馬車を降りたあと、途中までは三島くんが一緒だ。「旭川の親戚を訪ねる途中、小樽に寄った旅行客」という鶴見中尉が考えた設定通り、私は旅行客として小樽の通りを歩く。しかし土地勘がなく今晩泊まるホテルの場所もわからないのでその辺の通行人Aになりすました三島くんに案内してもらうという筋書きだった。やけに練りこまれた設定なのはこの際気にしないことにしよう。
「小樽って大きいねえ」
「……あまりキョロキョロするなよ」
「でもその方がお上りさんて感じでいいんじゃない?」
「うーん……」
欲を言えばこの通行人Aの役は尾形上等兵にやってほしかった。完全に個人的な要求なので流石に言わなかったけど。街を見渡すと、至る所に見知った顔があった。けれどやっぱり尾形上等兵の姿は見えない。後方って、どれくらい後方なのだろう。今回の任務は期間が定まっていない。大凡の場所を掴んでいるとはいっても、いつ何処に現れるという確かな情報もなければ、確実に私というエサに引っかかってくれるという保証もないのだ。もしかしたら、この前冗談で言ったみたいに本当は谷垣みたいなムチムチ系が好きで、私のような小柄な女には興味がない可能性だってある。……いやでも谷垣はないな。滞在するホテルは、私の部屋の両側と向かい側の数室は第七師団が借りているらしくて何かあればすぐ動いてもらえる状態だ。それでもいつ現れるか分からない殺人犯を警戒しながら過ごさなければいけないのは非常に苦痛である。もう帰りたい。
「あのホテルだ」
「結構立派な建物だね」
「じゃあ、頑張れよ」
「うん、三島くんもね」
ホテルの前で三島くんに手を振って別れると、心の中で気合を入れるようによし、と呟いた。立派な装飾の扉は鉄でできているみたいに重たい。予約の手続きは全て済んでいたから、名前を告げるとすぐ客室に通された。大きな旅行鞄を床に放り投げ、自分もベッドに沈み込む。足が痛い。恐る恐る靴を脱いでみたらやっぱり、血が滲んでいた。やばい、手当しないと。靴まで血が染みることはないと思うけど、初日からこれでは先が思いやられる。まるでもういっこの心臓ができたみたいに右足がズキンズキンと脈打っていた。早く手当して、外に出なければ。引きこもったままでは津山には出会えない。持参していた消毒液とガーゼで応急処置をしてから意を決して再びブーツを履く。ビリビリした痛みが全身を駆け巡り、目尻に涙が浮かんだけど、ここには私しかいないから泣いたって大丈夫だろう。
「ごはんでも食べに行くか」
乱暴に涙を拭った後、ぽつりと独り言を呟いた。ここ数年は完全にひとりきりという状況はなかったから不思議な感じだ。少し歩いたところに評判の洋食屋さんがあることは事前に調べてあったので、足の痛みを悟られないよう自分史上最大のすまし顔で洋食屋さんへ向かった。第七師団の仲間たちも私を観察していることだろうから異変があったなんて悟られては計画が失敗になってしまう。鶴見中尉にも怪我はもう大丈夫だと言ってしまった手前、私のせいで計画を潰すわけにはいかない。洋食屋さんでメニューを見せてもらったがなんだかよくわからないものばっかりで全く味の想像ができなかったのでおすすめのビーフシチューとかいう煮物を選んだ。うーん、大人の味って感じだな。でも美味しい。ほっぺたが緩むのを感じてはっとする。任務中なのだから気を引き締めなければ。
「最近、変な男がうろついているらしいから気を付けてね」
「変な男、ですか」
「帽子付きの外套を羽織っててね、顔が見えないんだけど……お嬢さんくらいの若い女の子があとをつけられたんだって」
「それは……怖いですね」
「暗くならないうちに帰りなさいね」
「はい、有難うございます」
親切な店員のおばちゃんのおかげで初っ端から有力情報をゲットしてしまった。自分くらいの若い女が狙われている……ということは、あとは私の姿が津山の目に留まれば………………いややっぱ怖い!あとをつけられるって、どこまでついてくるの!?ついてこられた子たちはそのあとどうなったの!?!?もっと詳しく聞いておくべきだった、と心の中で項垂れる。もうちゃっちゃと終わらせて尾形上等兵に会いたい。
「大丈夫ですか?」
振り向くと、上等な着物を着たお姉さんが心配そうに立っていた。大丈夫か、とはどういうことだろう。そんなに体調でも悪そうだったかなと考えを巡らせていたらお姉さんが続けて「足、痛そうだったから……」と控えめに指さした。隠していたつもりだったんだけど……無意識のうちに庇ったような歩き方でもしていただろうか。
「……ええ、こんなブーツ履きなれてないものですから、少し歩きづらくて」
「靴擦れを起こしてませんか?」
「いえ、大丈夫ですが……」
「よろしければ、この先に私の知っている喫茶店がありますから、休んでいかれませんか?」
何だか妙に押しの強いお姉さんだけど、知らない人から指摘を受けるってことはよほど痛そうだったのかも。この帰り道に津山に出くわす可能性がないわけじゃないし、少し休憩していこうかな……いいですよね?さり気なく周りを見渡してみたけど私の見える範囲に仲間の姿はなかった。「じゃあ、休憩していこうかな」とお姉さんに言ったら、少しだけ笑顔を浮かべて路地裏に入っていく。入り組んだ細い道を迷いなく進むお姉さんは先ほどと打って変わり一言も喋らなくなった。もしかして、津山が変装してるわけじゃ……ないよね?顔も声も、女性のものだった。だけど私を半ば強引に誘いだしたことは確かに少し違和感がある。津山じゃない犯罪者を引き当ててしまったのだろうか。……ていうかこれ、津山以外が釣れた場合ってどうなるんだろ?そう思っている間にもお姉さんは進み続ける。ああ、もう自力じゃ大通りに戻れないかも。こんな奥まで来ると思わなかったから何回右に曲がって何回左に曲がったのかなんて覚えていない。太股の拳銃を袴の上から確かめ、後姿を注意深く見守っているとお姉さんが急に立ち止る。
「や、約束通り連れてきました……」
「ご苦労だったな」
二人きりの空間にお姉さんが呟くと右前方から男の声が聞こえ、私はすべてを悟った。そうか、このお姉さんも被害者なのか。声の方から空気を切り裂く気配がして、咄嗟にお姉さんを押し倒す。右腕に裂くような痛みが走ったが、この程度なら支障はない。姿を現した男は、右手に日本刀、左手に猟銃、腰には短剣を二振り差すという異様な出で立ちだった。戦争にでも行くつもりか、この男は。津山らしき男の顔はやけに冷静で、そのことが逆に私の恐怖心を煽っていく。私の下敷きになっていたお姉さんがうわごとのように「助けて、助けて」と泣きながら呟いていた。きっと私を連れてこなければ殺すとでも言って脅されたのだろう。お姉さんを庇うように前へ回ると、男も一歩、私たちへ歩を進めた。距離は1メートルといったところか。こんな場所で音の大きい散弾銃は使わないだろうと推測を立てるが、日本刀も十分厄介だ。間合いに入ったら斬られる。男の左足がじゃりを踏みつけ、また一歩距離を縮めた。私を見ているようで違うような、焦点の合っていない瞳をしたこの男は一体どんな理由で人を殺すのだろう。第七師団がでてこないということはこの異変に気付いていないのか、機を窺っているのか。いずれにしても絶体絶命な状況だがやるしかない。振りかざされた日本刀が太陽を受けてきらりと光ったのを合図に、太股に付けていた拳銃を取り出す。練習しておいてよかった。拳銃を向けられた男が一瞬驚いたように目を見開く。
「お前、北鎮部隊だろう?」
「……ばれてしまいましたか」
「お前をここに連れ込む間に、兵隊を少なくとも二人殺した」
「…………」
「あと何人居る?」
「さあ……自分も詳しくは」
「クソッ、貴様……よくも騙したな」
「…………は?」
「女だと思ったのに……クソッ、台無しだ!!北鎮部隊なんかに邪魔されるなんてッ……!!」
あ~……な、なるほどね、うん、仕方ないよね。私髪短いし。兵隊に囲まれていたという状況から私のことを女装した少年とでも勘違いしているのかさきほどまであんなに冷静だった男が激昂した。つまりこれ、囮は私じゃなくてちょっと小柄な男でも行けたってことだよね?そう思うと内心複雑ではあるが……いや、きっと私だから引っかかってくれたと思うことにしよう。そうじゃないとやっていられない。遣る瀬無さを感じつつ次の動きを窺っていると、突然日本刀を手放し、散弾銃を向けてきた。やばい、散弾銃はやばい。こんな狭いところでぶっ放されたらひとたまりもない。けど、私が避けたらお姉さんが―――
そのとき、パン、という耳慣れた音とともに男の頬に穴が開き、まるでスローモーションのようにゆっくりと倒れこんだ。後ろからはお姉さんの悲鳴が聞こえる。恐る恐る拳銃を構えたまま近づくと、うつろな目で必死に息を吸い込もうとしていた。こちらへ向かってくる複数の足音が徐々に大きくなり、終わったのだ、と短く息を吐いてお姉さんを抱き起こした。
この世はヴァニタスでできている2