「起きろ、」
戦場のなかでその声はやけに落ち着いていた。
意識は急浮上して、暗い暗い闇の中、猫みたいな目がふたつ、光っていた。
「俺がわかるか?」
「……尾形、上等兵、殿……?」
月明かりが薄っすら差し込むそこは、私の部屋だった。土煙の舞う死の丘なんかじゃない。ここは、北海道の、旭川だ。夢を見ていたのか。起き上がろうと手をついたら、全身が小刻みに震えていて力が入らなかった。なんと情けないことか。私たちは、戦争に勝利して、祖国へ帰ってきたのだ。そうわかっていても、たった数か月前のあの光景が、寝ても覚めても脳裏を離れない。
「しっかりしろ」
「……大丈夫です、それより、なんで尾形上等兵殿がここにいらっしゃるんですか?」
「お前が魘されていると、叩き起こされた」
「はは、心配してくださったんですか?でも、大丈夫ですよ。まだ普通の生活に慣れないだけです」
「とりあえず、その汗を拭け」
受け取った手拭いを首筋に当てる。よく見たら結構な量の汗をかいていたみたいで、寝間着の色が変わっていた。なんだか無性に恥ずかしくなってきて「もう大丈夫ですから」とお引き取り戴こうとしたけど尾形上等兵は手拭いを持っていない方の腕を掴んで私を強引に起き上がらせた。
「着替えを持ってこい」
「え?」
「早くしろ、俺は眠い」
眠いなら帰っていいのに……と思いつつ視線が怖かったので予備の寝間着を持って温かいを通り越して最早暑いくらいになっている布団から這い出る。ちらりと同室の面々を振り返ったらみんな難しい顔で私を見ていたから、小さく頭を下げて部屋を後にした。騒がせてしまったようで恥ずかしいやら申し訳ないやら、色んな感情を込めたお辞儀だったが果たして伝わっているのかはわからない。明日どんな顔して会えばいいのだろう。とにかく今は、お説教なのか激励なのかわからないが尾形上等兵が私に何か有難いお言葉を授けてくれるみたいなので、寝間着の上に軍服の上衣を羽織った背中を少し早足で追いかける。当番の時以外で消灯後にこの兵舎を歩くのは初めてだ。誰が尾形上等兵を呼んできてくれたのだろう?尾形上等兵は私が魘されているからと聞いてそれは大変だ!と駆けつけてくれるようなキャラではないはずだが。しかも就寝中だったのを叩き起こされたとか言っていたがそんな命知らずなことする人がいたとは。窓から吹き込む初夏の柔らかい風が身体に気持ちよく当たって拭ききれていない汗を冷やしていったけど、それでも顔の熱は治まらなかった。脱衣所で着替えろと命じられた私が素直に洗いたての寝間着に着替えると、それを一瞥してから今度はついて来いと呟いて出口へ向かっていく。消灯後にこんな真似して、怒られないだろうか。ドキドキする私を他所に尾形上等兵はどんどん進んでいく。かと思えば徐に立ち止まり、背を向けたまま私の名前を呼んだ。
「後悔しているか?戦争に行ったことを」
「……後悔はしていませんよ。陸軍に入隊するのを決めたのも、全部私の意思ですから」
「お前が気に病むことは何もない。あそこには善も悪もなかった」
「……私が、この陸軍で手に入れたものって何だと思いますか?」
「俺が知るわけないだろ」
「もうちょっと私に興味持ってくれても罰は当たらないと思います」
「見当もつかんな。なんだ」
「絶対考えてないですよね」
「いいから早く答えろ」
「……すみません、ここまで引っ張っといてアレなんですけど、私にもよくわからないんですよね」
「てめえ……」
普段無表情なのにどうして怒る時はわかりやすいんだろう。明らかに不愉快そうな顔をされた私は苦笑いするしかなかった。
「お前は何を考えているのかわからん」
「それ、尾形上等兵殿にだけは言われたくないですな」
「いい度胸だな、」
「ちょ、最後まで聞いてくださいよ。あのですね、私が生きて帰ってこれたのは尾形上等兵殿が私に狙撃を教えてくれたからだと思ってるんです。だからすごく感謝しています。けど帰ってきてから人間を撃った場面が何度も蘇ってきて、苦しくて、本当に必要だったのかって、でもそれって尾形上等兵殿から教わったことを否定することになるんじゃないかと思うとそれも悲しくて……すみません、やっぱりうまく言えないので出直します!」
「待て」
勢いで喋り始めたもののやはり言いたいことが全然まとまらなかったので全力ダッシュで逃げようとしたら尾形上等兵に首根っこを掴まれてそれは叶わなかった。
「好き勝手言って逃げようとしてんじゃねえ」
「い、いや、だから、簡潔に30文字くらいにまとめてからまた来ますってば」
「うるせえ。いいか、お前に狙撃を教えたのは俺だ。それがお前につまらん感情を植え付けた。そうだろう?」
「つまらん、て……」
「それがお前のしがらみになっているなら、俺を恨めばいい」
思いがけない提案に私は「えっ」と気の抜けた声を上げた。今更恨みのひとつやふたつ増えたところで何も変わらん、と口以外の表情筋を一切動かさずしれっと言ってのけるから、なにか変なものでも食べたんじゃないかと心配になるほどだ。この人の顔の筋肉、ちゃんと生きてるよね?それを確かめようと無意識に手を伸ばしたら普通に払いのけられてしまった。まるで虫でも払うみたいに自然な流れだ。今はそういうことする場面ではないことはよくわかっている。わかってはいるが、信じられなさ過ぎてぶち壊してしまいたくなるのだ。
「……いいんですか、後ろから撃ち殺すかもしれないですよ?」
「その時はちゃんと殺してやるから安心しろ」
尾形上等兵は私のやり場のない恨みも悲しみも全部自分に向けていいと言ってくれている。受け止めてくれると言っている。……たぶん。でもそれって、それって。
「それって……求婚ですか?」
「……どうしてそうなる」
「死ぬときは一緒だぜみたいな」
「お前の頭の中どうなっているんだ?」
「そりゃもう、尾形になるにはどうしたらいいか四六時中模索してますよ」
「そんな煩悩まみれでよく生きて帰ってこれたな」
「いやむしろ絶対叶えたい夢があったから生き延びたとも言えますね」
「…………勝手にしろ」
「もちろん、言われなくても勝手にするつもりですよ。だから、覚悟しておいてくださいね」
びしっと人差し指を突き出してそう宣言すると、尾形上等兵の口からは海みたいに深い深いため息が零れた。尾形上等兵は狡い人だと思う。こうやって私を奈落の底まで落として、二度と這い上がれないようにしてしまうのだから。「とりあえず、その汚い顔をなんとかしろ」と言いながら、尾形上等兵は私の顔を乱暴に拭った。やばい、鼻水出てないよなと心配になったけど、軍服で拭われたということは多分乙女の面目は保たれていたはずだ。そうであってほしい。
「さっさと戻って二度寝するぞ」
再び兵舎に向かって歩き出した尾形上等兵の背中に「好きです」と呟いてみたけど、空気を読まない強風にかき消されたそれはきっと尾形上等兵までは届かなかっただろう。
野末に眠る戦友よ