世界が東雲に変わってゆく7

 尾形上等兵との訓練期間が終わってわかったことがある。
 どうやら自分は尾形上等兵を好きらしい。…………やっぱりあり得ない気がする。脳みそが震えるくらい激しく頭を振ってみても浮かぶのはあの無表情で、ただふわふわとした気持ちの悪い浮遊感に似たものが残るだけだった。人を好きになるのに理由などないと言うけれど、今回ばかりは本当に理由が思い当たらない。話しかけても八割がた無視されるし、何考えてるのかわからないし、たまに面白くない冗談言うし。……まあでも、教え方は上手だったけど。あと無視はするけど話の内容は割と覚えてくれてたな。うん、悪い人ではない……ってそうじゃない!

「お前、一人で何やってるんだ?」
「……ちょっと考え事を」
「相変わらず変な奴だなあ」

 私の隣にどかっと座った悠木くんが煙草をふかした。煙草の煙にはまだ慣れない。尾形上等兵は吸わなかったから気にならなかったが、酒保では当たり前のように売られていてどの兵士も当たり前のように吸っている。当然自分も吸っていないけどこのままだと私の軍服にも煙草のにおいが移ってしまうのではと密かに心配していた。そんなことも知らず、悠木くんは白い煙を吸っては吐き吸っては吐きを繰り返している。わっかになった煙をだして得意げな顔をしてみせるのには素直に感心したけど「やってみるか?」なんて勧められても絶対むせる自信があったので丁重にお断りした。悠木くんは酒保でぼーっとしている私のところへ時折現れ断りもなく隣に座ってくる。そして大した会話もせず、ただ煙草を1本吸って立ち去るのだ。一体何が目的なのかさっぱりわからない。

「……もしかして、ぼっちだと思われてる?」
「どうした急に」
「あ、いや……悠木くんて私に気を遣って話しかけに来てくれてるのかなと思って」
「俺がそんなことするわけないだろ」
「……それはどういう意味で?私なんかに対して気遣いなんかしねえよってこと?それとも俺は気遣いするタイプじゃねえってこと?」
と話がしたいだけだって」
「…………ああ、そっか」
「お前本当に大丈夫か?医務室行くか?」
「大丈夫、私ちょっと用事思い出したから行くね」

 ―――尾形上等兵はどこにいるだろう。訓練が終了してから尾形上等兵と会う機会は劇的に減った。何度か廊下ですれ違うことはあったが、話しかけてはいけない雰囲気を感じ取って挨拶だけで済ませていたから、もう何か月もまともな会話をしていない気がする。上等兵と一等卒の壁がこんなに分厚いとは思わなかった。私の現役期間はもうすぐ終わる。戦争でも始まって再召集されない限りもう一生会えないかもしれない。そもそも私のような異分子が再召集の対象になるのかすら現時点でははっきりしていない。別に尾形上等兵とどうにかこうにかなりたいとか思っているわけじゃないけど、断じてそんなことこれっぽっちも思っちゃいないけれど、今のままでは非常に気持ちが悪い。まだ私が恋をしていると決まったわけではないのだから、それまでに確かめよう。……とは言ってもそう都合よく出くわすこともなく、広い兵舎の中休憩時間いっぱい探したにもかかわらず尾形上等兵を見つけることはできなかった。

「旭川恐るべし……」

 2階の窓枠に両手をついて師団本部の偉大さに嘆いていたら大きな鐘の音が鳴り響いた。それを合図に営庭から歩いてくるのは兵士たちだ。まあ、今日明日で除隊ってわけでもないし気長にやろう。黒い点々になって動く人の群れを見ながらそう考えていると、その中にお目当ての人物がいて窓の外に身を乗り出した。

「……いたッ!」

 誰か知らない人と歩いているのは紛れもなく尾形上等兵だ。何か喋っているようにも見えるけどやっぱり無表情だったものだからつい苦笑いが漏れる。隣は同期の人だろうか?彼が私以外の人間とも普通に会話していることを不思議に感じるほど、私はあの人の事を何も知らないのだなと思うと胸のあたりのもやもやが広がった気がした。訓練が終わった後、あの人は私を思い出してくれることがあっただろうか。自分の方は悔しいことに思い出すどころかいつも頭の片隅に尾形上等兵がちらついていた。私ばかりこんな状態なのはやはり悔しいが果たして尾形上等兵は所謂色恋沙汰に関心があるのか想像もつかないことだった。もし既に婚約ないし結婚していたなんてオチだったとしたら、なんて不安が過ぎる。いっそのこと直球勝負で聞いてみるべきか迷うところだが答えを聞きたくない気もするのだ。そんなやり場のないイライラを抱えながら尾形上等兵を凝視していたらふいに尾形上等兵と目が合ってしまい、逸らすことができないまま私たちは見つめ合った。ちょっとこれ、めっちゃ恥ずかしい。さっさと視線を逸らすなり隠れるなりしてしまえばよかったのに、まるでどこかの国の神話にある目が合ったら石にされるというなんとかっていう怪物に遭遇したみたいに動きたいけど動けない状態で、向こうも向こうでどうしてこういう時に限って無視しないのか不思議でならないしつまり何が言いたいのかというと私は今尾形上等兵と目と目が合ったことで非常に心拍数が上がっている。未だに目を逸らさない尾形上等兵は私に向かって右手でなにやら合図を出した。あ、そういえば鐘が鳴ったんだったと急に日常に引き戻された私は本当は禁止されているのだがぎりぎり早歩きですと言い訳がきくくらいの速度で営庭へ向かった。






 毎日のように思っていることだけど兵士の自由時間はどうしてこんなに短いのだろう。訓練訓練訓練掃除掃除訓練と一日動き回ってぐったりになるのに割に合わない気がする。そんなささやかな愚痴も上官に聞かれたらやばいどころの騒ぎではないのでそっと心の引き出しにしまいこんでおき、私はその刹那ともいえる僅かな自由時間を読書にあてることにした。勉強家というわけでも読書家というわけでもないけれど、物語を読むのは好きだ。だが、人の少なくなった酒保でひっそりと本を広げたものの昼間のあのできごとが読書の邪魔をする。どうして尾形上等兵はすぐに目を逸らさなかったのか。もしかして……なんて自意識過剰な想像をしては頭を横に振る。きっと私は欲求不満なのだ。いやいかがわしい意味じゃなくて、要するに尾形上等兵との触れ合いが足りないのだ。言い直してみても結局いかがわしい雰囲気は払拭できなかったが少しでも尾形上等兵と会話できればこのもやもやがおさまってくれるのではないだろうかというミジンコ並みに僅かな希望を持った私はたった今開いたばかりの愛読書を閉じて酒保をあとにした。目指すは勿論、尾形上等兵である。

「尾形上等兵どこにいるか知らない?」

 闇雲に探しまくった昼間の自分を反省して、今度は手あたり次第聞き込み調査をして足取りを掴むことにした。知り合いを見つけては「尾形上等兵を知らないか」と聞きまくる私に何事かあったのかとみんな一様に怪訝な顔をしたが、こちとらそんな顔されるのには慣れっこなんじゃいとすまし顔で通した。6人目くらいのときだろうか、「尾形上等兵ならあそこにいるぞ」と指をさした先にはまさしく血眼になって探していた尾形上等兵がいた。

「尾形上等兵殿!」
「…………」
「何故無視するのですか!昼間はちゃんと目合わせてくれたのに!」
「……お前が何かしでかすと小言聞かされるのは俺だからな」
「そうなのですか?」
「お前、やんちゃしてるらしいな」
「いやしてないですって。やんちゃって、子供じゃないんですから」

 久しぶりの会話は拍子抜けするほど普通だった。ほらやっぱり欲求不満だっただけじゃないかと心の中の私にどや顔していたら現実の私もどうやらかなりムカつく顔をしていたらしく尾形上等兵が不愉快そうに眉間に皺を寄せた。そういえば訓練時代はよくこんな顔させたっけと、そこまで昔のことではないのに如何してかとても懐かしい気持ちになった。「何か用か」と尋ねられた私は言葉を詰まらせる。勢いで探しにきたのはいいのだけれど特に用事があったわけでなくとてもじゃないけど「貴方とお話ができないのが寂しくて来ちゃいました☆」なんて言えるわけがない。そしてそんな冗談みたいなこと言って尾形上等兵がどんな反応をするのか、想像しただけで恐ろしい。

「邪魔でもしにきたのか」
「そんなつもりは毛頭ありませんけど結果的にそうなっていたのだとしたら非常に申し訳なく思います」
「なんだ、俺がいなくなって寂しかったのか?」
「…………」
「……」
「な……っ」
「……勘弁しろよ、冗談だぞ」

 やばい、やばい、やばい!自身の顔に熱が集まるのが嫌という程よくわかる。いつもみたいに軽くあしらえばいいだけなのに、私の口はただ餌を求める金魚のようにパクパクと動き無駄にその辺の酸素を減らすだけだった。尾形上等兵は時たま変な冗談をいうけれどこれほど心臓に悪い冗談は珍しい。予想していた反応と違ったのか面倒臭そうにがりがりと頭をかき、私から目を逸らした。昼間とは大違いだ。それもこれも私が余計な感情を持ってしまったせいなのだが、こうあからさまな反応をされるのは辛いものがある。

「ハイハイそうですよ寂しかったんですよ!これで満足ですか?」
「何でお前がキレるんだよ」
「尾形上等兵が私の純情な乙女心を弄ぶから悪いんですー!」
「言ってて恥ずかしくないのか?」
「恥ずかしいに決まってるじゃないですか!」

 この第七師団のどこに純情な乙女がいるというのだ。少なくとも私ではないと胸を張って言えてしまう自分が悲しい。ともあれさきほどの気まずい雰囲気からは脱却できたことで私はそっと胸をなでおろした。

「ところで、尾形上等兵殿は女性に興味がないのですか?」
「おい、妙な言い方やめろ」
「尾形上等兵殿は女性と男性どちらに興味がおありなのですか?」
「……さっきと変わらねえだろ」
「私、尾形上等兵のことが好きかもしれないです」
「…………そうか」
「……それだけ、ですか」
「俺に何を期待しているんだ?」
「恥ずかしがり屋さんなのですか?」
「気持ちの悪い言い方するんじゃねえ」

 結構勇気のいる発言だったのに秒で流されてしまって若干カチンときたのでわざと尾形上等兵が嫌がりそうな言い方をしてみると期待通りすっごく嫌そうな顔をしてくれた。好き、なんて言葉にしてしまえばそれこそ秒で終わってしまうような儚い台詞だが声に出すのと出さないのでは全く違うように思えた。私は今とんでもない開放感を味わっている。この最上級の喜びを伝えたくてでも言葉にできずにっこり笑って見せたら「気持ちが悪い」と一蹴された。