待ちに待った休日、私はうきうきしながら私服に着替え、街に繰り出した。そう、給料日である。私のような一等卒のお給金は決して高くない。だからこそどうやり繰りするか、そしてその中でいかに贅沢するかが重要なのだ。私は月に一度、甘味屋めぐりをするのが定番である。予め目をつけておいた甘味屋はいくつもあるし、毎月通っていて常連になっているお店もある。甘味は素晴らしい。口に入れた瞬間広がるどろっどろに甘いお砂糖の味は一種の薬物だと思う。想像しただけで唾液がだらだら溢れてくるのを感じてごくりと喉をならした。一件目の甘味屋に向かおうとした時、背中に強い衝撃を受けた私は耐え切れず前方へ倒れた。地面についた両手の平が小石を踏みつけた所為でじくじくと痛む。
「てめえ、どこ見て歩いてんだ」
「このクソガキが」
見た目典型的に危ない人たちがめちゃくちゃな因縁を付けてきたのが何だか非現実的すぎて、本当にこんなことあるんだな~とか暢気なことを考えているうちに胸倉を掴まれた。小一時間かけて頑張って着つけた女袴が捕まれたところから着崩れていくのを見て、私の中の何かがぷつんと切れる音がした気がする。気が付いたら胸倉を掴んだ男の顔面をグーで殴っていた。しまったと思った時にはもう遅くて、鼻血を垂らした男と、その少し後ろに居た男が刃物を取り出すのが見えた。そうやってすぐ頭に血が上るのがお前の悪い癖だと、尾形上等兵にも言われたなあ。でも尾形上等兵殿はもう少し人間味出した方がいいと思いますって言ったら静かにブチ切れられたのも良い思い出だ。しみじみとそう思いながら頭に振り下ろされたナイフを咄嗟に避ける。相手は自分がまさか軍人だとは想像もつくまい。ここは格好良く撃退したいところではあるが、生憎自分には体術の才能がないうえ、今は丸腰だ。……どうしよう。相手の次の動きを見極めようとしていたところに割り込んできたのはまさかの人物だった。
「こんなところにいたのかい」
「つ……る、」
にこり、と人の良さそうな笑顔を浮かべ、聞いたことないような優しい口調で話しかけられる。鶴見中尉殿、と言おうとした私を牽制するみたいに、人差し指を唇に当てた。この人、こんな顔できるのかと変な方向に呆気に取られた私は今の状況も忘れて鶴見中尉をぽかん、と見上げた。いつもの軍服ではない洋服を着て、帽子まで被っている。軍服じゃない中尉は初めて見た気がした。日本人のくせに洋装が似合うなんて羨ましい限りだ。
「なんだおっさん、このガキの知り合いか?」
「私の弟の娘さんですが……この子がなにか?」
「そいつが急に殴ってきやがったんだ。あんたでもあのクソガキでもいいから、治療費出せよ」
「そうですか……それは大変な失礼を」
「全くだ。見ろよこの顔。女の癖に、グーで殴りやがって」
「申し訳ございません、次からはきちんと仕留めるよう、言い聞かせておきますので」
不穏な一言を発した後、鶴見中尉は相手のみぞおちに綺麗な右ストレートをお見舞いした。あんな他人行儀な鶴見中尉初めて見たものだから、完全に油断していた。
「つ、じゃなくて……お、おじさま!落ち着いてください!」
「私は至って冷静だよ、さん。ほら、一撃で仕留められただろう?」
「そういう冷静さは今求めてません!!」
「今日はやけに反抗的だね」
「それもういいですから!」
設定に入りこみすぎじゃないですか?とにかく、人が集まってこないうちにここを離れなければ厄介なことになってしまう。幸い、怖気づいたのかもう一人の男は逃げたみたいだった。私は鶴見中尉の腕を掴んで路地裏に走りこむ。
「鶴見中尉殿!あんな目立つところで揉め事はやめてください……って私が言えたことじゃないですけど!」
「二人の時はおじさまと呼んでいいんだよ?さん」
「もおおおおおお!」
「冗談だ。君が可愛い反応するから、ついからかいたくなった」
普段見る事のないような毒のない微笑みを浮かべながら、鶴見中尉は私の乱れた着物を整えてくれた。なんで私より着つけ上手いんですか?なんか負けた気がする。この人ほんとに何でもできるな。複雑な心境になりつつお礼を述べたら「では、行こうか」と胸の前に手を差し出された。いや私、鶴見中尉殿とお約束してたわけじゃないんですけど……。これ、どうすればいいの?掴むのが正解なの?そもそも鶴見中尉はこんなところで一体何をしていたのだろう。困惑しつつその手と鶴見中尉の微笑みを交互に見ている様もからかいの範疇なのだろうが、私にとっては大問題だ。
「甘味を食べに行くんだろう?」
「え……なんでご存じなんですか……」
「月島軍曹から聞いたぞ。実は、俺も甘味が好きでね」
「はあ……」
「おすすめのお店はあるのかい?」
「あ、それなら、向こうの通りを……って、本当に一緒に行くおつもりですか!?」
「何か問題でも?」
「………………………………鶴見中尉殿と二人で外食なんて、お、恐れ多いです」
「ははは、今日はさんのおじさまなのだから気にすることないよ」
「それ続けるんですね」
いつまでも手を取らないことに痺れをきらしたのか、鶴見のおじさまは私の手を強引に掴んで目的の甘味屋さんへと進み始めた。お店の名前を言ったら知っているお店だったみたいで「一度行ってみたいと思っていたんだ」とうきうきしたように言った。その軽い足取りとは対照的に私は折角の甘味屋めぐりに新メンバーが加入したことを素直に喜べず、がっくりと項垂れるのだった。でも奢ってくれるって言ってるから、まあこんな日もありだろう。
かつて私は万朶の桜のひとつだった