私には女友達がいない。
正確に言えば、子供の頃にはいた。生まれ育った村に居た同い年のスミちゃん、少し年上のタネさん、一つ年下のいとちゃん。その中に自分を入れた4人でよくつるんでいた記憶がある。その交友関係も、屯田兵の兵村へ移住してからはぷつりと途絶えてしまった。あの子たちは今も元気でいるだろうか。少しだけ思い出に浸りつつ、細長い姿見の前で自分の身なりを入念に確認する。この着物が本当に似合っているのかいまいち自信がなかった。誰か、誰でもいいから背中を押してほしい。ただし兵営に居る男衆の意見はあまり鵜呑みにできなかった。谷垣や三島くんは「似合っている」と太鼓判を押してくれてはいたものの、二人とも人が良いので気を使ったお世辞の可能性が高い。二階堂兄弟に至っては目もくれず「いいんじゃねーの、知らんけど」などと雑にあしらう始末。こんなとき、おしゃれに詳しくてズビッと悪いところを指摘してくれる女友達がいてくれたらと思わずにはいられない。
はあ、とため息を吐いてからもう一度前後を確認して、諦めにも似た気持ちで部屋を出た。私が何故ここまで身なりを気にしているのかと言えば、今日は任務という名の外出があるからである。それも尾形上等兵と、だ。でなければこんなに気合を入れる理由もない。
「遅い」
「す、すみません……」
廊下には少し苛立った様子の尾形上等兵が腕を組んで立っていた。
「女の身支度の遅さには辟易するな」
「そりゃあ時間も掛けたくなりますよ!特に好きな相手と出かけるときなんかもう、気合入れまくりの入れまくりですから」
「……一応仕事だぞ」
「わ、わかってますよー!仕事はちゃんとやりますってば」
任務の内容はごく簡単なものだ。とある街で入墨の囚人の目撃情報があった。私と尾形上等兵は兄妹に扮してより詳細な情報収集をする、というのが任務だった。兄妹として。兄妹……かあ。私はそれだけが引っ掛かっている。任務を言い渡した鶴見中尉にうっかり「恋人じゃだめですか?」とか口走ったりしなかった自分を褒め称えたいくらいだ。それを抜きにすれば二人きりの任務には違いないのだから、悲観するほどでもないのだけど。……そう思わないとやっていられない。
「二人だけで任務、って初めてですね」
「そうだったか?」
「……ほんっとに私に興味ないですよね、尾形上等兵殿」
「そうでもない」
「えっ!?」
「は予想外の言動が多いから見ていて飽きない。見る分には、な。直接関わるのは御免だが」
「いやそこは関わってきてくださいよ……」
微妙に嬉しくないんですけど。それって珍獣を見るみたいな意味では?まああまり納得いかないけれど、機嫌の直ったらしい尾形上等兵が口元に笑みを浮かべたので今日のところはよしとしよう。
尾形上等兵と私は別々に兵営を出発して、小樽から汽車を乗り継いで少し遠くの街へ足を延ばす。隣町から馬車を使ってお世辞にも大きいとは言えない駅に着くと、私は駅員室の近くに立って尾形上等兵を待った。我らが第七師団27聯隊渾身の寸劇の始まりである。壁に掛けられた小さな時計を見れば、汽車の到着時間はもう間もなくだ。駅で待ち合わせなんて人生で初めての経験でそれだけでも心が躍る気がしたが、相手が尾形上等兵だということで私はそわそわしきりだった。秒針が動くのすらもどかしくて、私が見ているから針の進みが遅いのではと錯覚してしまう。
「お嬢さん、誰かと待ち合わせかい?」
「え、ええ。兄が帰ってくるんです」
年配の駅員さんからにこやかに話しかけられ、私は用意していた台詞を口にする。棒読みになっていないだろうか。なにせ演技の経験など全くないので、自分が今棒読みになっているのかどうかすらわからない。それでも駅員のおじいさんはこれまた朗らかな笑顔で「そうかそうか」と頷きながら飴をくれた。悔しいが、兄妹という設定は正解だったのかもしれない。
ついさっきまで一緒に居た尾形上等兵に早く会いたくて仕方がない私が全神経を耳に集中させていると、やがて汽車が線路を走る音が聞こえてきた。私は到着した汽車から降りてくる乗客の中に見知った顔を見つけ、大きく手を振る。その瞬間、尾形上等兵の口元がへの字に曲がったのがわかった。なんでだ。今の数秒で気分を害する要素あっただろうか?狼狽えているうちに仏頂面が大股で近づいてきたかと思えば、ぐいぐいと駅舎の外へ背中を押される。
「ちょ、尾形上等兵殿……そんなに押さなくてもちゃんと歩きますから!」
「目立つような真似をするな」
「いやいや、久しぶりの兄妹の再会ですよ?これくらい普通ですって」
「……余計なことはしなくていいから大人しくしていろ」
「はーい」
ちょっとは乗ってくれるかもという私の淡い期待は一瞬で打ち砕かれた。……まあ、わかっていたけどさ。だって傍から見れば私たちが兄妹かどうかなんて些末な問題なのだから、そこまでなりきる必要性などないし、本質はそこではない。雑踏に紛れ込んで情報を集めるのが本来の任務だ。完全にいつものお仕事状態の尾形上等兵だがそれでも一応今の私を「部下」ではなく架空の「妹」として扱ってくれているらしく、私が持っていた風呂敷をそっと手に取った。数冊の本と衣類を詰め込んだ、深い意味のない小道具の一つである。
「目撃情報があったのはこの先だな」
「でも、その情報が入ってから数日は経ってるんですよね?もういないんじゃ……」
「だとしても、行先の手がかりはあるかもしれん。そもそも目的は入墨の囚人の確保じゃねえだろ」
駅からほど近い宿屋に、その入墨の囚人は出入りしていたらしい。しばらくは現地の兵士が張り付いていたが、うっかり見失ってから足取りが掴めないそうだ。尾行に気付かれた可能性を考慮し、私と尾形上等兵が派遣されてきたというわけなのだけれど……だとしたら、そんなに用心深い男がまだこの街に滞在しているとは考えにくい。ともあれ、ここまで来てぐちぐち言っていても仕方がないので、私と尾形上等兵はそれっぽさを装いつつ聞き込みを開始した。「変に演技する必要はないが、間違っても『尾形上等兵』とは呼ぶなよ」とくぎを刺された通り、私は「妹」に徹した。「兄」の斜め後ろに控え、余計な口出しはせずただ微笑を浮かべる。白状すると、私は聞き込みなどそっちのけで尾形上等兵の後ろ姿ばかりみていた。だからこそ多幸感から自然と笑顔になっていたとも言えるかもしれない。
街で聞き込みをしつつ昼食をとったりしているうちに日が傾いてきた。特別任務(と、私が個人的に思っているだけだが)も終わりの時間である。情報はいくつか拾えたが、それが有力なものか否かは鶴見中尉の判断になるだろう。
「やっぱり入墨の囚人はもうこの街には居ないみたいですね」
「ああ……だが、鶴見中尉の持つ情報網と照合すれば足跡は追えるかもな」
私は改めて鶴見中尉は敵に回したくないと思った。
「なにか食って帰るか」
「え、いいんですか?」
「帰りの汽車まで時間があるからな」
「じゃああのお団子屋さんがいいです!」
「俺は飯のつもりだったんだが」
「甘いもの嫌いでした?」
「そうは言ってねえ」
すっかりお団子の口になっていた私だが、ちょうどその時私たちの前に定食屋さんの看板が現れたため結局そこで腹ごしらえをすることになった。お団子はお土産にしよう。
なんだか終わってみれば随分充実した一日だった気がするな、と私は漬物を齧りながら振り返る。私がしたことと言えば尾形上等兵の後ろでニコニコしていただけなのだけれど、彼曰く連れに年頃の女がいるだけで人の警戒心というものは多少薄れるらしい。もしそれが本当ならば、少しは役に立てたと思っていいのだろうか。
「あっ、尾形上等兵殿、しいたけ残しちゃだめですからね」
「そんなガキみたいなことしねえ」
「ならどうして隅に除けてるんですか」
「……ほしいならやる」
「えー……それだけもらってもなあ」
「……それより、今日は『尾形上等兵』はやめろと言っただろ」
「そ、そうでした。つい気が抜けて……」
幸い周囲には聞こえていないようで、ほっと胸を撫でおろした。このあとはまた尾形上等兵とは別行動で小樽まで帰る。それまでは「妹」を演じる必要があるのだ。……でもそれだと名前を呼べないのが少し寂しくもある。早く帰りたい。帰って一等卒に戻って思う存分「尾形上等兵」と呼びたい。尾形上等兵に「」と呼びつけられたい。もう少し二人でいたいけど、早く帰りたい。そんな複雑な想いで私は熱いお味噌汁を飲み干した。
店を出たあとさきほどのお団子屋さんでお土産を買い、そのまま駅へ戻る。尾形上等兵が心なしか歩調を合わせてくれているのは、彼も私と同様もう少しこの時間が続いてほしいと思ってるからかも……まあ実際には違うのは確実だけど。駅舎の少し手前で風呂敷を尾形上等兵から返された。受け取ると、今朝ぶりの重みが甦ってくる。なんだか今の私の気持ちみたいだ。
「じゃあ、帰りもお気をつけて」
「……」
「ど、どうしたんですか」
「……が静かだと不気味だな」
「大人しくしてろって言ったくせに……!」
「いや……そうだな」
「はぁ、早く帰って着替えたい……」
「なんだ、その恰好が不服だったのか?」
「そういうわけではないですけど……ただ、今の自分が自分じゃない気がして落ち着かなくて」
「お前は今俺の『妹』なんだろ、それなら当然だ」
「……私、やっぱり『妹』は嫌だなあ」
「俺は案外楽しかったけどな」
「……えっ!?」
自分の耳を疑って聞き返したけど、尾形上等兵は何食わぬ顔で改札を抜けていった。……いや、あまり期待はしないでおこう。きっと珍獣を見るような心境と同じ感覚に違いない。兵営に帰ったら今日呼べなかった分思い切り尾形上等兵の名前を連呼してやると心に決め、私は一度大きく肩を竦めてから帰りの馬車に乗るべく駅舎に背を向けた。
キスツス・アルビドゥス