結局刺青人皮を手に入れるどころかその持ち主にもお目にかかれなかったわけだが、私たちは案外気落ちもせず村を出発した。当初からおまけの意味合いが強かったせいもあるだろう。私はそれよりむしろロシア式蒸し風呂への未練の方が大きい。あのあと「夜中に一人で行けばいいじゃん!」と思いついたものの、試合観戦の興奮もあってすっかり忘れてしまい、結局朝までぐっすり寝こけていたのだから我ながら間抜けもいいところである。尾形上等兵たちにはこのことを宣言していなかったため醜態がバレずに済んだのは幸いだったが。
途中立ち寄った海で、私が何人居ても足りないくらい大きなトドを仕留めた。アシリパさんとキロランケさんがその場で解体を始める。彼女たちの間では「エタシペ」と呼ばれているらしい。私は尾形上等兵と並んで後方からその華麗な手さばきを見守った。トドがあっという間に内臓、皮、肉へと変わっていく。アシリパさんたちはトドを食べないのだろうか。そんなことを思っていたら切り分けられた脂身を目の前に差し出された。
「ほら、も食べてみろ」
「いただきます」
全員に振舞われたトドの脂身は珍味のようだが正直癖がすごい。これを美味しいと思えないのは私の舌が貧乏だからなのか、それとも普通の感覚なのか。ちらりと横を伺うが、白石さんも美味しそうに食べているようには見えなかった。尾形上等兵は……いつもの食事時と変わらず無表情で咀嚼していたかと思えば「ヴェッ」と聞いたことのない声を上げていた。
トド捕獲に至った理由は私たちの路銀の少なさである。今回は食すための漁ではない。まあ脂身のつまみ食いはしたけれど。
キロランケさんの交渉の結果、樺太アイヌのおじさんがトドの皮をなにかと交換してくれることになった。そして、そのほかの内臓やら肉やらも買い取ってもらえるあてがあるらしい。
「現金が必要だもんなぁ。小遣いくれるジイちゃんももういないし」
きっと白石さんが今思い浮かべているのは土方さんだ。かくいう私も時々お小遣いをもらっていた一人だった。決して自分からおねだりなどはしていないが。しかし、土方さんは箱館戦争のあと脱獄するまでずっと収監されていたと聞いたが……一体どこにこんな財力があったのか。
馬に大荷物を引かせてやってきたのは狐の飼育場だった。広い敷地にいくつもの檻が設置され、その中には黒い狐が入れられている。どうやらトド肉はこの狐たちの胃に収まるらしい。
「私、黒い狐なんて初めて見ました」
「自由に見てっていいよ。でも、手は入れないようにな。噛まれたら大変だから」
「ありがとうございます!」
「。あまり遠くへ行くなよ」
「はい」
おじさんの許可をもらってでは早速と一歩踏み出した私に尾形上等兵がくぎを刺す。暗に「迷子になるなよ」と言われていることはすぐに察した。いやこんな場所で迷子になるだなんてそんなばかな……だが過去の実績がある私に笑い飛ばすという選択肢はなく、余計な口答えはせず素直に頷いておくことにした。尾形上等兵に言われた通り、黒い狐たちを檻ごしに観察しながらも彼の姿が見えなくなるほど遠くへは行かない。北海道にも狐はいる。だが、幼い頃から「狐には近づくな、餌をやるな」と父や兄から口酸っぱく言われていた私にはこれほど間近で狐を観察したことはなく、貴重な体験だった。あれほど接近禁止令を出されていたものだからどんな怖い動物なのかと思っていたが案外可愛い顔をしている。しかし親しみを感じると同時に「食べたら美味しいのかな」などと頭の隅で考えてしまっていた。あとでアシリパさんに聞いてみよう。
「ちゃーん」
遠くから白石さんが手を振っている。用事は全て済んだのかなと思いながら駆け寄った。
「出発だって」
「わかりました」
「狐を見て回ってたの?」
「はい。結構可愛いですよね」
「、狐はあまり美味くないぞ」
「あ……そうなんですか」
そんなに食べたそうな顔をしていただろうか。いや確かに聞いてみようとは思っていたのだけど……ともあれ、私にまた食料の知識が増えた。
「犬橇に乗って国境の近くまで一気に進むぞ」
無事買い取りが済んだのですぐに養狐場を発つ。なんともせわしないが、まあ観光で来たわけではないし……と自分に言い聞かせる。捕獲したトドをまるまる売ったおかげで僅かながら資金を手に入れた私たちは、樺太アイヌのおじさんを雇った。犬橇で樺太を縦断してしまうという計画だ。雪国生まれ雪国育ちといえども、雪道を長距離歩くのは中々にしんどいので個人的にも大賛成である。
「もしかして、国境を超えるんですか……?」
不安になり、私はみんなから少し離れた位置でこっそりと尾形上等兵に耳打ちする。
「嫌ならお前だけ戻れ」
「そ、それも嫌ですけど……」
「大体、この旅にお前がついてくる必要もないしな」
「そんなあ……」
「早いところ抜けておけばよかった、と後悔することになるかもしれんぞ」
「でも、まだ尾形上等兵に聞きたいこともあるし」
「……ああ、そうだったな。なにが知りたい?」
そうやって改めて聞かれると、考えがまとまらない。教えてほしいことはたくさんあった。どうして尾形上等兵は第七師団を離れ一人で金塊を追っているのか。どうして私の父のことを知っているのか。どうして私を故郷へ帰そうとするのか。なにを成し遂げようとしているのか……。聞いてしまったら後悔しそうで怖い、というのもある。果たして私は真実を真正面から受け入れられるのだろうか。
「聞いても……もう『故郷へ帰れ』とか言わないでくれます?」
「……」
尾形上等兵は無言のまま、その大きな手で私の頬を包み込んだ。こめかみあたりをゆっくりと確かめるように指先がなぞっていく。まったく意図がわからない。先ほどの質問となにか関係があるとは思えないのだけど。でも少しだけ嬉しい。
「この傷、どこでついた?」
「えっ」
その場所には覚えがある。夕張での任務で撃たれた傷があったはずだ。大した傷でもなかったので最近では気にすることもなくなっていたけど、意外にもまだ傷跡は消えていないらしい。
「これは……尾形上等兵殿がいなくなった後の任務でちょっと」
「夕張だろ?」
「……」
「なんだ、忘れちまったのか?」
そして私がこの傷を思い出すとき、必ず尾形上等兵と足を斬られた二階堂の姿も一緒に浮かんでくるのだった。二階堂はともかく、その場に居たかどうかも定かでない尾形上等兵の姿を思い出すのは何故か。
「…………やっぱり、あれは尾形上等兵殿だったんですね」
「ああ。俺はお前を認識したうえで撃った。どういうことかわかるか?」
「……いいえ」
「お前を殺すつもりで撃った、という意味だ」
私にとってこれほどなく非情な台詞が寒風と一緒に耳をすり抜けていった。淡々と告げる尾形上等兵の表情はいつもと変わらなくて、この期に及んで私はまだ嘘であってほしいと思っている。だがあの日は真昼間だった。個人の顔の識別はできなくとも、所作に癖があればいくらでも判別方法はある。「は目立ちすぎる」というのが聯隊内での共通認識だった。たしかに賑やかしは得意ですけど……と思っていたがそうではなかった。周囲と全く同じ見た目に揃えようとも、自分とそれ以外では明確な体格差があるらしい。一緒に過ごした時間の長い尾形上等兵なら猶更、すぐにわかっても不思議はなかった。
「それでもまだ俺についてくると言えるのか?」
この問いかけに対しての答えを私はまだ持っていない。世界を敵に回しても、だなんて威勢の良いことを言っておきながらなんという体たらくだ。「勿論です!」と即答できない時点で私は彼の追っかけ失格である。
「なあ、」