「情報集めはあの二人にまかせてお茶しようぜ、アシリパちゃん、ちゃん」
ロシア語のわからない私が居たところでなんの役にも立たないだろう。そう思った私は白石さんの誘いに乗ってアシリパさんとともに村の酒場へ入った。静かな村だ。先日滞在したアイヌの集落と違って、外を出歩く人はほとんどない。こんなところに刺青の囚人なんて本当に居るのだろうか。それにここはロシア人の村だというから、日本人なら猶更目立ってしまいそうな気もするけれど。キロランケさんからは「なにか飲むなら『チャイ』にしておくといい」と事前に言われていた。私たちは『チャイ』が何なのかもわからないまま酒場の主人にその通り注文をする。というより、献立表はすべてロシア語だったのでそれ以外に選択肢はなかった。とりあえずヤケクソ気味に「チャイプリーズ!チャイチャイ!」と白石さんと一緒に連呼したが、酒場のおじさんはこくりと頷いてくれた。これはロシア語じゃなくてアメリカ語じゃないかと後から気付いたがまあ通じたようなのでよしとしよう。
数分後、変わった香りのお茶が私たちの前に運ばれてきた。紅茶、だろうか。以前鶴見中尉のところでご馳走になったのと少し似ているような気がする。ただ味も香りもあの時のものよりもっと癖があった。私は周囲から向けられる視線を気にしないように努めて、香ばしいお茶の香りを鼻腔から肺へと送り込む。客は私たちの他に3人居た。そして全員が真昼間から酒盛りをしていた。そばを通った時に感じた酒臭さからして、相当飲んでいるようだ。私は彼らとうっかり目を合わせて絡まれてしまわないよう気を付けながら、紅茶に口を付ける。
「このお茶美味しいですよ、アシリパさん」
「……」
声をかけてみたもののアシリパさんは膝の上で拳を握りしめたまま動かなくて、白石さんとこっそり目を見合わせる。やはり元気を取り戻すにはまだ時間が足りないようだ。自分のときはどうだっただろうと、私は兄が死んだ当時のことを振り返ってみた。これまではあまり考えないようにしていたことだ。血色を失くし、土気色になった兄。狭い箱に詰め込まれた兄が炎に包まれ灰になっていく様を見送っていた自分がなにを考えていたのか、今となっては思い出せない。無理やり言葉にするならば、すべてが夢のようだった。これは悪い夢だ。きっと朝になれば優しい兄がいつものように私を起こしてくれる。「、もうとっくに起きる時間だよ」と困ったように笑いながら私の布団を引っぺがすのだ。そうやって毎朝兄を待っているうちに私自身が屯田兵になった。当然兄は迎えに来なかったが、あの現実逃避する暇もないほど忙しい日々が結果的に私を救ってくれたような気もする。もちろん彼女と私とでは状況が違うことは理解している。大切な人を二人同時に失うのがどれほど辛いことか、私には想像もできない。どんな言葉を掛けてもすべてが上辺だけになってしまいそうで怖かった。私はいつまで経っても無力だ。
「今はまだ第七師団がいるだろうからさ、ほとぼりが冷めたら遺体がどうなったか探そうよ。あんまりくよくよしてたら体に良くないぜ」
白石さんがお茶をフーフーしつつアシリパさんを励ました。自分も手伝います、と賛同しようとして口を噤む。手伝える……だろうか。アシリパさんを元気付けたいのは嘘じゃない。でも、だからといって安易な口約束をしても良いものかと一瞬迷って言葉を詰まらせた。私は「尾形上等兵についてきた」のだ。彼の目的はまだわからない。今はこうしてキロランケさんやアシリパさんたちと手を組んでいるけれど、この関係はいつ破綻してもおかしくないほど脆いものだ。そして、もしそうなれば私は迷わず尾形上等兵に付く。
「アチャが死んだのは一度乗り越えてたことだ……でもアチャがアイヌを裏切ったことはどうやって乗り越えればいいのかわからない」
途中からこの旅に飛び入り参加した私にはところどころわからない部分がある。たぶん、言わなくて正解だった。私は彼女たちの仲間にはなり得ない。彼らと私たちの間には、目には見えない壁のようなものがたしかに存在している。今のやり取りで私はそれを確信した。
白石さんの励ましに便乗する隙を伺っているうちに、アシリパさんの顔にも微笑が浮かんだ。二人はまだ、杉元さんの生存を信じている。そうであってほしいという願望も含まれているのだろう。頭を撃たれたというのだから死んでいても驚くことではない。が、私もあの杉元さんならもしかして……なんて根拠もなく考えてしまうのだった。
「ちゃんは北海道に戻ったあとどうするか決めてんの?」
急に話題を向けられ、私は少なからず動揺した。思えば自分は天涯孤独になってからずっと刹那的に生きてきた気がする。「これからどうしよう」だなんて考えず、明日のことすら思い浮かばず、ただ息をしてきた。そんな無意味な人生を変えてくれたのが尾形上等兵だ。漠然と、ではあるけれど、私に生きる目的をくれた。
「もちろん尾形上等兵についていきますよ、私は」
「はは……ちゃんのそのブレないところ、好きだよ」
「ここまで来たら意地でも食らいついていくつもりです!他に行くところもないですし……」
「はいつも真っすぐだな」
真っすぐ、だなんてかなり好意的な解釈だ。どちらかというと四面楚歌的な意味合いが大きいのだけど、否定はしないでおく。
暫くすると聞き込みを終えた尾形上等兵とキロランケさんも酒場にやってきて、私たちの机はたちまち大所帯になった。キロランケさんは追加の注文のついでに、酒場の主人となにか立ち話をしている。
「尾形ちゃん、なにか収穫あった?」
「いや……」
残念でもなんでもなさそうな表情で尾形上等兵が答えた。席を詰めると、尾形上等兵が私の隣に座る。そしてカップを手に戻って来たキロランケさんも、そのもう一つ向こうの席に着いた。一服がてら、ここで作戦会議をしようということらしい。
「すちぇんか?」
「ロシアの伝統的な格闘技……試合だ」
「それがどうしたの?」
「そこに時々、変わった刺青の日本人が参加しているらしい」
「脱獄囚……でしょうか」
「それはまだわからん。まずはそいつの刺青を確認しよう」
「……どうやって?」
「俺たちでスチェンカに参加する」
「……は?」
「俺たち……って……私たち全員、ですか!?」
「いやいや、スチェンカの参加資格はな、強い男なんだ。出るのは俺と、白石と、尾形の3人だ」
「強い男」……キロランケさんの言葉を聞いた瞬間、私は反射的に白石さんを見た。彼は逃げる能力に特化していて、直接的な戦闘に加わったところを見たことがない。それに年少の頃から収監されていた囚人のプロフェッショナルで、兵役の経験もないというし……ロシア人と対等に戦えるとはとても思えないのだけど。私の不安そうな視線に気付いた白石さんだがその意味までは理解していないらしく、親指を立てながらバッチンと片目を閉じた。……不安だ。
そんな私の心配を他所に、キロランケさんはさっそく今夜催されるというすちぇんかに参加の登録をしてしまった。白石さんは当初反対していたけれど「賞金がもらえる」という情報を聞くや否やくるりと掌を返し、紐を相手に攻撃を躱す訓練を始めたのだった。
「結局すちぇんかってなにをする試合なんですか?」
戦うことはわかったのだけど、柔道とかそんな感じのものだろうか。当事者のはずなのに白石さんとは違って参加に異議を申し立てず、かといって賛成もしない尾形上等兵に尋ねてみる。
「拳でやりあう競技、だそうだ」
「うわ……痛そう……尾形上等兵殿、大丈夫ですか?」
「……なにがだよ。主語を言わんと答えようがねえだろ」
「いや、その顔の傷……開いたりしませんよね?」
「跡が残っているだけだ。傷はもう完全に塞がってる」
「なら、いいんですけど……」
どうやら彼の顔に残る手術跡は一生消えないものらしい。日常生活に支障がないのは今までの尾形上等兵を見ていればわかるのだけど、やっぱり気になるものは気になる。しかし、自分がいくら心配したところで当の本人はまるで気にする様子もない。正に豆腐に鎹といった感じなのでもう諦めるほかないようだ。
噂のすちぇんかとやらが行われている小屋は歓声と熱気に包まれていた。柵に囲まれた中で、上半身裸の男たちが壮絶な殴り合いをしている。やっぱり痛そう。私はその痛みを想像して顔を歪ませる。幸い自分の顔面に拳を入れられた経験はないものの、聞こえてくるのは「バキッ」だとか「ドゴッ」という明らかに痛そうな擬音ばかりだ。若干引き気味でその光景を眺めている私のもとに準備万端な尾形上等兵がやってきて、三八を押し付けてきた。
「おい、俺の銃はお前が持っていろ」
「わかりました」
「もしこれを失くしたら、お前の銃をもらうからな」
「……な、失くしたりなんてしませんよ!」
私を信用して託しているのかイヤイヤ預けているのかどっちだろう。すごく気にはなるけれど怖くて確かめられない。とにかく、私には試合が終わるまで尾形上等兵の小銃をなにがあっても死守する、という使命ができた。これは責任重大だ。私個人としては、目の前で繰り広げられる試合より重要だと言っても過言ではない。と、どこかへ行っていたアシリパさんが私のそばに戻って来た。厠かと思っていたが、彼女の右手に握られた紙片を見るにどうやらその予想は外れているらしい。
「、この試合は賭けができるらしいぞ」
「えっ……まさかアシリパさん、誰かに賭けるつもりですか!?」
「ああ。もちろんキロランケニシパたちに、だ」
アシリパさんがいつもの元気を少しだけ取り戻したようで嬉しい気持ちと、果たして屈強なロシア人に拳で勝つことができるのだろうかという不安がごちゃごちゃと胸中に渦巻く。だって、参加者のロシア人はみんな谷垣みたいなムキムキの大男ばかりだ。対して私たちの方は……。ま、まあ、実は秘められた力があるのかもしれないし、一応仲間なのだから自分も彼らを信じよう。私は荷物番をしながら、柵の中で対峙する尾形上等兵たちとロシア人の男たちを見守った。
「Bнивание!Бей!」
審判らしきおじさんの掛け声とともに、戦いの火蓋が切られる。