啓明からの距離4

「惨敗でしたね」
「……」
「白石さんなんて、一撃でしたし」
「……」
「あっでも、そのおかげで怪我は軽い……」
「尾形ちゃん!ちょっとちゃん止めてぇ!この子傷口を抉ったうえで塩を塗り込んでくるんだけど!?」
「尾形上等兵殿は大健闘でしたね!流石です!!」
「しかもえこ贔屓が露骨!」

 えこ贔屓だなんて人聞きの悪い。白石さんの反応が面白くてちょっとからかってみただけで他意はないというのに。そう、断じて他意などない。実際、あの体の大きなロシア人に素手で立ち向かう度胸なんて私にはこれっぽっちもないので、あの土俵に上がったというだけで白石さんも十分尊敬に値するのである。まあ惨敗したのは事実なのだけど。そのせいかは不明だが結局入墨の囚人は現れることはなかった。すちぇんかに参加した彼ら3人は全員もれなく死んだように眠っていたので(気絶していたともいう)、代わりに私とアシリパさんとで観客たちを注意深く観察していたが、それらしき人物は一人も見当たらなかったのである。赤く腫れあがった白石さんの頬にアシリパさんお手製の湿布を貼ると、傷に沁みたのかわずかに顔を歪ませた。尾形上等兵も口の中を切っていたようだが「舐めときゃ治る」などと宣い、誰にも触らせなかった。キロランケさんもアシリパさんから治療を受けている。

「どうするんだ?キロランケニシパ」
「……もう一晩待とう」

 すちぇんかの試合は明日も行われる。決勝戦らしい。そこに現れなければ潔く諦め、先に進むということで話は着地した。手持ちの刺青人皮(といってもそのほとんどが杉元さんと土方さんの獲得したものだが)を全部失った私たちは今不利な状況にある。鶴見中尉はきっと既に刺青の暗号解読を開始しているだろう。今更刺青人皮が一枚手に入ったところで、この状況をまるっとひっくり返すような起爆剤になり得るのだろうか。そんな疑問を抱きつつ、キロランケさんにはなにか勝算があるらしい……ということだけは察して彼に賛成した。私たちは鶴見中尉の先を越さなければならない。それは達成不可能に近い目標だった。果たしてその確率は……いや、やってみなければわからないのだから考えるのはやめておこう。
 その日は村にある簡易的な宿泊所に泊まることとなった。北海道にも洋風のホテルはいくつかあるし、泊まったこともある。だがそれは観光客用のものばかりだ。この村はそのような客を想定していないらしく、小さく区切られた部屋は埃っぽいベッドに小さな台、古びたランプといった最低限の家具が備わっているだけだった。……たしかに、観光で滞在するには殺風景すぎる村なので、きっと酩酊して自力で家にも帰れないような男たちが主に利用するのだろう、と推測する。その簡易ベッドの上に荷物を広げ、点検をすることにした。小銃と一葉の写真だけを持って病院から脱走してきた頃を思えば、随分と大荷物になったものだ。実包や小刀等の装備はもちろん、手ぬぐいや石鹸、肩掛けなんかまである。その資金の主な出所は土方さんだった。彼は無事だろうか。安否のわからない顔ぶれを思い浮かべては消し、思い浮かべては消し……を繰り返しながら、買い足さなければならない日用品を小さな手帳に書き留めておく。終わる頃には日付が変わる直前だった。ずいぶん集中していたらしい。両隣の尾形上等兵とキロランケさんはもう寝ているだろうか?私は壁の薄さを心配しながらなるべく音を立てずに就寝の準備を整え、ランプを消して布団へと潜り込んだ。






***





「この先の小屋に面白いものがあるぞ」

 翌日の試合の前、キロランケさんが近隣のロシア人から聞いてきた情報を楽しそうに話す。なんでも村から外れた池の近くに小屋が1件、ぽつんと建っているらしい。そこはロシア式の蒸し風呂が設置されている……と。

「スチェンカが始まるまでまだ時間があるし、せっかくここまで来たんだ。どうだお前らも」

 ロシア式蒸し風呂とはどんなものなのか想像もつかない。だがこの機会を逃せば永久にそれを体験できない気がしたので「行きます!」と元気よく立候補した。いや、したはずだった。発声しようとしたまさにその瞬間、大きな掌が私の口をすっぽりと覆ってしまったのである。おかげで私の口から出たのは言葉にもならないような情けない唸り声だけだった。

「馬鹿か、お前は……」
「もまあもおえ」
「あ?なに言ってんのかわかんねえよ」

 そりゃあ貴方が私の口を塞いでますからね!と抗議することもままならない。私の後ろに立つ尾形上等兵の顔は見えないものの、やけに楽しそうなのはたしかだ。

、お前男どもと一緒に入るつもりか?」

 と、楽しそうな声色が急に引っ込んで、ぴんと空気が張りつめる。私は雰囲気に呑まれながらもこくりと頷いた。彼がなにを言いたいのかはかりかねる。

「……ここは陸軍じゃねえんだぞ」

 めちゃくちゃ怒ってる。声だけでそれを悟り、思わずぎくりとした。ようやく私の口から手を退けた尾形上等兵を振り返ると、やっぱり眉間に皺が寄っていた。

「……わ、わかってますけど……」
「わかってねえからついてこようとしてるんだろうが」
「え、でも、」
「でもじゃねえよ。お前、軍を抜けたんだろ?それとも、金塊が見つかったらまた戻るつもりなのか?違うならもうちょっとそれらしく振舞え」

 たしかに、軍を抜けた、と自称している割には中途半端に軍隊気質が残っているきらいはある。だが長年の生活で身に付いた習慣というのはそう簡単に変えられるものではない。私が尾形上等兵をいまだに「尾形上等兵殿」と呼んでしまうのも然り、である。

「わかったら返事をしろ」
「……でも、それだと私は蒸し風呂に入れな」
「わかったのか、わからないのか、どっちだ?
「……う、わ、わかりました!」

 私は尾形上等兵の意思が金剛石よりも固いことを確信し、白旗を揚げる。

「尾形も大概、過保護だな……」

 後方からキロランケさんの呆れたようなボヤキが耳に入った。いつもなら「ああ、あの尾形上等兵が私を心配してくれているなんて」と感激していたかもしれないが、ロシア式蒸し風呂という未知の体験の機会が潰えたことと天秤にかけるとどうにもがっかり感は否めない。

「まあ、これが最後の機会というわけじゃないさ」

 笑いを堪えるキロランケさんに慰められ、私は渋々ながらも頷いた。そうだ、これが最後じゃない。しばらくはこの樺太を旅することになるのだろうから、またその機会が巡ってくる可能性もゼロではない。
 男衆が揃って蒸し風呂のある小屋へと向かうと、私は忽ち手持無沙汰になってしまったので、気まぐれに銃の手入れをして時間を潰すことにした。思えばこの小銃も最後に使ったのはかなり前のような気がする。もちろん平時であれば現役兵といえども発砲の機会などそうあるものではないが、入植してから今まで、ほとんどの時間を一緒に過ごしてきたこの三十年式小銃は最早自分自身でもあった。よく見れば銃身には知らないうちに付いた無数の傷が細い窪みを作っている。この銃は、私と共に戦うだけでなく、私を守るものでもあったのだ。軍病院を脱走してきてからは目立たないよう包みで覆ってあった。ただでさえ今の私には特徴が多すぎる。男のような短髪に制式銃など背負っていては、いくら服装は女物とはいえ、鶴見中尉の部下ならすぐに私の正体に気付いてしまうだろう。ふと自分の襟足に手を当てると、あの頃より少しだけ髪が伸びていた。以前なら切らないと落ち着かなかったはずなのに、なんだか今は妙にじれったい。明日になったらこの短髪が肩まで伸びていたらいいのに……そうしたらこの歯痒い気持ちも消えるだろうか。

「それらしい振る舞いって、なんだろう」

 私は手にした銃に向かって独り言つ。陸軍で求められる振る舞いと尾形上等兵の言うそれが違うのは私にもわかっている。わかってはいても、できるかできないかはまた別の問題だ。私は第七師団で唯一の女性兵士だった。北海道のどの兵営にも男女の区切りなどなく、あらゆる場面で恥じらう暇も躊躇う暇もなかった。気にしたら負け、というやつだ。そんな環境で何年も過ごせば世間一般の「女性」とはどんどんかけ離れていくのも当然のことだろう。自分以外の女性兵士はどうだったのか、こんなことなら聞いておけばよかった。たしか全国に数名いるという噂を聞いたことがある。もちろん顔を合わせたことはなかったが、同胞の存在を知っただけでも当時は心強く思ったものだ。
 物思いに耽っているうちに、辺りは真っ暗になっていた。私はそれに気付いて立ち上がる。もう試合の始まる時間だ。いや、もしかしたら既に始まっているかもしれない。慌てて手荷物をまとめて試合の行われている例の小屋へ行くと、入口で固まっている集団が目に入った。紛れもなく尾形上等兵たちである。「お、来た来た」と白石さんがこちらへ手を振った。今日の試合はまだ始まっていないらしい。キロランケさんからそれを聞き、遅刻していなかったことに安堵する。

「入墨の囚人……現れるでしょうか」
「……どちらにせよ、明日の朝ここを発とう。ずっと留まっているわけにもいかないからな」

 私は昨日と同様に、観客の中へと目を走らせる。白石さんが思い当たる入墨の囚人の特徴とは、牛山さんのように日本人離れした大柄な体格を持ち、一目で「違う」とわかる人物らしい。……日本人離れした、といってもここにはロシア人も多く居るので、大柄な男性だからといって特別目立つというわけでもない。それにこの会場の照明は薄暗く、遠くからでは顔もはっきりとは見えないし。視力にはそれなりに自信があるものの人探しとなるとまた話は別だ。私は手で庇を作りつつ白石さんから聞いた男の特徴を呟きながら会場内を隈なく見渡していたが、隣に戻って来たアシリパさんが「、今日はあの組がねらい目らしいぞ!」などと興奮した様子で参加者の解説をし始めた。彼女の熱弁に耳を傾けているうちに私もすっかり試合に夢中になってしまったのは内緒だ。