世界が東雲に変わってゆく4

 月島軍曹は、私の境遇を知っている数少ない下士官で、それゆえかいつも私の事を気にかけてくれていた。真面目な月島軍曹はいろいろ背負いこんでいそうな気がしたけど、お気遣いは素直に嬉しい。一回りくらい年の離れた彼のことを、私はもう一人の兄みたいに慕っていた。

「もう大分慣れたみたいだな」
「はい!おかげ様で。月島軍曹殿も、ほかの皆さんも、親切にしてくださってますので」
「……尾形は、どうだ?」
「どう、とは……?」
「いや……そうだな、尾形とは、うまくやっているのか」
「自分では結構そのつもりですが、尾形上等兵はどうでしょうね」

 尾形上等兵が私のことを直接的に褒めるようなことはなかったけど、私の教育成果報告では褒めていたらしい。私にはそれが信じられなくて月島軍曹に何度も聞き返したほどだ。

「体力面があまり芳しくないらしいな」
「う……まあ、そう、ですね」
「正直だな」
「嘘ついても無駄ですから」
「そうか」

 尾形上等兵に負けず劣らず無表情な月島軍曹がふと笑ったような気がした。でもこの人の笑顔は尾形上等兵とは違って穏やかだ。いつも見慣れているニヤニヤネチネチしたような爽やかさとは無縁の顔を思いだして首を振った。いつの間にか私の生活の七割くらいは尾形上等兵で占められていて、ふとした拍子に嫌でも顔を思いだすようになってしまった。一種の病気かもしれない。職業病みたいな。まあ性格は悪いけど悪い人じゃないと思う。……たぶん。ひとつ気になるのは師団内の視線だ。最初は新参者の私に向けられた好奇の視線だと思っていたのだけど、尾形上等兵単体でもそんな視線が注がれているのに気付いたのは割と早い時期だった。尾形上等兵は一匹狼ぽいし、友達というか親しい人もいなさそうだからなあ。なんて少し失礼なことも考えていた私の耳に飛び込んできたのは山猫という単語だ。それが陰口であることは明らかだろう。帝国陸軍もその辺の村と変わらないらしい。噂話が飛び交うのはどんな集団にも起こり得ることなのだ。でも、山猫って一体どういう意味なんだろう?考え込む私を見て月島軍曹が不思議そうな顔をしていた。月島軍曹も、尾形上等兵の陰口を知っているのだろうか。真面目な人だからきっとそんなくだらない陰口には乗らないと思っているけど。

「あの、山猫って……どういう意味かご存知ですか?」
「……尾形のことか。誰から聞いた?」
「いえ、周りの人が話しているのが偶然耳に入っただけで、誰とは」
「お前は気にしなくていい」
「でも良い意味じゃないんですよね?」

 そう言ったら月島軍曹は難しい顔をしてしまった。そんなに酷い意味があるのだろうかと首を傾げる。「猫」だけならなんとなくわかるんだけどなあ。尾形上等兵はどこか猫に似ているところがあると思う。気まぐれなところとか。わざわざ「山猫」と言われるのにはきっと何かしら理由があるはずだ。

「好奇心が強いのは、お前の良いところと悪いところだ」
「……まさか、それ知ったら消されたりします?」
「話が飛躍しすぎだ。どうしてそうなる」
「月島軍曹殿が意味深なこと言うから……」
「そ、そうか……すまん」
「あ、いえ、そんなつもりでは」

 尾形上等兵だったら負けずに応酬してくるところなんだけどと思いつつ、いつもの調子で軽口をたたいてしまったことを反省する。

「山猫は……芸者の隠語だ」
「……芸者、」

 呟いた言葉が私の全身に染み渡る頃、最初に頭に浮かんだのは尾形上等兵の顔だった。時折闇を孕んだ背筋の凍るような目をすることがある。銃を撃つ時とは違うそれは私を怖いというよりも寂しい気持ちにさせた。尾形上等兵をこの深淵からすくい上げることはできないだろうかと考えたこともあるけど、彼はそんなこと望んでいないような気がする。それに陰口なんて尾形上等兵には痛くもかゆくもなさそうだ。根拠はないけれど、きっと他のなにかがあるのだと思う。私がそれを知ることは一生ないのだろうと思うと、少しだけ胸が苦しくなった。





 屯田兵の兵村にはなかったものがある。酒保と呼ばれる売店だ。日用品だとか、飲食物だとか生活に必要なものが割とお安く手に入るらしい。尾形上等兵に連れられてやってきた酒保ではたくさんの兵士が思い思いにすごしていた。きょろきょろと目移りする私は尾形上等兵に「うろちょろするな」と首根っこを掴まれ、その辺の席に座らされる。私の購入した選りすぐりの甘味をテーブルに広げると、尾形上等兵が眉を潜めた。

「……甘党のやつの気が知れん」
「尾形上等兵殿は甘味が苦手なのですか?」
「自分で買うことはない」
「おひとつ如何ですか?」
「いらん」

 お饅頭を差し出したけど拒否されてしまった。むう、と子供のように膨れてみせたけど、冷たい視線が突き刺さっただけだった。思う存分甘いものを頬張る私に対して尾形上等兵はサイダーを一本、ちびちびと飲んでいる。私は騙されないぞ、そのサイダーは甘くないサイダーだ。昔飲んだサイダーが全然甘くなくて落胆したのを思い出し、苦い記憶を甘いあんぱんで中和した。尾形上等兵が厠へ行くといって席を外したあと、見計らったように知らない古年兵に話しかけられ私は顔を上げる。

「お前が最近入った一等卒か」
「……は、はあ」
「あの尾形がつきっきりとか大変だな」
「そう、ですかね?」
「あいつ、性格悪いだろ?」
「いや……まだわからないです。お会いしたばかりですので」
「じゃあ尾形の噂もまだ知らないのか」

 内務班では見ていない顔だが、同じ聯隊の人だろうか?ニヤニヤしながら話すその男は、私が何も言っていないのにぺらぺらと尾形上等兵の身の上話を語り出した。聞いてはいけない筈なのに、止めてくださいの一言が出てこない。どうしていいのかわからず、口に含んだままのあんぱんの味もわからなくなる。何故、この人は楽しくもなんともない話をにやけながら話せるのだろう。

「あんな山猫野郎と一緒なんてかわいそうにな」
「そんなことないです!」

 はっと我に返ると、周りにいた兵士たちが私たちに注目していて、さっきまでざわざわとしていた酒保はしんと静まり返っていた。しまった。顔から血の気がさっと引く感覚がして、何と続けようか思案する。

「話は終わったのか」

 静寂を切り裂くその声の主は、まさに今話題の渦中にいた男だった。振り返った先、私の背後に立っていた尾形上等兵はぞっとするほど冷たい目をしていた。その目は私に向けられたものではなかったけれど、銃を撃つ時と似た氷のような目に圧倒され、体が動かなくなる。尾形上等兵にちらりと見下ろされた私は反射的に肩をびくりと揺らしてしまった。

「邪魔して悪いが、こいつのお守りを任されてるんでな、話はまた今度にしてくれ。いくぞ、
「……は、はい」

 心なしか早足の尾形上等兵を小走りで追いかける。かなり離れたところまできたけど尾形上等兵は止まらず、どこまで行くのだろうかと不安になって彼の軍服を掴んだ。少し乱れた息のおかげで弱弱しい声しかでなかったけど、「尾形上等兵殿」と呼びかけたら案外あっさりと足を止めてくれた。……呼び止めたのはいいのだけど、何を言ったらいいのかがわからない。

「あ、……えっと、私……その」
「なんだよ」
「私……猫好きですよ!」
「は?」
「……」
「……」
「…………すみません、やっぱ今のなしで!」
「はったおすぞ」
「よ、要するにですね……あの、私、猫は好きなので、尾形上等兵も嫌いじゃない……かも?」
「おい、何で疑問形なんだ」
「だって尾形上等兵殿は口悪いし性格だって良いとはいえないし……でも、私に何かできることがあるならしたいんです」

 言いたいことのまとまらない私の支離滅裂な発言をじっと聞いていた尾形上等兵は、上衣を掴んでいた私の手に自分の右手を重ねた。知らないうちに力が入っていた私の手はがっちりと上衣を掴んでいて、尾形上等兵がその指を一本一本解いていく。やばい、これ絶対皺になってる。ちらっと尾形上等兵の表情を伺ったけどいつも通りの無表情だったから今何を考えているのかはわからなかった。漸く上衣と分離した私の右手は、何故か尾形上等兵にそのままぎゅっと握られてしまう。

「お、尾形上等兵殿……?上衣、皺になったの怒ってます?」

 このまま握り潰されたりしないよね?と心配で心臓がどきどきと音を立てた。沈黙を貫く尾形上等兵は私の右手に視線を落としたまま動かない。少しだけ持ち上げた私の手を自分の指で撫でるようにして触っているだけだ。生傷の絶えない私の手は、とてもじゃないけど綺麗とはいえないだろう。そんなものをまじまじと見て一体何を考えているというのだろうか。随分長い時間そうしていたように感じて、そろそろ戻った方がいいのではと思い始めた時、漸く私の手が解放された。吃驚して尾形上等兵を見上げたらその瞳からはもう先ほどみたいな仄暗さは感じられなくて、少しほっとする。


「なんでしょう」
「貴様にできることはない」
「……全否定しなくてもいいじゃないですか」
「思い上がるのも大概にしろよ」

 戻るぞ、と営庭へ足を向けた尾形上等兵の背中に向けてひとつ決心をした。あの人を超えようとは思わない。いや、色んな意味で超えられないと思うけど。私は尾形上等兵の自慢の弟子になって、そして、尾形上等兵が育てたの名前をこの第七師団に広めてやろう。悪い噂は無くならなくても、それを上回るような良い噂を作ればいいのだ。……きっとこれも私の自己満足に違いないと思う。もしかしたら尾形上等兵の為といいながらも自分の為なのかもしれない。

 だけど私にできることがないなんて、まだわからないじゃないか。