世界が東雲に変わってゆく6

 体力は他の兵卒と比べ著しく劣る為、保育班が妥当。
 忍耐力に関しては一定の評価を下し得る。
 尚、執銃教練において当該兵卒の射撃精度の高さは特筆に値すべきことを付記する。





 尾形上等兵からの報告を読み上げると、鶴見中尉は満足そうに口の端を釣り上げた。

一等卒の教育は順調なようだな」
「はい」
「尾形上等兵とも仲良くやっているようじゃないか」
「そのようです」
「体力面が心配なようだが」
「尾形上等兵の評価が適切でない可能性もあります」
「……もう暫くは様子見だな」

 数年前、北海道のとある村で一人の少女が父親に殺されかけるという事件が起こった。
 少女は兄の死後兵士となり、この第七師団へとやってきた。まさか兄の死までも思惑通りではないだろうが、一人の少女の人生を狂わせることなど、この死神にとっては容易いことなのだろう。の行く末を思うと、少しだけ憂鬱な気分になった。が尾形上等兵の射撃訓練を受けてから暫く経った頃、師団内には彼女の噂が広まっていた。それは「が尾形上等兵の射撃を超えた」だとか「尾形上等兵が唯一頭が上がらないのは一等卒だ」という尾形が聞いたら怒りそうなものばかりだ。当のに噂の真意を聞いてみても、満面の笑みで「頑張りました」と言うだけだった。……こいつの頑張りはいつも俺の考えもつかないような、斜め上方向に向かっているから油断ならん。信憑性の薄いくだらない噂はともかく、鶴見中尉の目論み通りの射撃は尾形上等兵の教育によって上達をしているらしい。これが喜ばしいことなのかは、俺には甚だ疑問だった。だが自身は割と楽しそうにしていたから、今はこれでいいのだろうと自分に言い聞かせた。

「月島軍曹殿、お茶を淹れました!」
「ああ、すまんな……」
「今日は美味しく淹れられた気がします!」
「……そうか」
「……何かありましたか?」
「いや……何もない」

 熱々の緑茶に口を付けると、丁度いい渋みが口内に広がった。茶なんて誰が淹れても変わらんだろうと思っていたが、が最初に淹れたのは酷いものだった。どうすればこんな味になるのか、逆に教えてほしいくらいだ。今日で確か3回目のはずだが、漸く俺の知っている緑茶の味になった。美味い、と呟くとが一層嬉しそうな顔をして、つい口元が緩む。この殺伐とした兵営の中で、自由気ままで喜怒哀楽のはっきりしているは異質な存在だ。それが俺の心を少しの間だけ温かくした。

「これで今度から俺の代わりに鶴見中尉に茶を淹れられるな」
「えっ……いや……それは、ちょっと……」
「お前はやけに鶴見中尉に怯えているようだな」
「自分は基本的に偉い人が苦手です」
「どうしてだ?」
「偉い人には敵わないからです」
「……そ、そうか……」
「でも月島軍曹殿はお優しいので好きです!」
「俺はいいのか」
「月島軍曹殿はお兄さんみたいで……って、すみませんこれ失礼ですよね!」
「いや、構わん」

 は決して弱いわけではない。庇護欲とは違う名前のつかない感覚を持っていたが、彼女の一言で腑に落ちた。自分も、のことを妹のように思っていたのかもしれない。鶴見中尉の謀略の果てに何が待ち受けているのか気になって仕方がないのもそのせいなのだろう。にこにこと笑う彼女に茶菓子を出すとこれまた嬉しそうに頬張った。

「尾形とは、うまくやっているのか」
「ぶ……っ、えほっ、うえ、」
「だ、大丈夫か?」
「あ……あはは、だだ、大丈夫です!問題ありません!おが、おが、た上等兵とも超仲良しです!」

 茶が気管に入ったのか、激しく咽こむの背中をさすった。様子がおかしい。超仲良しと言ってはいるが、喧嘩でもしたのだろうか。いや兵卒と仲良くしている尾形も喧嘩している尾形も想像つかないが。「もうばっちり、ノープログレムですよ!」と涙目で親指立てるのが実にわざとらしい。

「全然誤魔化せてないぞ」
「え……いや、別に誤魔化してるとかでは」
「まあ、言いたくないならいいんだ」
「…………最近、おかしいんです」
「なにがだ?」
「私の頭の八割、いや九割くらいを尾形上等兵が埋めてきて、寝ても覚めても尾形上等兵尾形上等兵尾形上等兵尾形上等兵尾形上等兵……」
「お、おい……」
「これもう病気ですよね?ちょっと一回お医者様に見てもらった方がいいですよね?頭の」
「……、」
「病気じゃないならあれです、尾形上等兵が私に嫌がらせの呪いをかけてるんですよきっと」
「少し落ち着け」

 の頭に軽く手刀を当てると漸く大人しくなったが、一転して今度は一言も喋らなくなる。俯く彼女を覗きこむと、その顔は赤く染まっていた。なるほど、そういうことか。この手の話に敏感なわけでもないが、解り易い反応を示すをみればきっと誰でも察しがつくだろう。別に隠すことではないと思うが。とは思いつつも、相手があの尾形となると少し不安ではある。

「馬鹿正直なのがお前のいいところだろう?」
「それ…………褒めてない、ですよね?」
「さあな」
「認めたら……私の中の何かが、駄目になる気がするんです」

 誰しも、悩みのひとつやふたつ、持っているものだ。はそういう弱味のようなものを人に見せなかった。一種の諦めのような、開き直りのような雰囲気を感じることは間々あったが、こんなに不安そうな顔は初めてだ。尾形も認める忍耐力は案外絶妙なバランスの上で成り立っているのかもしれない。だとしたら、尾形への好意を認めたとき彼女はどうなるのだろうか。様々な可能性が浮かぶものの、その背後には必ずあの死神の影がちらつくのだ。

彼女の世界が東雲に包まれればいいと願った