で息の根止めるとか穏やかじゃないですね」

 薄々思っていたことだけど、二階堂さんは嗜虐思考をお持ちらしい。現代であれば立派ないじめっこになっていることだろう。以前と比べて私に対する当たりは弱くなったものの、別の懸念事項が生まれてしまった。所謂ドヤ顔で見降ろされ、乾いた笑いしかでてこない。しかし、日露戦争に出征したというのだから強いのは本当のことなのだろう。とは言いつつ、私は日露戦争について殆ど知らない。この世界の人間ではないというのは鶴見中尉、月島さん、私だけの秘密なので知ったかぶりやら誤魔化したりやらで一苦労だ。こんなことならきちんと近代日本史を学んでおけばよかったと、学生時代の自分を張り倒したい気分になってため息を吐いた。

「お前、ため息多いな」
「すみません、嫌でしたか?」
「別に……。でも、そのすぐ謝るのやめろ。そっちの方が気になる」
「あ、はい。すみま……あっ、今のなしで!」
「ふ……」
「二階堂さんも笑うんですね」
「どういう意味だてめえ」
「だって笑ったところ初めて見ましたよ」
「………………陸軍に変な女が来たら警戒するだろ?」
「…………そうですね」
「しかもそいつが今日から俺の身の回りの世話をするなんて言い出したら、不審に思うのが普通だ」
「仰るとおりです」
「…………でも」

 胸元にぶら下がる耳をいじっている二階堂さんはなかなか先を言わなくて、私は首を傾げる。何か言いにくいことだろうか。いやしかし、散々息の根を止めるだのなんだのと好き勝手言ってたこの男に今更言いにくいことなんてあるのか?そう思っていたら二階堂さんが急に顔を上げたものだからばっちり目が合ってしまいどきりとした。相変わらず何の表情も映さない上、紙のように真っ白な顔は心臓に悪い。

「……お前なら秒殺できる。警戒するだけ無駄だったな」
「…………はァ?」
「勝てる自信があるならやるか?」
「いや結構です」
「遠慮すんなよ」

 思わず「勝てるか!」と叫んだらにやにや笑いながら腕を掴まれたがそれが痛いのなんの。力加減下手くそか。

「ちょ、二階堂さん、痛いです!」
「あ?」
「女性はもっと優しく扱ってくださいよ」
「必要ないだろ」
「……現に私が被害被ってるんですが」

 全力で離せオーラを放つ私をものともせず、もう片方の腕も掴んできてバンザイさせたりぶらぶらさせたりやりたい放題だ。何がしたいんだこの人は。でもさっきまでの異常な握力はなくなっていた。

「二階堂さんは恋人とかいないんですか?」
「なんだよいきなり。いねえよ」
「もう少し加減を覚えないと、好きな人に嫌われちゃいますよ?」
「……大きな……お世話だ!」
「いでででで!折れる折れる!」

 それがオーバーな反応だと知ってか知らずかドSの包帯ぐるぐる巻き男は暫くの間手を緩めなかった。痛みを感じるということは、私はたしかに生きているんだな。ふいにこの世界が白昼夢でないことを思い知らされて、二階堂さんにばれない程度に奥歯を噛み締めた。

ならばそれは悪夢でしかないのでしょう::ハイネケンの顛末