あ、まずい

 と思った時にはもう遅く。私は地面と接吻して口の中には土の味が広がっていた。貧血なのか、朝からなんだかくらくらするなあとは思っていたのだ。でも休むほどじゃないと軽く見ていたのが不味かった。上官の合図とともに立ち上がった瞬間全身の力が抜け倒れこんでしまった私はすぐに意識を手放し、次に目覚めたのは医務室のベッドの上だった。まだ少し頭がふわふわした感じがするけど、訓練中に倒れて離脱したことだけはわかる。

「……訓練っ!!」
「おい、静かにしろ」
「……尾形上等兵殿、あの、訓練が……私……」
「いいから寝てろ」

 そう言って起き上がった私をベッドへ強引に押し戻した尾形上等兵は、布団の上に落ちた手拭いを拾って水に浸す。その様子を見て、ああ、熱があったのかと自覚した。でもどうして尾形上等兵が付き添ってくれているのだろう?熱に浮かされた頭ではその疑問の答えを出すことができなくて、まあ嬉しいからいいかと思考を放棄したところで尾形上等兵がおにぎりを寄こしてきた。

「これを食べろ」
「……食欲ないので、あとで食べます」
「今食べろ」
「えぇ……?さっき寝ろって言ったのに……」
「薬が飲めねえだろ」
「……幾ら尾形上等兵殿の命令でも、苦い薬はお断りですよ」
「無理矢理飲ませてやろうか?」
「是非お願いします」
「……なら、早く食べろ」

 え?まじですか?ほんとにあんなことやこんなことをして飲ませてくれるんですか?自分で言っといて何だけどその返事は予想してなかった。ぽかんとしていたら尾形上等兵が顎をくい、と上げた。たぶん、早く食べろってことだろう。食欲がないのは本当なのだけど、そう言われてしまっては食べるしかない。おにぎりをゆっくり咀嚼する私の横で、尾形上等兵が水に浸した手拭いを手桶からすくい上げる。尾形上等兵のごつごつした手によって優しく絞られる手拭いがうらやましい。私はあの手拭いになりたい。一連の動きをじいっと見ていたけど、尾形上等兵は私を一瞥しただけですぐにまた手元へ視線を戻した。いつもと違って何も言われないのが嬉しくてふふっと笑ってしまう。

「……なんだよ」
「今日はどうしてそんなに優しいんですか?」
「俺はいつも優しいだろう?」
「…………まあそういうことにしておきましょうか」
「食べ終わったら薬飲んでおけよ」
「あれ?飲ませてくれるんじゃないんですか!?」

 ため息を吐いた尾形上等兵がコップに入った水を持って近づいてきた。あ、ちょっと待って、やっぱり緊張してきた。ずい、と顔を寄せて、私の顔に手を伸ばした尾形上等兵が結構な力で鼻をつまむ。息ができなくなった私が口を開けたところにすかさず粉末状の何かを入れられ、続いて水を流し込まれた。それを飲み込んだことを確認して、漸くつまんでいた鼻を解放する。尾形上等兵は「苦い……」と呟く私のことなど気にする様子もなく、再び手桶に手を入れた。

「尾形上等兵殿がここまで運んでくれたんですか?」
「さあな」
「とぼけても無駄ですよ、あとで聞き取り調査しますからね」
「なら俺に聞く必要ないだろうが」
「本人の口から聞いた方が百倍嬉しいじゃないですか」
「冗談言う元気があるなら俺はもう行くぞ」
「やだ!……じゃなくて、まだ熱あるから……その、」
「大人しく寝ていろ」

 そう言ったのと同時に、手拭いが私の顔面にべちんと投げつけられた。地味に痛い。病人にも容赦なしか。急に大声を出したせいかさきほどより倦怠感が増したのを感じて、言われた通り大人しく枕に頭を預ける。視界が遮断された私の耳に、ぎしりと金属が軋む音が聞こえた。尾形上等兵が椅子に座った音みたいだ。どうやらまだ居てくれるらしい。まあ、心配してくれてるとかじゃなくて誰かの命令だろうけど。

「ありがとうございます、尾形上等兵殿」
「何がだ」
「私今……幸せです」
「何だお前、死ぬのか?」
「……尾形上等兵殿を残して死ぬのは嫌です……」
「死にたくねえならさっさと寝ろ。早く治してもらわんと俺が迷惑する」

 きっと眉間に皺を寄せて嫌そうな顔してるんだろうなあとまた笑いがこみ上げてくるのを今度はなんとか堪える。手拭いのひやりとした感触が気持ちよくて、再び微睡みの中へ落ちそうになるけど、今寝るのはとてももったいない気がする。だって、尾形上等兵がこんな風に側にいてくれることなんて、この先ない、かもしれない――――








 医務室はの寝息と、遠くから聞こえる訓練の音だけが聞こえる静かな空間に変わった。風邪のときでさえ騒がしいとは、難儀なやつだ。鶴見中尉からの命令は「が起きるまでついていろ」だったが、それは先刻目を覚ましたことで完遂となるのか、判断できずにいる。自分のぶん投げた手拭いが未だにの顔半分を覆っていて、苦しそうな声を上げた。この状況でよく寝れるなと逆に感心しながら、手拭いを小さくたたんで少々乱暴に押し当てる。熱はどうだろうかと手の甲を頬に当てると、が間抜け面しながらくすぐったそうに身を捩り「えへへ」と気持ちの悪い声を上げ、俺は眉を潜めた。

剽悍なる我が人生