世界が東雲に変わってゆく8

 抑揚なく「」と呼ぶ声が私の右耳から左耳へと抜けていった。声の聞こえた方に目を遣ると少しだけ不機嫌そうな尾形上等兵が立っていて私は吃驚して自分のほっぺたを限界まで引っ張った。

「……何してやがる」
「いや、夢かなと思って」
「寝ぼけてんのか?」
「わかりません」
「俺がぶん殴ってやろうか?」
「お願いします!」
「……」

 尾形上等兵のドン引きした視線がたまらない。そういった特殊な性癖を持ち合わせているわけではないのだけど、もう構ってもらえるならなんでもいいや的な半ば投げやりともいえる戦法に打って出た私が待ってましたとばかり食い気味にビンタをせがむとより一層尾形上等兵の眉間に皺が寄った。

「お前、変なものでも食ったのかよ」
「別に落ちてるあんぱんとかは食べてないですよ?」
「そういう意味じゃねぇ」

 どうやら頭の心配をされているみたいだったが残念ながら私は至って冷静である。先日の一件でふっきれた私はもう誤魔化すでも隠すでもなくおおっぴらに尾形上等兵尾形上等兵を連発しまくっていた。もちろん訓練の合間に尾形上等兵を探すことも忘れない。そうすると不思議なもので今まで死んでも認めてやるものかと意地を張っていた私は何処かへ飛んでいって、今ではすっかり素直に好意を認めた私がいつか来る突然の別れに備えて尾形上等兵の姿を目に焼き付けようと日々付きまといまがいのことを繰り返していた。「突然の別れ」なんて誰にでも訪れるものだ。珍しいもんじゃない。家族を突然失った私にはそれが痛いほどよくわかっている。たとえ戦争が起こらずとも、人間は死ぬのだ。病によって、災害によって、事故によって。もし私が尾形上等兵より先に最期を迎えることになったとしても目を閉じるその瞬間まで彼の姿を見ていたい、なんて言ったら兄はどう思うだろう。誰よりも長い間一緒にいた兄よりも尾形上等兵を選ぶなんて私は薄情な人間なのだろうか。

「ところで、自分に何か御用でしょうか」
「……お前が付きまとうお陰でこっちは迷惑している」
「一応ご迷惑にならないように遠くから眺めるだけにしてたのですが……」
「付きまとうのをやめろと言ってるんだ」
「それは承服できません」
「お前が素直に承服する場面を見たことがないんだが」
「いや、尾形上等兵殿以外には割と従順ですよ私」
「はったおすぞ」
「どうぞ遠慮なく!」

 目をきらきらさせながら両手を広げてみせるが、ビンタも鉄拳もなかなか飛んでこない。ただ尾形上等兵の海より深いため息が私たちの立つ廊下の隅に吸い込まれていくだけだった。今更だが尾形上等兵って面倒臭くなると「はったおすぞ」で済ますよね。まあ言わせてるのは私なんだけど。

「少しくらい大目に見てくださいよ、もうすぐお別れなんですから」

 口にするとなんだか寂しくなってきた私は泣きたいのを我慢して笑ってみせたけど泣くまいとするあまり目元に力が入ってしまったのでたぶん酷い顔をしていると思う。尾形上等兵は何か思案しているみたいに数秒私を見つめたあと「お前のくにはどこなんだ?」と尋ねた。尾形上等兵が……私に興味を示している……だと?そのことだけで私はこの人生に一片の悔いもない気分だったが浸っている間に興味を失くされては困ると思い「山向こうの小さい村ですよ」と答えた。その村にあった家はもうないのだけれど、屯田兵の兵村を故郷と呼んでいいものかわからなかったしもうないにしてもあの村は紛れもなく私の故郷なのだ。

「まあ、もう家族もいないのであとは兵村で余生を過ごすことになりますけど」
「余生っていう年じゃないだろ。何歳だお前」
「というわけで尾形上等兵殿も現役が終わったら私と暮らしませんか?」
「どうしてそうなる?」
「私は一家の大黒柱として、家を存続させるという使命があります……!」
「残念だが俺も長男だ」
「それなら仕方がないですね。私、尾形になります」
「大黒柱なんだろ、もっと粘れよ」

 家を守るつもりなどクソほどもない私は尾形上等兵が長男だという情報を聞いて即座に改姓の意思を示した。尾形……なんという甘美な響きだろう。正直ほんとうに尾形上等兵の嫁になれるとは思っていないけれど妄想するくらいは許してほしい。私はその思い出を兵村まで持って帰り、誰にも知られずひっそりと死んでいくのが将来の夢なのだ。我ながら笑えるくらい後ろ向きな夢だなと思うけど夢なんざ個人の自由だし誰にも文句は言わせない。まあ誰にも言ってないんだけど。もちろん尾形上等兵もそんな私の夢なんて知る由もないのでていうかそんな想像のつく人間がいるとは思わないけれど除隊後の身の振り方を聞かれるあたりなんやかんやで三十年式実包の重さくらいは優しさを向けてくれているらしい。

「お前、どうして陸軍に入ったんだ」
「それ初めて会った時に聞かれましたよ」
「……あの時は誤魔化しただろう」
「そうでしたっけ?」

 すっとぼけようとした私だったがじろりと睨まれ肩を竦める。この人はなんともない会話の一片ですら覚えていたりするから油断ならないのだ。前回の回答ではご満足頂けなかったようで、私は再度「何故陸軍に入隊したのか」という哲学的ともいえる難問に立ち向かうこととなった。どうしてといわれても、そこに山があったから……じゃなくて陸軍が私を呼んでいたからなのだけれどそんなこと言ったらまた睨まれそうなのでやめておこう。

「どうせあのまま生きていてもただ死ぬだけですからね。それなら意味のある死に方してやろうじゃんと思った次第なんですよ」
「陸軍でなくてもよかっただろう」
「日清戦争に出征した父がよく言っていました。人が死ぬのは順番が来た時だって」
「その順番を自分から早めようっていうのか?お前に被虐趣味があったとはな。分かってはいたが」
「人を変態みたいに言わんでください。否定はしませんが」
「お前は、普通の生き方をしようとは思わないのか」
「レールの敷かれた人生なんてクソくらえと思いませんか?私は思います」

 これ以上は無駄と判断したのか尾形上等兵が再び深いふかーいため息を吐いたのを見て私は勝利を確信した。一体何の勝負なのかと聞かれれば意地の張り合いとしか言いようがないのだが、口の達者な尾形上等兵に勝てる機会なんてそうそうないものだから拳を天に突き上げたい衝動を必死に抑え込む。

「軍にいるからといって、意味のある死に方ができるとは限らねぇぞ」
「私が陸軍に入って一番嬉しかったのは尾形上等兵と会えたことだから、すでに意味はありましたけどね。……ってこれ恥ずかしくないですか?やっぱ今のなしで」
「お前はもう少し、発言する前に思惟する癖を付けろ」