※堂々と310話までのネタバレがありますので未読の方はご注意ください!
※こんな未来があったかもしれない……なお話です。






















拝啓

芳しい沈丁花の香りに、春の到来を感じる頃となりましたが、お元気でいらっしゃいますか。こちらはおかげ様でつつがなく平穏な日々を過ごしております……



 私は筆を止め、墨の香る便箋を両手に持ちあげた。そのまま後ろへ倒れこんで頭から読み返してみる。続きが思いつかない。手紙とはこんなに難しいものだっただろうか。伝えたいことは山ほどあるはずなのに、いざ筆を持つとなにも出てこない。ただあの人の顔が浮かんでくる。ちゃんとごはん食べているだろうか、睡眠は取っているだろうか。また敵ばかり作っているのではないだろうか…………そんな心配ばかりが頭を巡る。きっと「余計なお世話だ」と一蹴されること請け合いで、私はそれを想像してふっと噴き出した。

「気持ちの悪い思い出し笑いはやめろ」
「…………尾形上等兵どのッ!」

 今まさに考えていた人が、自分の瞳に逆さまに映った。私はがばっと起き上がって躊躇いもせず腰に抱き着く。本物に会えたなら、もうお利口ぶって文をしたためる必要もない。残念ながら抱きしめ返してくれることはないが、引きはがされないだけ今までより一歩前進といったところか。

「まだこの軍服、慣れないなあ」

 尾形上等兵は以前の紺色のとは違う、茶褐色の軍服を着ていた。今後はこれが陸軍の制式になるらしいが、見慣れた軍服が廃止になるのは寂しいものだ。あの紺色の軍服には酸いも甘いも、私の青春がたくさん詰まっている。

「お前が慣れようが慣れまいが俺には関係ない。それを言うならこっちだって、お前の髪が長いのは違和感があるんだがな」
「それこそ早く慣れてくださいよー!可愛いとか言ってもいいんですよ?」
「……それより、戸締りはしろと以前注意したつもりだったが」
「えっあ、いや、でも……今まで特に問題は」
「あるだろうが。現にこうやって俺は誰にも気付かれずここまで入ってこれたぞ。俺じゃなく強盗だったらどうするつもりだったんだ?」
「……陸軍の経験を活かして華麗に撃退する、みたいな?」
「お前が近接戦に自信があったとは初耳だな。試してみるか」
「いやいやいやいやいいですいいです!大丈夫です間に合ってます!」

 口の端を吊り上げた尾形上等兵から咄嗟に距離を取る。さすがにこの狭い室内でどったんばったんと暴れるつもりはないだろうけど……。そう思いつつ警戒してじりじりと後ずさるが、予想に反して尾形上等兵は肩を竦めただけでその場に胡坐をかいた。

「久々に会ったってのに随分な歓迎だな」
「あっ!おかえりなさい、尾形上等兵殿」
「……もう上等兵じゃねえよ」
「あれっ?ええと……」

 そういえば手紙に書いてあったような……と記憶の引き出しを探る。異例の陸士入校から今まで、私たちは金塊争奪戦が終わったあとほとんど顔を合わせずにいた。東京まで押しかけてしまおうかと思ったこともあったが、わずかに残った私の理性がそれを制したおかげで手紙だけのやり取りが続いていた。実感がないのはきっと軍から離れた影響も大きいだろう。今では私はただの善良な一般市民である。街で北鎮部隊とすれ違っても敬礼する必要もなければ、階級を気にする必要もない。尾形上等兵は尾形上等兵のまま、私の時間は止まっていた。
 いまだに手紙の内容を思い出せずにいる私の頬に尾形上等兵の手が触れる。軽く顎を持ち上げられると、彼の顔が迫ってきた―――




***



「おい、起きろ」
「ん~~~~」

 ゆっさゆっさと体が大きく揺すられる。数秒間抵抗を試みたあと、私は観念して目を開けた。

「おがた、じょうとうへいどの」
「変なところで寝るな」
「なんでいるんですか?」
「……お前、電報読んでねえだろ」

 尾形上等兵は、私の文机に重ねられた手紙と電報に目を遣ってから呆れたようにため息を吐いた。そこにあるのはすべて尾形上等兵から私に宛てられたものだ。彼の言う通り、私は電報を開いてすらいない。正確に言えば直近の2通だけが未開封状態である。

「今日帰ると電報で伝えたはずなんだがな」
「あー……すみません、なんか開けるのがもったいなくて……」
「電報にもったいないもクソもあるかよ」
「いやいや、だって尾形上等兵からのですよ?ちゃんと身だしなみを整えて、精神統一して心を落ち着けてからじゃないととても読めたものじゃないですよ!」
「その割にはずいぶん部屋が取っ散らかってるじゃねえか」
「いやその、これは……今から片付けようと」
「寝てただろうが。鍵もかけないで。不用心すぎるんだよお前は。除隊して緊張感がなくなるのは結構だが少しはこっちの身にもなれ」
「もしかして心配してくれてるんですか?」
「……そんなつもりはない」
「尾形上等兵殿……それはちょっと無理があります」
「……ところでお前、いつまでその呼び方を続けるつもりだ?」
「えっ、あ」

 指摘され、私はぎくりと目を泳がせた。これはもう癖だ。「尾形上等兵殿」と呼んできた年月を考えれば当然のような気もするが、たしかに彼の言う通りすでに階級は上等兵ではないのだから不適切には違いない。

「じゃあ、尾形少尉殿」
「……」
「まさかのシカト!?」
「……あれだけ尾形の姓を欲しがってた割に、頑なに呼び方を変えないのは解せんな」

 ずいっと、尾形上等兵……少尉の顔が近くなる。どうしてと言われたら、深い理由はない。だって尾形上等兵はずっと尾形上等兵だったから。私にとって尾形上等兵は一生手の届かない憧れの人だったのだ。こんな風に親密になれるなんて思いもしなかった。妄想はただの妄想でしかなく、私が「尾形」になりたいと願ったのもどうせ実現しないだろうという前提があったからこそ言えた冗談のようなものだ。しかし、その冗談が冗談でなくなる未来がすぐそこまで来ていた。

「……だって、だって……」

「っ……」
「これで、俺も変えてないって屁理屈は使えなくなったな」
「なんか……変わりましたね。意地悪は相変わらずですけど」
「お前がその気にさせたんだろ?責任取れよ」
「のっ、望むところです!」

 これまで尾形上等兵に対して無限に差し続けては弾かれ続けていた矢印がまさか返ってくるだなんて、自分でも想像していなかった。ここで日和ったら尾形上等兵のペースに飲まれてしまうと思った私は、耳に熱が集まるのを感じながらもなんとか強がって彼の目の前に拳を突き出す。それはすぐに尾形上等兵の掌で包まれてしまった。硬くてがさがさで大きくて温かい。

「……これ、夢じゃないですよね?」
「はぁ?何言ってんだ」
「なんか幸せすぎて逆に怖い」
「ふざけんな。俺はまだ足りねえぞ」
「素直すぎる尾形上等兵も怖い」
「……なんだって?」

 金塊争奪戦のあと、憑き物が落ちたようになった尾形上等兵はかつての私のように……とまではいかないが、度々好意的な態度を見せるようになった。今までの仕返しなのだろうか。私の反応を面白がっているとも取れるが、これまでの彼からすれば考えられないほど素直な台詞ばかり出てくる。



 脳に響く低い声が私を呼ぶ。そんなに私のことが大好きなんですか?とか茶化してやろうか逡巡しているうちに、私の体が尾形上等兵の腕に閉じ込められた。

ラブ・ミー・テンダー


ぶっちゃけこの長編を始めたときから尾形上等兵が生き残る未来はあんまり見えてなかったので想定の範囲内ではありましたが……でも悲しいことに変わりはないのでもしも話作っちゃいました!

尾形←←←←←←←←夢主だったのが尾形→→←←←←←←夢主くらいになってたらいいな~っていうお話でした。で、そうなったらそうなったであたふたする夢主(笑)。

周囲からの愛と祝福に気が付いて少しだけ柔和になった尾形上等兵が見たかっただけ。たぶんこの夢主さんは一生祝ってくれると思いますので。私も一生祝います。

あと時候の挨拶は適当です。